「…エト、その、白いのと、こっちのやつ……
 フィムが指さしたのは、スポンジケーキに白いクリームと一切れの果物らしいオレンジ色のものが乗っている丸いのと、全体を茶色の甘いクリームで包み込み、てっぺんに木の実を乗せてあるものとの二つだった。ファンカーはその二つを小皿に乗せてフィムの前に差し出した。そして、ティーポットを手に取りフィムの前に置かれているカップを引き寄せてそれに注ぐ。
 「お砂糖は?」
 「エト、一杯…
 「ミルクは要りますか?」
 「あ、ウン……
 砂糖とミルクを入れ、それをスプーンでかき混ぜて、ファンカーはそれをフィムの前に再び差し出した。フィムは『先に食べていいのかな?』といった風に彼を不安そうに見上げた。その視線に気づいて、ファンカーはにっこり微笑み、促した。それでフィムはおそるおそるフォークを手にして馴れない手つきでケーキをひとかけら切り、それを口に運んだ。
 「…オイシイ……!!」
 「そうでしょう?有名な菓子職人につくってもらっているものなのですよ。」
 ファンカーは説明したが、フィムの方はケーキを食べることに夢中になっていたから、それが彼女の耳に届いていたかどうかは疑問だった。もっともファンカーの方にもそんなフィムの様子はかわいらしいと映ったようで、彼は父が娘を見るようなまなざしでしばらくそんなフィムを見ていた後、自分の方も一つ小さな菓子を取り、紅茶をカップに注いで椅子に座ると自分もそれを楽しみ始めた。
 「すごくオイシイ…!!こんなの、食べたコトない……!!」
 「そうですか。喜んで頂けてこちらも嬉しいです。…でも、このあとにまだお昼がありますからね、そちらの方がメインですので。」
 「ケド、ホントにオイシイんだもん……エヘ、これじゃ、お昼、食べられなくなっちゃうかも知れないねっ…!!」
 フィムは苦笑いした。そして周囲をぐるっと見回して尋ねた。
 「…ねえ、ファンカーは……ここに、住んでるんだよ…ね……?」
 「そうです。今のところは。」
 「今の、ところは……?」
 「私は、商人ですからね……仕事の都合によっては、方々に行かなければなりませんし、その地方で何ヶ月も暮らすこともあります。今はこちらの地方での事業について見定めなければなりませんから、当分はここで暮らすことになりますし、だからこうしてメイドたちも多めに連れてきているのですが……しばらくしたら、また別の地方に行くことになるでしょうし、そうなればこの家も、維持に必要な以外の使用人だけを残して空けることにはなりますね。」
 「えっ……じゃあ、ずっと住むわけじゃ…ないの……?」
 「ええ。」
 ファンカーはケーキのひとかけらを口に運んで云った。
 「仕事の内容にもよりますが、その地方での仕事に一区切りついたら、次のところへ移る場合が多いですね。もちろん、一度っきりしか来ないというわけではなくて、その内容にもよって同じところへ何度も来ることもよくありますが、一箇所にずっととどまって…ということはないですね。――ですから、他にも色々な場所に、ここのような家がいくつもありますよ。その地方へ行くときにはそこに滞在して仕事をするわけです。」
 「え――それじゃ、こんなおっきなおうち、他にも、いっぱい持ってるんだ……!!」
 「そういうことになりますね。」
 「すごいね……!!」
 フィムはもう言葉を失ってしまった。ファンカーは少しばかり苦笑いした。
 「ですから、それは、主に父の偉業のためなのですよ。私が自分で事業を成功させたわけではありませんからね……。」
 「でも、それでもそんな風に、――この家だけでもスゴイと思うのに、こんなのがあっちこっちにあるなんて……!!」
 「――まあ、私は、『よい仕事はよい環境から』と考えている人間ですからね――それは、父もそうなのですが。――ですから、仕事であちこち行かねばならぬとは云えど、それでもそこでの生活水準は保ちたいのですよ。それが心に余裕を与え、そして結果としてよいアウトプットを生み出すのです。そのために投資するのは必要なことですから、こうして拠点となる街や都市には別荘代わりになる家を建てる、というわけです。」
 「へぇ……。」
 フィムは目をまん丸にして、そしてバルコニーを見回した。建てられたばかり、という理由もあっただろうが、そのバルコニーには塵一つ、しみの一つもなく、細部まで手入れが行き届いていて、美しく保たれていた。その様子を見ると、彼のその『生活の質にこだわりを持っている』というのももっともだと思われた。
 「――でも、そうだと……ファンカーも、何ヶ月かしたら――ここから、いなくなっちゃうんだね……?」
 「…そういうことになります。」
 「――そう、なっちゃうと――さみしいね……せっかく、知り合えたのに……。」
 フィムは少し沈み込んだ風に云った。ファンカーは破顔した。
 「そう、おっしゃっていただけると、嬉しいですね。こちらも、お誘いした甲斐があったというものです。…まあ、私もここにずっと居られるわけではないですが…ただそれは同時に、永遠に居ないわけではないということでもあります。…よろしければ、こちらへ来るたびに、お会いしに行きますよ。」
 「……ウンっ……
 フィムは嬉しそうに笑った。
 彼らはそうして、暖かくなってきた日差しの中、おしゃべりをしながらのお茶を楽しんだ。フィムはすっかりこの目の前の、洗練された上品な男性に心を許したようで、彼女が二杯目の紅茶を注いでもらった時には最初に会話したときのようなぎこちなさはすっかり消え失せていて、まるでアルフェルムやフォード、あるいはメリスと話をしているかのようにうち解けていた。
 「…それでね、初めてその丘の上に連れて行ってもらったの…そしたらね、そこから、この街が全部見えてね……すごくね、キレイだったの
 フィムはもともと、そういう他愛のない話が好きであったし――多くの、若い女性の例に漏れず――だから、そんな彼女の話をにこにこしながら聞いてくれるこの男性がことのほか気に入ったようだった。――もともとアルフェルムはあまりそういう話をしない人間であったから、フィムがそんな風に、今日街でなにが起こっただとか、こんな事を云われて嬉しかっただとかびっくりしただとか、そんなことを彼に話しても大抵返ってくる返事は『そうか』だけで、そのたびごとにつまらない、と思いながらも、アルフェルムはそういう性格なのだと自分に云いきかせていたのだ。だがこうして、そういう話を楽しそうに聞いてくれる、そしてそれに対して『それはさぞかし楽しかったでしょうね』などと返事が返ってくる――そういうのを味わってしまうと、それがいかに嬉しいことかが判ってしまうのだった。――もちろん、メリスや、フォード、セプター、あるいは知り合いになった街の人たち――そんな親しい者たちとそういった会話をすることもあるし、それはそれでもちろん楽しい時間を過ごせるのだが、しかし男性で、彼のようにじっくり話を聞いてくれる者はいなかったから、これは彼女にとっては確かに新しい経験だったのだ。
 そんなであったから、時間が経つのは早かった。正午前のアレグゼ七の鐘が鳴ったのさえフィムの耳には入らず、気がつけばもう太陽は真上から彼らを照らしていた。
 「――さあ、そろそろお昼ですね……どうですか?お腹は、空いていますか?」
 彼に促されてフィムは初めて当初の目的に気づいた。彼女は自分の腹に手を当ててみて、そして顔を上げて苦笑いした。
 「…エト……お菓子、オイシかったから……あんまし……
 「そうですか。それでは、もう少し後にしましょうか?」
 「あ……ウウン、えと……あたし、もともとあんまし食べないから……だから、変わんないと思うから、もうお昼にしてもらった方が……ファンカー、おナカ空いてると思うし……。」
 「私もどちらかというと食は細い方でして。だから、空腹だというほどでもないのですけれどね。…それではお昼にしてしまいましょうか。今日は天気がいいですから、ここで食べた方がいいですね。」
 彼はそういって呼び鈴を手に取ると何度かそれを振った。チリリン…と澄んだ鈴の音が庭園に響き渡る。ややあって、奥の部屋にメイドが入ってきた。『ご用でしょうか』とバルコニーに来た彼女にファンカーはなにやら耳打ちをする。彼女は『かしこまりました』と頭を下げ、一旦奥へ引っ込んだ後すぐ空のワゴンを押して戻って来た。彼女がテーブルの上の菓子やポットを片づけ、ワゴンに乗せてそれを押しながらドアの向こうへと再び姿を消したしばらくのち、今度は二人のメイドが、これまた先と同じようなワゴンの上に金属製のボールで蓋がされた料理を運んできた。彼らはテーブルの両側に位置し、まず二人にナプキンを与えた――フィムはどうすればよいのか判らなかったのでまごまごしていると、フィム担当のメイドはにっこり彼女に笑いかけて、それを菱形に彼女の胸に置き、そしてその端をシャツの襟に入れてくれた――次いで、テーブルの中央にたくさんのパンが入ったかごとバターのボールを、さらに二人の前にナイフやフォーク、スプーンといった食器を並べていき、そして最後にそのボールを開けて、その下にあったスープの入った皿を両者の前に置いて一礼し、ワゴンを押しながら奥へと消えていった。
 「…どうぞ。」
 ファンカーに促されて、フィムはおそるおそる、それにあうのだろうと思う食器――つまり、スプーンを選び出し、そして彼がそれを口にするのを見ながら、自分もそれをまねするようにして、一口飲んだ。
 「…オイシイ
 「――コンソメスープの一種なのですが、下ごしらえを入念にさせていますので…かなり、飲みやすいものになっていると思います。私もこの味はとても気に入っています。」
 先ほど同様、ファンカーの説明がフィムの耳に届いているとは思えなかった。フィムはがっつくというほどではなかったが、それでもまるで腹を空かせた子供がようやく与えられたおやつにたかるようにそれを飲み干してしまったからである。
 「はぁ…なんか、すごいオイシかった……
 「そうですか?気に入っていただけたのなら、嬉しいですが。」
 ファンカーはそういってこちらも杯を進める。もっとも彼の方は至って静かであった。彼がそうやって食を進めていく間、フィムの方はパンをかじってじりじりしながら次を待つことになったが、幸運にも次の品は程なくして運ばれてきた。それは彼女にはよく解らなかったが、火を通した貝かなにかにソースをかけたものだった。フィムは今度もファンカーの方をちらちらと様子見しながらそれにフォークを突き立て、それを口に運ぶ。
 「…これも、おいしい…!!」
 「今日は海のものが手に入ったようですね…いえ、私も何が出てくるかはわからないのですよ。料理長にすべて任せてありますのでね。」
 「ケド、こんなオイシイの、食べたことない……!!」
 フィムは感嘆の声を漏らした。それもそうであろう――アルフェルムと出逢う前は云うに及ばず、出逢ってからも、彼女はこんな豪華な食べ物を口にしたことはなかったからだ。いつも食事は階下の食堂か、時に違うところへ行くにせよたいていはヴァンの街中の大衆食堂であったし、もちろん冒険中は携帯食で済ませることも多かった。それが気に入らないとか、そういうわけではない。彼女はアルフェルムと一緒にいることに、暖かい布団で寝られること、三食の食事を与えてもらえることにいつも感謝していたし、それに満ち足りていた。…だが、確かに、こういったものを口に入れる機会がなかったことも、事実だったのである。
 「気に入っていただけたようでなによりです。」

 ファンカーの方もそんなフィムを見てにっこりした。
 その後も、次々と料理は運ばれてきた。それらの多くは、フィムに馴染みのない――というか、有り体に云って、なんだかよくわからない――ものだった。幾つかは肉を焼いたステーキっぽいものだったし、いくつかは口直しのスープだったし、またメインディッシュとして出てきたものは、ファンカーが云ったとおり、魚を油で揚げてソースだのなんだので味付けをしたものだった――いずれにせよ、それらはとにかく『すごくオイシイ』ものばかりだった。もともとあまり食べないフィムは、まるで終わりがないかのように次々出てくる料理たちに実は途中でほとんど満腹になってしまっていたのだったが、それでも新しい皿が出てくると、その味にびっくりして知らないうちに平らげてしまう――というような具合で、だから、ようやくほとんどの料理が終わってあとはデザートだけという時点になり、少し間が空いた時点で彼女は初めて自分がもう動けないくらいに満腹になってしまっていることに気が付いたのであった。
 「フウッ……おナカ、いっぱいになっちゃった……!!」
 フィムは自分の腹に手を当てて大きく息を吐いた。
 「少し、多かったですか……?確かに今日はいつもよりやや多めだったかも知れませんね。私も今日はちょっと苦しいですから。…でも、まだデザートがありますからね。」
 「もうこれ以上、入んないよォ……
 フィムは苦笑いしたが、最後の品であるそのデザートは容赦なく運ばれてきた。それは皿の中に甘いクリームを満たし、その上をチョコレートとキャンディを溶かした薄いかりかりの膜で覆ったもので、当然の事ながらフィムはそれも見たことはなかった。
 「どうぞ。」
 ファンカーに促されて、フィムは半分仕方なくそこへスプーンをつっこんだ。
 「…!!オイシ……!!」
 だが結局それを口にしてしまうと、やっぱり止められなくなってしまうのだった。彼女もよくメリスのところでお菓子をごちそうになったり、あるいは散歩している途中で顔見知りのおかみに呼び止められてできたての饅頭を貰ったりというのはよくあったが、こんな風にとろけるような甘さのデザートは食べたことがなかったのでどうしても手が止まらなくなってしまったのだった。
 「すっごく甘いね…こんなオイシイの、食べたコトない…!!」
 「あまり街中で売っているものではありませんからね…でも私はこれが好きでしてね。こうしてよく作らせるのですよ。」
 その話をフィムが聞いていたかどうかは疑問であった。すでに彼女の皿はその時点で半分になり、それでもまだ口の回りにクリームをつけながらスプーンを往復させるのに忙しかったからである。
 さてしかし、この豪華な昼の時間は、だから、フィムにとってはことのほか有意義な時間になったようであった。目の前でいつもにっこり笑いながら彼女のことを見ていてくれるファンカーは、彼女をとても落ち着いた気分にさせてくれたし、穏やかな口調でなされる会話は、アルフェルムやその他の者たちとのくだけたコミュニケーションとはまたひと味違う新鮮なものだった。
 彼らは食事を終えて、お茶を飲みながら少しそこで休んだ。(いずれにせよフィムは『風船みたいにおナカいっぱい』で、動くことなど出来やしなかったのだ)すでに太陽は真上を過ぎていて、木々の間をダンスするかのように吹き去っていくそよ風はとても暖かく、心地よかった。フィムは時折気持ちよさそうに目を閉じて心持ちあごを上げ、そのシルフたちのささやきを聞き取るかのように風を感じ、それに乗って運ばれてくる色々な匂いを楽しんだ。春の風はあくまで優しく、すべるようにフィムの髪をなびかせ、彼女の白い翼の回りでくるくると渦を巻き、時折彼女の翼からいたずらっ気いっぱいにうぶ毛を巻き上げて吹き去っていく。――フィムは何度か、そうしているうちにどうしてもその風と一緒に空へ舞い上がりたい気持ちになったのだが、さすがにこの招かれた席でそんなことをするわけにもいかないのでそれは思いとどまった。もっともそれなしでも、このぽかぽかと暖かい午後の席はそうしてひなたぼっこしながら休むのには絶好の場所であった。
 そうやって少し休んで落ち着いた後、ファンカーはフィムを連れて邸内を案内することを提案した。
 「えっ…でも、ファンカー、お仕事…あるんじゃないの……?」
 「今日はそれほど詰まっているというわけではありませんから、その点は大丈夫ですよ。朝プレシマを連れて歩いていたのも、ゆっくり散歩をしたいと思ったからでしてね。」
 そんなわけで、フィムはファンカーに連れられて、この邸内をぐるっと回った。バルコニーからホールへ戻り、そのまま壁沿いの回廊を歩き二階の奥側へ入ると、そこには大きな書斎、それだけで小さな図書館にもなりそうな資料室、幾つかの休憩室や、大きな暖炉が添えつけられた多目的の部屋などがあった。特にフィムはその資料室に目を回しそうになった。
 「うわーっ……こんなイッパイの本、見たコトないよゥ……!!」
 二階をぐるりと回ってホールへと戻ってくる回廊、その内側の部屋をまるまる使った広い室内に、幾つもの本棚が設置されそれが整然と並べられており、空きのある棚もあるものの、それでもいくつかにはぎっしりとなにやら難しい本、あるいは束ねられた資料などが詰め込まれている。…フィムは基本的に読み書きはほとんど出来ない――彼女を責めることは出来ない。生きるのに必死だったのだから――から、それがなんの本なのかはよく解らなかったが、それでもそれらが彼にとってとても大切なものであるということは理解できた。
 「そうですね。経済や、交渉の術などの本はもとより、この地方の調査内容だとか、それらの需要と供給の推移だとか…そういったものを集めると、どうしてもそれなりの量にはなりますね。…これでも少ない方なのですよ。本宅の方には、この十数倍はありますよ。」
 「それじゃあ、ファンカー、本に埋もれちゃうね。」
 フィムは苦笑いしてそう云った。
 彼らは二階をぐるりと回って元のホールへ戻り、一階へと下りた。下の扉を開けて奥へ入ると、こちらも回廊が続いていたが、こちらの階には調理場とともに来賓をもてなすための大型ホールなどが位置していた。また彼が先に云ったように、幾つかの展示室もあり、その中にはフィムが今まで見たこともないような美しい輝き方をする宝石や、絵画、陶器の類、ナイフやペンといった小さな道具などが飾られていた。
 「この辺りは主に来客用ということになりますね。食事をしたり、お茶会を開いたり…もちろん、バルコニーの方も使いますが、こちらもそのために用意してある部屋ですね。」
 彼らはホールへと戻ってくると、渡り廊下を歩いて別館へと向かった。
 「こちらの棟は基本的に寝室になります。二階の奥に私の部屋があり、その手前にはメイドたちの休む間が、この一階の部屋は他の使用人たちのもので、奥のそれはゲスト用の寝室になります。」
 その、ゲスト用の一室は、それほど大きな部屋でこそなかったが、床にはふかふかの絨毯が敷かれ、一人どころか三人は楽に寝られそうな大きなベッド、四角い書類机と丸テーブルが一つずつと、大きな飾りつきの化粧台がしつらえられた、落ち着いた部屋であった。来客に不便がないように丸テーブルの上にはメイドを呼ぶための呼び鈴が据え置かれている。ベッドに敷かれている布団はふわふわで、促されてそこに座ったフィムはその沈み込みように後ろへ転んでしまうかとびっくりして思わず立ち上がったほどだった。
 「すごーい。ふかふかだねまるでハネの中にいるみたい…!!」
 「ある意味そうですね。」
 ファンカーは笑って云った。
 「ここの来客用の布団は、極上の羽毛で作られたものです。おっと…不快に思われたらすみません。でもこれらもきちんとしたルートのものです…密猟などで無理に作られたものではありませんので。――ともかく、だから、フィムさんにとっては我々よりもより親近感がわくのかもしれませんね。」
 「ふーん、そーなんだ…だからなんか、こうして寝っ転がってるとなんとなく安心できちゃうんだっ
 フィムはファンカーが云ったようなことはあまり気にしていない様子で、そのままごろんと後ろに寝っ転がり、その包み込まれるような感触を楽しんだ。
 「よろしければ、またご招待させていただきますよ…こちらへお泊めして差し上げるために。もちろんその際には極上の夕食をご用意させていただきますよ。」
 「エヘヘ…それもいいかもねっ
 ファンカーのその言葉はたぶんに真面目なものであっただろうが、フィムは頬を布団のシーツに擦りつけながら嬉しそうにそう答えただけだった。
 「…まあ、だいたいこのようなつくりですね。」
 一通り部屋を案内して、客室から出たところで元のホールへと歩き始めながらファンカーはフィムにそう話しかけた。
 「それほど、大きいというわけではないですが、客人が来たときにはもてなすことが出来るよう、そしてなによりふだんの生活に支障がないように作ってあります。もちろん、すべては『よい仕事はよい環境から』に通じます。環境が整わないことには、どうにもなりませんからね。」
 フィムは、そうしてファンカーが説明している最中も、あっちのドアを開けてみたり、こっちの階段を覗き込んでみたりとせわしなく動き回っていた――それはじっさい大変失礼な行動ではあったのだが、しかし何も知らぬフィムに、そしてその保護者たるアルフェルムなしにそういったようなことに気を配れという方が無理であっただろう。幸い、ファンカーはそれに対してあからさまに眉をひそめるような厳格なタイプではなかったから、それが問題になるようなことはなかった。やがて彼女は通りしなにその別棟のほぼ一番奥、廊下の角にあった一つの扉に手をかけて、開けてみようとした。
 「……?」
 それは、彼女がそうやって新たなる領域を開拓しようとするのを拒むかのように、まるで一枚の壁のように頑として開かなかった。フィムはファンカーが自分の横を歩き去ってからもしばらくそれに固執してガチャガチャとやっていたが、扉はあたかも意志を持った生命のようにどうしても開こうとしなかった。
 「――ああ、そこは、」
 それにようやく気づいたファンカーが数歩かけ戻って来た。
 「そこは、奥がまだまだ工事中でして…ええ、未完成のままなのです。…地下に、ちょっとした貯蔵庫を造る予定でしてね。――なので、お客様が迷い込んでしまうようなことがないように、その作業を進めてもらうとき以外はこうして施錠されているのですよ。」
 「入れないの?」
 フィムは無垢な表情でファンカーを見上げて云った。
 「ええ、入ったところで見苦しい工事中の内面をお見せするだけですからね。…また、工事が完了したときに、お見せしますよ。ワインなどをそこへ入れる予定でしてね…そうですね、その時には美味しいワインもご馳走できると思いますよ。」
 「あ、じゃあ、その時にアルと一緒に来ていい?」
 「ええ、もちろん。」
 「エヘヘ、よかったっアルね、お酒ダイスキだからね、きっと喜ぶよっ
 そのはたから見れば随分図々しい頼みにも、ファンカーはにこやかに笑って応じた。
 さて、そんなわけで一通り屋敷内を見て回り、彼らは正面ホールに戻ってきた。
 「えへ…でもやっぱしすごいねっ。こんな大きなお家……なんか、色々ビックリしちゃったっ
 フィムはもう一度ぐるりを見回して云った。そして、ぴょこんとお辞儀をした。
 「――今日は、色々、アリガトウねっエト…お昼、すっごくオイシかったのっ
 「いえ、気に入って頂けて何よりです。こちらもお誘いした甲斐があったというものです。」
 ファンカーは微笑んだ。フィムも嬉しそうに笑う。そしてややおいて、ちょっと寂しそうにフィムは口を開いた。
 「あたし…あんまし、おジャマしちゃ悪いから…もう、帰るね。」

 「もうお帰りになってしまわれるのですか?もう少しいらしたらどうですか?」
 フィムは小さく、しかしはっきりと首を横に振った。
 「あたしも、いたいケド…でもホント、今日は、充分に楽しんだし、…やっぱし、そうは云ってもファンカーだって、おシゴトあると思うし。」
 「…………。」
 「――だから、やっぱし…ジャマになりたくないから、今日はもう…帰るねっ。」
 「――そうですか。」
 ファンカーの方も、無理に引き留めはせぬ。ただにっこりと笑い、右手を差し出した。フィムはちょっとためらったが、おずおずと自らの右手で彼の手を握る。
 「今日は、おつきあいいただいて、ありがとうございました。フィムさんとお知り合いになれて、とても嬉しかったです。」
 「あたしも、ウレシかった…です。エト…呼んでもらって、よかった…。」
 「またいつでもいらしてください。今度はその、アルさんともご一緒に。」
 「ウン…アリガトウ
 しっかりと握手をし、二人は手を放した。そしてファンカーは左右を見回して呟くように云った。
 「…プレシマが、帰ってきていませんね…大抵屋敷の中をうろうろしているのですが、どうやらまだ外を散歩しているみたいですね。――元はといえばあの子がご迷惑をおかけしたのが始まりだったわけですから、あの子にももう一度ご挨拶をさせたかったのですが。」
 「迷惑なんて…あのコ、すっごくカワイかったし。それに、オイシイお菓子もお昼もごちそうになっちゃったしっ…また、一緒に遊べるといいなっ
 「いらしてくだされば、いつでも遊べますよ。あの子もフィムさんのことは気に入ったようですし。」
 「そだねっ
 フィムはにっこり笑った。
 「…お菓子、少しお持ちになりますか?」
 ファンカーはフィムが菓子のことを口にしたので、そう持ちかけた。
 「えっ?で、でも……
 「アルさんがお気に召すかどうかは判りませんが、幾つかお持ちになるといいでしょう。これ、あなた。――お昼にお出ししたお菓子があったでしょう。あれをいくつか包んでください。ええ、彼女へのおみやげです。
 呼ばれたメイドはかしこまりましたと返事をし、奥へと引っ込んでいった。
 「…なんか、かえってアタシの方が迷惑かけちゃってるみたいっ…
 「いえいえ、どうせ私一人で食べきれるものでもないですし…まあ、普段はメイドたちのお茶菓子になるのですけれどね。お客様がいらしたときにはこうして、おみやげとして差し上げることも多いのですよ。」
 「それなら、いいケドっ……
 ほどなくして、メイドが小さな包みを持って奥から出てきた。メイドから『どうぞ』と手渡されたそれを、フィムはやや戸惑いながらも受け取る。メイドは深々と頭を下げて奥へと引っ込んでいった。
 「アリガトウねっ…!!」
 「いえ。」
 ファンカーはフィムがにっこり笑ったのへ、自らも穏やかに微笑んで返した。
 二人はホールから正面の扉を開け、庭へと出た。それなりに時間は経っていたとみえて、ラーズの戦車(チャリオット)はやや斜めの方向から柔らかな光を庭に投げかけていた。もっともそれでも青々とした芝はみずみずしく輝いており、その邸内ではさほど時間の経過をは窺わせなかった。
 「それでは馬車であの噴水までお送りしますよ。」
 正面扉から門まで、その白い石の通路を歩き、扉を再度ファンカーが自らの『登録紋』により開いたとき、彼が云った。だが、フィムはクルリと彼の方を向き、笑いながら首を振った。
 「…ウウン。そこまでしてもらったら…やっぱし、悪いから。――あたし、前に来たことあるし――だから、帰り方、判ってるから。…だから……このまま、一人で、帰るねっ……。」
 『帰り方、判ってるから』と彼女が云ったのは、厳密には正しくない。――昨日彼女がこの家を見に来たときは、どこから投げかけられたかさえ判らぬ誰何の声にこれ以上ないくらい驚き、飛び上がってそこから一目散に逃げ去ってしまったからである。そしてその後は、この周辺の、彼女を見馴れぬ人々の奇異の目に耐えかねて大空へと舞い上がり、そしてそのまま逃げ去ってしまったのはご承知の通りである。――だがフィムは、あまりにもよくしてくれるファンカーに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、思わずそう申し出たのであった。
 「…でも、ここから中心部まではゆうに二ガロスはかかりますが……?」
 「エト…平気っあのその、あたしっ、お散歩、スキだし……エトそのっ、空、翔んでいけばっ、すぐ着くからっ……!!」
 フィムはしどろもどろで云った。
 「…そうですか。そうまでおっしゃるのなら…でも、お気をつけて。――また、いつでもいらしてください。」
 「アリガトウッ
 フィムはもう一度元気に笑って、そして大きな門をくぐると、あとはそのまま、トットットッと走っていった。
 (…………。)
 (――あまり、聞き出せなかったか。)
 ファンカーはフィムが走り去っていく後ろ姿をじっと見つめ、ごくごく小さく口の中だけで呟いた。その間にフィムは既に角を曲がり、彼の視界からその姿を消してしまっていた。
 (――しかし――)
 (…間違いなく、あの男――だな。)
 黙ってたたずむ彼の頭の中に、考えが巡る。
 (『アルはね、すっごく強いのどんな怪物が来てもね、えいってやっつけちゃうのそいで、いつでもあたしのコトを見てくれててね、あたしを護ってくれるの』)
 (『――その、怪物の剣から、あたしを護ってくれたの……!!』)
 (あの、気配を感じ取った能力(ちから)といい…彼女の、その言葉といい――なかなか、そう簡単に、事を運ばせてくれる相手では――なさそうだ)
 ファンカーは深い思慮に沈む。
 (しかもあの身体――)
 彼は、脳裏に浮かぶアルフェルムの姿を思い出していた。
 そう――
 昨晩、水晶球と、遠視の魔法でもって、フィム、それにアルフェルムの様子を窺っていた人物。
 それは、他ならぬ、彼であったのだ。
 それゆえに、彼は、フィムのことも、彼女が『ダイスキな』アルフェルムのことも、そしてまた、彼らがとある街の宿の一室に同居していることも、そもそも知っていたのだ。フィムの、その神話の世界さながらの姿、大きくて幻想的に光る蒼い瞳も、混じる色一つないどこまでも白い翼も――すべては、あらかじめ彼の知るところであったのだ。
 そして――
 (『アルフェルム』)
 (それが…あの男の名、か)
 油断ない動き。その巨体からは想像できぬ、ヒョウのようにしなやかで、素早い動作は、一目で彼を熟練の者だと窺わせる。あの遠視の魔法をも見抜いた感覚もさることながら、彼の鍛えられた肉体は、彼を護る金剛の鎧となりこそすれ、彼の動作を阻むものではあるまい。一切の無駄が取り除かれた、鋼のような肉体――そんな強靱な肉体から放たれる一撃が、彼の前に立ちふさがるあらゆるものを斬り伏せる聖剣エクスカリバーとなるであろうことは容易に想像できることであった。
 (…………。)
 ファンカーは、そのアルフェルムという存在が、やがて彼の野望を阻む、彼の前に立ちはだかる大きな壁となるであろうことを予感せずにはいられなかった。
 そうして、彼が思慮に沈んでいた、その時である。
 『ファンカー様。』
 辺りに、声が響いたような気がした。
 だが、ファンカーはまったく慌てるような様子はなかった。むしろそれに応じるように、小さく頷いて返事をした。そしてそれに呼応して、ヴ…と彼の周囲で魔法力が歪む感覚があり、それとともにファンカーの左後方、空中に、再び姿を現した男。
 全身を覆う、青白く光るマント。あらゆるものを見透かすかのような鋭い目。そして印象に残る、特徴的な白い口ひげ――
 そう――彼は、昨日フィムがここへ来たときに、彼女を誰何し、そしてその後で現れた男であったのだ。
 もっとも、今回も彼は不可視の魔法を自らにかけ、その姿が人の眼に映らぬよう自らを隠蔽していたから、その場にいるメイドたちの中にも使用人にも、彼がそうして現れたことに気づく者は全くいなかった。彼らの眼に映るのは、まだ開けられたままの門にたたずむ主人ファンカーと、彼がそうして優しげに客人を見送っている姿、それだけである。穏やかな日差し、心地よく吹き去る微風、邸内の、平和な刻の流れ――なにも、変わったところはない。
 だが確かに、その一見ごく普通に見える昼下がりの中、彼はそうして現れたのだ。そしてファンカーは彼のことをよく知っていた――彼がそうして現れたことをはっきりと解っていたし、またそのことに対してまったく驚きもしなかった。むしろそれが当然とでも云ったように、その背後に現れた男と会話を始めたのである。
 「…あれで、よろしかったので?」
 「まあ、最初としてはあんなものだろうね。」
 ファンカーはそのおだやかな表情を崩すことなくそう答えた。
 「…もっとも、正直なことを云うと、もう少し話をしていくと思っていたのだけれどね……思っていたより、謙虚な娘のようだね。まだ昼過ぎだというのに、はやばやと帰ってしまった。」
 ファンカーはまだフィムが消えた曲がり角を見つめたまま、少し間を置いて続けた。
 「――でも、」
 「――少なくとも、彼女の中に印象を――それも、かなり強い、ね――残すことは出来たと思うよ。…まあ、まだまだ、先は長いと思うけれど……それは――ね。なかなか、一筋縄でいくものでもない…と、思っているから。だからまあ、」
 「――今日のところは、あれでいいでしょう。…あとは、計画通り、一歩ずつじっくりと…ね。」
 「…………。」
 背後の男は、しばらく押し黙ってから、重く口を開いた。
 「…しかしなぜ、それほどまでに――あの娘に、こだわるのですか。」
 「――バサランディ。」
 ファンカーは、彼の名を静かに、厳かに呼んだ。
 「――は。」
 呼ばれた男――バサランディは、わずかながら、表情をこわばらせ、重い声で返事をしてあるじの次の言葉を待つ。――そう――彼は、ファンカーの側近であり、目付役であり、世話役でもある、あらゆる事に関してファンカーを補佐する役目に位置する、執事的存在の人物――その名を、バサランディ・ゲーデルバードという、真魔法に精通する人物であった。
 「あなたは…思わない?」
 「…とは、なにを……?」
 「――あの美しい翼、人形のような清らかな姿…あれを、手に入れたい、永遠にとどめたい、とは…思わないか?」
 「……わたくしは、あなたさまの忠実なるしもべ……それ以外のことは、思ったことは……ございませぬ。」 バサランディは静かに、そう云い放った。
 「…まあ、いいけれど。」
 ファンカーは、依然、門の外から視線を逸らさぬまま、表情を変えずに云った。
 「すべての、この世に存在するもの――それは、『刻』という、避けられぬ枷の中に閉じこめられている。あらゆるものは、老い、古び、色あせ、朽ち果て、そして最後には、無へと帰す――その、ミストラルが刻みし時間の奔流に、あらがう術はない。……だけれども、もし、その呪縛から解き放てるのなら――美しさ、清さそれ自体を永遠にとどめておけるのなら……それは、すばらしいことだとは、思わないか?」
 「…………。」
 バサランディは、やはりしばらく間を置いた。そして静かに云った。
 「わたくしの思いは…あなたさまの思い、それ自体でございます。…あなたさまの、御意のままに……。」
 「特に、なんの感銘もないと?」
 「…………。」
 それに対してはバサランディは答えなかった。もっともファンカーの方もそれを予測していたかのように、自然に次の言葉を紡いだ。
 「まあ、いいよ。…とにかく、この時点では、やれるだけのことはやったからね…あとは、この後――文字通りにね――うまくやって、こちらの思うように……誘導していくことだね……。」
 「…………。」
 その胸中にいかなる思いをめぐらせていたものか――いずれにせよ、バサランディはそれに対しても応えなかった。そして、ややおいて彼の口から紡ぎ出された言葉は、ここまでのやりとりと全く関係のないものであった。

 「…例の、こちら方面での取引につきまして、アエラス侯から契約及び許可に関する書状が届いております。目を通していただいて、必要な処理を行うようにとのことでございます。それから、カルタス方面での絹の件ですが、こちらは問題なくまとまりそうで、クラーヴ氏の方から妥協案を本日出してまいりました。近日中に回答が欲しいとのことですので、こちらもご確認していただいて――」
 「わかった、わかったよ。」
 ファンカーはその頑丈な門を手で押して閉じ、困ったように笑いながら彼を手で制した。
 「あなたはどうにもかたくていけない。もう少し柔軟になってもらえると私も助かるのだけれど。」
 「そうはおっしゃられましても、これもわたくしの仕事でございますので。」
 バサランディはややむっとした響きを帯びた云い方で云った。
 「…それに、わたくしからみればあなたさまは、お生まれになったときからご面倒を見させていただいている御方…ゆかりあってお父上にお仕えすることになってから、わたくしはゴールドワゲン家につくしてまいりましたが、その中でも、あなたさまはわたくしにとっては特別な御方でございます。そのあなたさまに関して、お父上から股肘とのご信頼をうけすべてを任されておりますからには、わたくしも責任は重く――」
 「わかった、私の負けだよ、バサランディ。」
 話が長くなりそうだったのでファンカーは再びそこで話を強引に打ち切った。
 「書状は私の部屋かな?…では、本日の夕方までにチェックして回答を出すことにするよ。…これでいいだろう?」
 「くれぐれも、お忘れになりませぬように。いずれの件も、大きな取引でございます。この機を取り逃してしまうようなことになりますと、取り返しのつかぬ痛手を受けることになります。」
 「それはわかっているよ。…さあ、もういいよ、下がってくれて。」
 バサランディはまだなにか云いたそうな顔ではあったが、これ以上は逆効果とでも考えたのであろう、ファンカーの背後で彼に向かって軽く頭を下げると胸の前で小さく印を切り、ヴン…とその場からかき消えた。
 「…………。」
 ファンカーは依然、門の外を見つめたままであった。彼はこのやりとりの間中、終始フィムが消えた方向を向いたままで、ただの一度も後ろを――姿を消して宙にたたずんでいたバサランディの方向を振り返ることはなかった。だから、メイドや他の使用人から見れば、それはごく自然な、――少しばかり長めではあったものの――単に客人を見送る行為それ以外のものではなかった。そこでそういった、秘密めいた会話が交わされていたことなど、誰一人として知る由もなかったのである。
 「さて…ああ釘を差されてしまったことでもあるし、それでは、仕事に戻るとしましょうか……。」
 彼はそこでようやくくるり、ときびすを返し、屋敷の方へと向かって歩いていった。そして、彼が正面の大扉を開けようとしたとき――
 『ニャ〜ン
 「おや、プレシマ。もうお散歩は終わりですか?」
 「ニャ。」
 庭の奥の方からトトッ、トトッとリズムよく芝の上を走ってきたのはプレシマだった。プレシマはファンカーの足元に駆け寄ると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら彼の脚に身体を擦り寄せる。
 「ほら…いらっしゃい。」
 彼はプレシマを抱きかかえた。そして扉を開け、ホールへと入る。彼は何名かすれ違ったメイドたちに柔らかい微笑と二言三言の言葉をかけ、階段を上って二階へと上がり、扉を開け、さっきフィムを案内した奥の通路へと入った。そして扉の一つを開けると、その中へと入った。そこは彼の書斎で、大きな仕事用の机の上にはペンと紙、メイドを呼ぶための呼び鈴が整然と置かれており、それからバサランディが云ったように、既に封が開けられたいくつかの書状が机上の書類入れの箱に収められていた。一方の壁際には一面に本棚が設置されていて、その棚にはやはり多くの小難しい本が所狭しと並べられている。ファンカーは扉を閉め、プレシマを床の上、敷き詰められている絨毯の上へと降ろした。
 と――
 その、彼らの他には誰もおらぬ、静かな室内で。
 不意に、プレシマの姿が、光に包まれたかと思うと――
 その光が変形し、人の姿を取り――
 そして、一人の女性の姿となって、現れたのである。
 背はあまり高くはない。むしろ、その不思議な光を帯びる大きな瞳、そして全体的に丸めの顔とも相まって、姿を見た限りでは子供っぽいような印象さえ受ける。だが何故か、その内面の色というか、オーラとでもいったものは、成熟した大人の女性のそれを匂わせていた。そう――屈強な男どもを片っ端から惹き寄せるような、悩ましく、艶っぽい雰囲気を持っていたのだ。身体を覆う衣類はとても少なく、胸と腰のみを覆うぴっちりしたレオタード風のものを身につけているだけで、あとは六芒星のメダルがついた首輪、指の出るひじまでの手袋、そしてかかとの高い、膝の上までを覆うブーツといったいでたちであった。髪は短く、基本的に金髪のようであったが、金色に輝くそれの下は染められているのか地毛なのか黒い部分もちらちらと見える。指は白く細く、そしてその爪は赤く塗られていて、見る者に一種淫猥な印象を与えた。
 だがしかし、その露出した太股、身体の線が否応なしに浮き上がる薄い布地は、確かに男たちの心臓を高鳴らせたであろうが――
 本当に見る者の目を引いたのは、そんな部分ではなかった。
 彼女の背後でゆらめく、紫色の羽。
 そう――彼女もまた、翼を持っていた。それも、背にだけではない。その頭部前面、こめかみよりもやや上あたり――そこにもまた、小さな羽が生えていたのだ。
 それは、しかしフィムの有するそれとは対照的に、コウモリのそれをとってつけたかのような外観をしていた。いくつかの骨格――といっても、それが骨から形成されているのかははなはだ疑問ではあったが――の先端には爪らしき突起が見受けられ、その骨格間には薄くはあるものの丈夫そうな膜が張られている。とは、いうものの、その全体的に横長の翼は、しかしどう控えめに見積もってもその身体を浮かせるには小さすぎるであろうと思われたし、ましてをや、頭部にある角を思わせる小さな補助翼が揚力を生み出すのに役立つとは思えなかった。だが確かに彼女はそうして現れてすぐに、何度かその翼を羽ばたかせ、まるでそうして戻れた真の姿を愉しむかのようにフワリ、と浮き上がって見せたから、それはやはり翔ぶためのものなのだろう。
 そして、フィムのように先端が尖った、長く細い耳。
 それらを見るに、少なくともヒトならざるものであることには間違いがない。
 だがしかし、フィムを初めとする飛翼族、あるいはそれとよく比較して挙げられる竜人族ともまた異なるようである。――そもそも、両者ともそのような、猫に変身するような能力は通常持ち合わせていない。
 いずれに、せよ――
 そうして現れた異形の彼女に対し、ファンカーは全く驚くような素振りは見せなかった。それどころか、それがごく当たり前だとでも云うように、微笑みながら現れた彼女に目をやった。
 「――あれで、よかったのかしら?」
 彼女――プレシマは、ねっとりとした流し目を使いながら、あるじたるファンカーにそう話しかけた。
 「上出来でしたよ。うまくやってくれましたね、ご苦労様。」
 「あんなことくらい、おやすいご用だけど。」
 プレシマは、仕事をするために椅子に腰掛けたファンカーの後ろに回り込んで、その首に後ろから抱きついた。
 「…でも、あんな小娘に…興味があるの?あんなのより、アタシの方が…気持ちよくさせたげられるよ……?」
 プレシマは後ろから彼の首にキスをした。数回、唇を押しつけ、そして軽く吸い、彼の耳たぶを軽く噛む。
 「こらこら…よしなさい。メイドに見られでもしたらどうします。」
 「ふーんだ。」
 ファンカーが苦笑いしながらたしなめたのへ、プレシマはふくれたような云い方をして彼の後ろから離れ、正面へ回ると、そしてばさ、ばさと何度かその細長い羽を羽ばたかせて宙に浮き上がり、そこで脚を組んで膝の上にひじをつき、手の甲に顎をのせて空中でとまった。――不思議なことに、そうして翼を羽ばたかせているのにも関わらず、室内にはほとんど空気の流れは起こっておらず、紙切れ一つ舞い上がることはなかった。やはりなにがしか魔法力的な力場が働いているということなのであろう。
 「知ってるのよ。そのベルを鳴らさない限り、メイドはこの部屋には入ってこないんだっ。」
 「しょうがないですね…ほら、降りなさい。入っては来なくても、窓を通して見られてしまうかも知れないでしょう?」
 ファンカーはわずかに顔をひねる仕草で、背後の大きな明かり取り窓を示してたしなめた。
 「ぷーん。」
 プレシマは不満そうな言葉をもらしはしたものの、云うことを聞くことにしたようで絨毯の上に降り立った。その長めの輪奈に、ブーツの踵が埋まる。
 「――あの娘に関してはね……私も、色々考えてはいるのでね。…あなたは、私の云うとおりに動いていればよいのですよ。」
 「…そりゃあね、アタシは、契約があるからさ――命令には、従うけど。」
 プレシマは本棚まで歩いていって、そこに収まっている本のうちの一つをなんとはなしに取り出し、それをぱらぱらとめくる。
 「でも――べつだん、あんな小娘にこだわらなくても、世の中にはもっともっと、愉しいコトがあると思うケド……?」
 そしてそうやって見ていた本を、不意に、興味を全く失ったとでも云うように元あったところへ返し、彼女はファンカーが仕事――つまり、バサランディに釘を差された、書類に目を通しておくこと――を行っている机にとって返し、そう云った。
 「…云ったでしょう?私には、私なりの考えがあるのですよ……あなたはただ、私の指示に従っていればよいのです。」
 ファンカーは見ていた書類を机の上に置き、それでも穏やかな笑みは崩さず彼女にそう云った。
 「――そんなコトは、云われなくたって解ってるけどさっ。」
 プレシマは少しふくれた顔をした。そしてペン立てからペンを取り、それをもてあそぶ。だが、くるくると回して遊んでいるうちにそれをぽろっと床に落としてしまい、プレシマは慌ててそれを拾い上げて先端が曲がっていないか確認し、あたふたと元のペン立てに戻す。
 「とりあえず、今日のところはあとは特に何もありませんから――もう休んでもらって構わないですよ。散歩に行くなり、あなたの住む世界(、、、、、、、、、)へ戻るなり――好きなようになさい。ご苦労様でした。」
 「えー、もう今日はおしまい〜?ツマンナイよ〜。」
 今度はあからさまに不服そうにプレシマは云った。その様子は、最初に見せた艶っぽい様子とは随分違う、むしろ非常に子供っぽいものであった。
 「またそのうちなにがしかのお手伝いをお願いすると思いますよ。そのときはまた頼みます。が、今日はもう後は私の方も公務ぐらいですし――流石に、少しくらいは仕事を進めておかないとバサラが口うるさいのでね――とりたててこれといったこともないですからね。…ああそうそう、外へ行くのは構いませんが、その姿を人に見られないようにね。」
 「いちいち云われなくたって判ってるよっ。」
 ぶうっと頬を膨らませてプレシマは抗議し、そしてぷいっとそっぽを向いた。
 「もういいっ。あっち(、、、)へ戻るっ。」
 そう云い残すと、不意に彼女の姿がゆらり…と歪んだ。そして次の瞬間――
 ――もう、そこには彼女はいなかった。
 「やれやれ……気まぐれな淫魔だ。」
 ファンカーはふうっとため息をついて、苦笑いした。
 「まあしかし…あれはあれでとても役に立つ存在ではあるし。」
 ファンカーは独り言を呟いて、そして業務に戻った。机上の書類をもう一度手に取り、今度はそれに注意深く目を通し始める。数ロスの間、眉にしわを寄せたまま彼はみじろぎ一つすることなくそれを読み解いて、そしてペンを――プレシマが先ほど床に落としたそれである――手に取り、インクつぼに先端を浸して、その書類にさらさらとサインを書き、二枚のうちの一枚を別の空の書類入れに収めた。さらにそうして、他の書類にも目を通し、そこに自分のサインを書き加えて必要なものは分けていく。彼はそうして他の何に気を取られることもなく書類の処理をすすめ、おおよそ三〇ロスののちには最初に箱に入っていたものはすべて処理されてしまった。
 「――おっと…これだけですね。」

 空になってしまった書類入れに更に手を伸ばそうとして気づいて、彼はその手を引っ込めた。
 「これで…とりあえず、バサラに文句は云われないでしょう。内容も特に問題はないようだし……まあ、仕事の方はこれで一段落、というところですね。あとはさほど急がずとも、うまくいってくれるでしょう。――さて、」
 ファンカーは椅子を引いて、立ち上がった。そして右手で耳の辺りの髪をかきあげた。彼の細い繊細な指が、彼の耳に当たる。
 その、耳の先端――
 はらり…と流れ落ちる長く柔らかな髪ですぐに隠れてしまったが、一瞬髪の陰から覗いたそれが、人間のそれにしては、やけに尖っているように見えたのは、見間違いではなかっただろう。
 「…少し、抑えて(、、、)、おきますか…。」
 彼は呟いて、扉に手をかけ、部屋を出た。そのまま廊下を歩いて更にもう一つ扉を開け、ホール上の回廊へと出る。そこにいてこちらへ入ってこようとしたメイドに微笑みかけ、彼女を充分に舞い上がらせて、彼はゆっくりとホールへと降りてきた。そして先にフィムを案内した別棟へと向かう。
 「ご苦労様。」
 清掃用具を持ってせわしなく動くメイドたちに出会うごとに声をかけながら、彼は別棟のあるところへ向かっていた。そしてそれはすぐに彼の前に姿を現した――つまり、その別棟の一番奥に位置する、施錠された扉――フィムがなんとはなしに手をかけて開けてみようとした、そしてどうしても開かなかった、その入り口であった。
 「…………。」
 彼は懐へ手を入れてそこを探り、一つのものを取り出した。それは黄銅色に鈍く光る一つの鍵であった――彼はそれを扉の鍵穴へ差し込み、ガチャリ…とそこに施されていた錠を外した。彼はその扉を押し開けると、その暗い奥の通路へと姿を消した。彼はその後扉をきっちりと閉め、内側から再び錠をかけてしまったので、その中に何があり、何が行われていたのかは誰も知る由もなかった――というより、そもそもおそらくは、メイドたちにもそこへは近寄るなと、工事中だから業者が通ることもあり邪魔になるからなどといったことが云い渡されていたのかもしれない。いずれにせよ、彼がそうして姿を消して、そして再びその扉を開け皆の前に変わらぬ笑顔を表すまでにはゆうに三〇ロス以上の時間を必要とした。
 「おっと…驚かせてしまいましたか。すみません。」
 開かないと思っていたその閉ざされた扉が急に開いてそこから主が姿を現したので、たまたまそこを通りがかったメイドは驚いて悲鳴をあげそうになったが、ファンカーがその彼女へ例の『女性殺しの』笑顔を与えて優しく声をかけたので、彼女はそんなところから彼が現れたことなどすっかり忘れてぼうっとなってしまった。とにかくファンカーはそのメイドの肩を叩いて行かせると、扉を元通り施錠し、そのまま渡り廊下を戻りホールから階段へ、そして二階の回廊へと上って、扉を開けその奥へと消えた。
 その、扉に入り込む瞬間――
 風によって、ふわり、と舞い上がったその奥に見えた彼の耳――
 それは、少し前に見られたそれとは異なる、先の丸い、ごく普通のヒトの耳であった。



 『そんなときに限って、友人が、優しくしてくれたりするのです。
  ――いえ、けして、そんなつもりは、ないのです――ただ、
  ――ただ、親切にしてくださることが嬉しくて――
  …そして、楽しい時間を、過ごしたかっただけ――。

  ――でも、それが、相手を不快な気持ちにさせてしまったり、
  時として、誤解を生んだりさえ、してしまうのです――。
 』



 「…でねっ、そのあとね、ファンカーの馬車に乗ってねっ、ファンカーんトコまで行ったのっそこでね、紅茶をもらってね――」
 場所は移り、ここは、アルフェルムの住む宿の一階、『"人々の想い"亭』である。
 時刻はアールの八すぎ、日はもうとっぷりと暮れはしたが、まだまだ人通りは多い時間帯である。ここ、『人々の想い亭』も例に漏れず、かき入れ時であるとばかりに混み合っており、仕事を終えた男たちや夕食を外でとるために出てきた夫婦といったような人々の姿と、彼らの発するざわめきや笑い声であふれかえっていた。マスターもそれらの客をさばくために調理をする片っ端から給仕、そして皿を洗ってはまた新たなる注文をこなし――とあわただしく動き回っており、さながらそれはちょっとした戦争のようであった。
 アルフェルムとフィムは、その食堂内、はじっこの小さな数人用のテーブルに席を取り、すでに差し出された 食事をしたためているところだった。
 アルフェルムは、特に何かに襲われるようなこともなく、あのあと順調に仕事をこなし、かなり早い時刻にヴァンへと戻ってきたのであった。彼らは日が沈んで暗くなりつつある中、一旦ギルドへと寄り、馬を返し、収集した薬草類をそこへ収め、成功報酬としていくばくかの金を受け取ったあとそこで別れた。その後アルフェルムは、フィムが首を長くして待っているであろう宿へ急ぎ戻った、というわけである。
 だが、彼がそうして帰ってきたときに待っていたのは、彼をねぎらう言葉と首筋へのキスではなく、ファンカーという、初めて聞く者の名と、そしてその者とのひとときの話であった。
 「――でね、それがね、すっごくオイシかったのっ
 「――そうか。」
 アルフェルムは、目の前の炒めた飯をスプーンで口に運びながら、口数少なくそう答えた。――彼を責めることは出来まい。彼でなくとも、あまりそんな話を楽しそうに聞く気にはならなかったであろう。
 「――あっ、それでねっ、その時のお菓子ね、少しおみやげにもらったんだよっお部屋に置いてあるからね、あとで一緒に食べよっホントにね、スゴイおいしいんだよっ――!!」
 彼にしてみれば、フィムが昨日、そして今朝方も、瞳を潤ませて訴えるように『早く帰ってきて』というから無理をしてでも少しばかり急いで、また寄り道もせずまっすぐに宿へと戻ってきたのである。その心のうちには、彼の帰りを待ちわびるフィムの姿が、まるで今にも泣き出しそうにしながら彼を迎えるその天使の姿が――そしてそんな彼女に対して、一刻も早く帰って護ってやりたい、安心させてやりたい――そういう気持ちがあったはずである。だが――事実は無情、とでも云うべきか――いや、フィムに悪気があるわけではない。彼女は純粋に、『寂しい時を過ごしたくはなかった』それだけである。だが――その結果として、彼を迎えたのは、彼に対するねぎらいではなく、彼とは関係ない人物との、しかしとても(、、、)楽しかったらしい昼下がりの話――そして、それは、おそらくは、彼がもっとも求めていなかったものであったに違いない。
 「――アル……?」
 さすがに、フィムも馬鹿ではない。そんなアルフェルムのある意味異様な静けさに、フォークを止め、不安そうに彼の顔を覗き込んだ。
 「…なんだ。」
 「ン……その、アル……なんか、元気、ないから……エト、おシゴト……大丈夫、だったの……?」
 「それは、問題ない。」
 アルフェルムは一言だけ、素っ気なく答えた。そしてすぐに顔を伏せ、食事に戻る。
 「…だったら、いいケド……
 フィムはこちらも困ったように自分の食事に戻り、そして会話に詰まり、結果として、またファンカーのそれに戻る。
 「…でね、ファンカーね――また、おいでって、それでね、アルもね、一緒に来ていいってね、云ってたよっ……!!」
 「――そうか。」
 歯車が、狂ってしまったときというのは――このようなものか。
 フィムが、特別それを感じていたというわけではない。だが、もしそこに、このやりとりのすべてを眺めている者がいたら――そう呟いたかもしれない。
 だがこの、どこかしらずれてしまったぎくしゃくとした雰囲気は、彼らが食事を終え部屋に帰ってきても、残念ながら元に戻ることはなかった。
 「…あッ、ねえっ…も、もう寝ちゃうの…?さっき云ってたお菓子食べながら、少しくらいおハナシ、しようよォ……!!」
 アルフェルムは部屋にとって返すなり、かるく羽織っていた上着を脱ぎ――鎧や剣、楯は食事の前にすでに外して部屋の隅に乱雑に置いてあった――またズボンも脱いで、シャツとパンツだけといういつものように休むためのごくラフな格好になって、そのままごそごそとベッドに潜り込んだ。
 「ねえ、アルってばぁっ……!!」
 「疲れとるんだ。」
 アルフェルムの返事は、例によって素っ気ないものであった。だがフィムはまだ諦めずに続けた。
 「そんなコト云わないでよゥ……ねえ、今日のおハナシとか、途中どうだったとかっ……それに、」
 フィムは少し赤くなって、くちごもった。
 「――それに、そ、その……しっ、しばらくっ……してもらって、ないしっ……!!」
 「またにしろ。」
 ふたたび、アルフェルムの返事はとても簡素なものだった。そして彼はフィムの方に背を向けたまま、肩を大きく上下させてふうっと息を吐いた。
 「そんなァッ……!!」
 フィムの、強い非難を帯びた声が室内に響き渡るも、アルフェルムはその体勢も、態度も変えなかった。
 「…ねえっ、アルっ……アルってばァッ……!!――ねえ、そんなすぐに寝ちゃヤだよォッ…ねえ、アルゥッ……!!」
 フィムは執拗にベッドの上に乗ってアルフェルムの身体を揺すったが、彼が心変わりして起きだしてくるような様子はなかった。フィムは目尻に涙を浮かべながら、思わず叫んだ。
 「むゥッ…アルのバカッ!!」
 そして、むろんそんなことぐらいでは動揺などしない――少なくとも、動揺したようなそぶりは見せない――アルフェルムに向かって、フィムは、無意識のうちにさらに強い言葉を投げかけた。
 「ファンカーの方がッ――」
 「――ファンカーの方がッ……ずっとずっと、親切だったもんっ……!!」
 それだけは、口にしてはならぬことだったのではなかっただろうか。一瞬、重苦しい沈黙が室内を包む。フィムもさすがにこれには、しまったと思ったかもしれない。
 「…そうか。」
 …だが、幸か不幸か、それとも意図的なものででもあるのか――アルフェルムの行動は、やはり、まったくいつもと変わらぬ――少なくとも見た目には――ものであった。しかしそれは、フィムをこれ以上ないくらいにふくれさせるには充分であった。
 「アルのばかッ!!」
 今度は本当に、本心から、それこそ隣近所一帯に聞こえるほどに叫んだフィムは、ばっと毛布を跳ね上げてアルフェルムの隣に潜り込んだ。そして、背中合わせになると羽が当たるので、半分しょうがなく、半分はアルフェルムがこちらを向いて抱きしめてくれることを期待しながら、ごそごそと彼の背に向かうようにして身体を横たえる。
 「…ねえっ、アルっ……!!」
 フィムは、もう一度、未練がましく、背中越しにアルフェルムに呼びかけてみた。だが、残念なことに彼の返事はなかった。というより、彼がそう口にしたように、確かに彼は疲れていたようで、いつものように護身用の剣だけは枕元の物置台に置いてありはしたものの、その規則正しい呼吸音と逞しい肩が上下する様は、彼が早くも眠りに誘われて夢の世界に旅立ってしまったことを如実に示していた。
 「…もうッ……アルの、ばかっ……!!」
 フィムはもう一度、しかし今度は怒りというよりもむしろ悲哀を帯びた非難を彼にぶつけた。もっとも、それによってアルフェルムが起きてくれるかもという最後の、そして淡い期待は広がる静寂によってもろくも崩れ去った。
 「…ぐすっ……!!」

 フィムは彼の背中に顔を埋めながら、鼻をすすった。目頭が熱くなってくるのを、何度も目をしばたたかせてこらえ、そしてさらに毛布の中へ顔を潜り込ませる。
 (……えっち……してほしかったのにッ……!!)
 フィムは、顔を埋めたまま彼の背中に向かって叫ぶように呟いた。
 ――フィムにとっては、夜の性行為は、彼とのつながりを見いだせる、そして自身の存在意義を確認できる一つの手段であったに違いない。彼に救い出されることになってから、こうしてずっと同居生活を――時には、同行した冒険において死にかけたような経験も共に持ちながら――営んできたわけであるが、だが、その彼女の心の根底にあったのは、いつも、『自らがアルフェルムに必要とされていたい』ことであったであろう。
 だが、もともとアルフェルムはあまりそういうことを口にしないタイプであったから、彼女は、いつでもそのことで不安な気持ちを持ち続けていなければならなかった。――それを、一時でも忘れていられる――そして、彼が、自らを必要としてくれていることを再認識できる、幸福な時間――それが、彼と、身体を重ねている時間であったのだ。
 (…こないだから、しばらく、してもらってないのにっ……。)
 (……アル、もう……あたしのコト、…要らなく、なっちゃったのかなぁっ……?)
 (――そんなの、)
 (そんなの、ヤだよォッ……!!)
 フィムは、思わずアルフェルムのシャツを両手でぎゅっと握りしめた。
 (あたしは――あたしはッ、)
 (……アルの……大事なヒトで――いたいんだもんッ……!!)
 だが、やはり、彼は静かに、肩を上下させるのみ、である。
 そして、無邪気な彼女は――いや、無邪気であるが故に、彼女の言葉と態度が、ファンカーと過ごした時間の話が――アルフェルムとの間に、小さな溝を生んだことには、彼女は気づかぬ。
 (アル……こんなに、スキなのに……こんなに、いっぱい、いっぱい、スキなのに……なんだか、さいきん…すれちがい、ばっかり……!!)
 「……ぐすっ……!!」
 フィムはもう一度鼻をすすった。そして、もぞもぞと動いて彼の方へと身体を寄せる。…離れたまま眠ってしまうと、次の日起きたときに、彼が隣に居なくなっていそうで恐かったのだ。彼のシャツの背を握ったまま、出来る限り肌の触れ合う箇所が多くなるように後ろに寄り添い、頭を彼の背に持たせかけて、目を閉じた。
 (…明日……)
 (――明日は……ちゃんと、おハナシとか、…して、くれるかなぁ……!!)
 (……それで……えっちもっ……!!)
 いつしか――
 フィムも、少しずつ、夢の世界へと引き込まれていった。
 スゥ、スゥ…と、小さな呼吸音をたてながら、フィムは翼を上下させる。
 外から遠巻きに入ってくる喧騒だけが、暗い室内に響いていた。



 『
  最初は、そんなつもりではなかったのです。
  だけれど、生まれてしまった溝は、もう、ふさがることは、ない――。
  消えたように見えても、
  小さな外壁の傷が、ぴしり、ぴしりと広がっていくかのように、
  誤解は、誤解を生み、さらなる誤解を呼び寄せる。
  大好きなはずなのに、
  この人しかいないと、何度も確めたはずなのに――

  ――狂い始めた歯車は、少しずつ、不協和音を奏で始めるのです――。
 』



 翌日。
 フィムが、心地よいぬくもりの中で目覚めると、アルフェルムは昨夜とは違い、こちらを向いていて、そして彼女の身体をしっかりとその逞しい腕で包み込んでくれていた。
 「?……
 フィムは半分ほど目を開いたところでそれに気づき、嬉しそうに彼の胸に顔を埋めた。『夜中に気づいたら、寒かったのか、お前が全部毛布を奪っていってしまってたんで、毛布を奪い返して、お前を抱くことにしたんだ』とのちにアルフェルムは説明したが、とにかくそれがフィムの機嫌を回復することには大いに役立ったようであった。
 「ン……
 フィムはそうして、彼の腕の中で、彼が窓から差し込む陽の光によって目覚めるまでの十数ロスの間、彼女をしっかりと包み込む力強い感触に安心感を憶えながら、ここちよいまどろみの時間を楽しんだのであった。時に顔を埋め、時には猫のように頬を彼の身体に擦りつけながら――身体の前から伝わってくるぬくもりと、背中に伝わる彼の腕の感触に、何度も『はフ…』と吐息をつき、脚を彼の脚に絡ませ、もぞもぞと腰を動かし、そして、少し顔を上げてはだけている胸元にキスをする――そんなことを、ぼんやりしたまどろみの中で何度も何度も繰り返して、幸福なひとときを過ごしたのであった。
 だので、今朝のフィムはことさらに機嫌が良かった。アルフェルムが目を覚ましたとき、フィムは『おはよっ』という元気な声と共に、嬉しそうに笑って抱きついてきたし、朝食を摂るときも、終始ニコニコとしていた。アルフェルムの方は、一昨日の晩のように、いつもながらのフィムのそんな『すべてがリセットされたかのような』急な感情の変化に、多少なりとも面食らったには違いない。だが、まあ、いつものことでもあるし、急に怒り出したのならともかく、機嫌が良くなっているのならと、特に気にしないことに決めたようであった。

 「…ねっ、アルっ、お散歩行こうっ、お散歩っ
 腹がふくれて、少し部屋で休むと、だから、フィムはいつものように、外へ出たがった。――今日も、外は、おだやかな、よい天気であった。昨日に比べて少しばかり風は強かったものの、気になるというほどでもなかったし、気温は昨日にくらべるといくぶん高かったから、むしろ過ごしやすそうな日であった。
 「散歩か。――行くか。」
 アルフェルムは、昨夜よく休んだこともあって身体の疲れはすっかり抜けていたし、また彼自身、少しばかり歩きたい気分でもあったので、フィムと一緒に出かけることにした。
 「へへっ、お散歩っ
 通りへ出、まだ朝方ゆえにすくない人通りの中を歩き始めると、フィムはアルフェルムと腕を組み、嬉しそうに彼を見上げた。
 「…なんだ。嬉しそうに。」
 「嬉しいもんっ
 フィムは羽を揺さぶりながら答えた。
 「だって、アルと一緒にお散歩、久しぶりだもんっ
 「久しぶりという程でもないだろうが。この前の、少し曇っていた日の前日に行っただろう。」
 「えー、だってあれって五日も前のことだよ?」
 「たった五日だろうが。」
 「五日って云ったらすごい離れてるもんっ…全然久しぶりなんだもんっ…!!」
 フィムは、すこぶるよい調子であった。アルフェルムの左側に陣取り、彼の腕に自分の細い腕を絡ませて、時折飛び跳ねるようにして歩いていく。
 「エヘ…風、キモチイイ
 「今日は少し風が強いな。」
 「んー、でも、あったかいから気になんないよ
 フィムは髪を風になびかせながら、目を閉じ、心地よさそうに答えた。
 「それに、昨日より、風に乗ってくる匂いが少し多くなってるカンジ
 「そうか?」
 「ン、いろんな花の匂いとか、草の匂いとか。」
 「よくそういうのがわかるな。俺には、かすかにそれらしい匂いがするぐらいしか、判らんが…。」
 「そう?いっぱい、いいニオイするよっ…。」
 彼らは、他愛なくお喋りを交わしながら、人々が行き交う通りを歩いていく。この辺りは、やや中心部から外れてはいるものの、それでも結構人通りはある。ふかしまんじゅう屋や八百屋といった小さな店もぽつぽつと建ち並び、それらは大盛況とは云わないまでもそれなりに生計を立てていけるくらいには繁盛していたから、そのくらいの人々はこのあたりにはいた、ということになる。そんなひとびとの間を、彼らはまわりを見回しながら、時には路上にまで張り出している露店を覗き込みながら――それだって、いつも見ているものではあるのだが、しかしフィムはいつでも必ずそういった店先を一つ一つ覗き込むのであった――行くあてを定めるでもなく、時には右へ、次は左へと、その時々に気の向いた方へ、ゆっくり、ぶらぶら、歩いていく。
 「――エヘヘ
 フィムは、そうやっていつものようにふらふらと店から店を渡り歩いたり、時にはヒトが入れぬようなごく細い路地を覗き込んでそこに住みついている猫の親子を飛び上がらんばかりに驚かせたりしながら、何度目かにアルフェルムのところへ戻ってきて、そしてまた彼の腕に抱きつき、彼の顔を見上げて無邪気に笑った。アルフェルムの方も、すっかりいい調子になったそんなフィムを見て気分が悪いわけがなく、ときおり『ほれ、向こうから馬車が来るから…気を付けろよ』などとたしなめはするものの、それほどきつく云うでもなく、彼女がちょろちょろと一時も休む暇なく走り回るのを、おだやかな表情で見守っている。
 さて、だが、そんな円満至福な時も、それ(、、)が起こるまでの間であった。
 彼らはそうやって、特に目的地を定めるでもなく、通りの右端付近をぶらぶらと歩いていた。まだ中央の方からは遠かったから、人通りもさほどでもなく、通りはとても平和であった。
 そして、彼らが大きな十字路にさしかかり、建物づたいに、右へ曲がろうとしたとき。
 「キャッ……!!」
 「――とッ……!!」
 突然その死角からゆらり、と現れた誰かを避けるひまもなく、アルフェルムはその者とぶつかり、そしてその相手にしりもちをつかせた。
 「あっ…あす、すみません、ごめんなさい……ホントに、ごめんなさい。私、前をよく見てなくて……!!」
 アルフェルムが詫びる前に彼女はぱっと起きあがり、ぺこぺこと何度もおじぎをした。
 「そ、それじゃ私、これで――ほんとに、すみませんでした……!!」
 彼女は軽く尻をはたいてほこりを落とし、アルフェルムの方をよく見もしないままもう一度ぺこりと大きく頭を下げ、またとぼとぼと歩き出した。その姿があまりに元気がなかったのも気になった点ではあったが、それよりも、見覚えのある赤い三つ編みの髪にアルフェルムははたと気づいて、彼女の腕をつかんだ。
 「待て。――君は、たしか――」
 「――あっ!?……あ……?」
 黒ぶちのめがね越しにアルフェルムを見上げて、彼女の方もそれに気づいたようであった。――そう、彼女であった。一昨日、アルフェルムとセプターがギルドに到着し、そしてその入り口をくぐろうとしたとき、アルフェルムにぶつかってしりもちをついた、あの女性だったのである。鼻と頬に残るそばかす、ぼってりとした衣服――間違いない。
 「どう…したんだ。元気がないようだが…弟は、見つかったのか?」
 アルフェルムは、彼女のうちひしがれた様子が気になって、そう、尋ねた。
 と――
 「…!?お、おい
 不意に、彼女は、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
 そして、アルフェルムの胸に飛び込んで、声を上げて泣き出したのだ。
 「おい…こら。どうしたんだ…落ち着け。」
 アルフェルムは最初ややうろたえたが、しかしすぐに、これはダメだと、そう簡単には落ち着かないと悟ると、彼女の肩と頭を軽く抱いて、なだめるように撫でてやった。その間も彼女は高ぶる感情を抑えきれないかのように、大声で、しゃくり上げながら泣きじゃくる。往来を行き交う人々が、何事かと、なにか痴情のもつれかと、こちらを見ながら通り過ぎていく。
 が――
 一人、ここに、存在を忘れられている者がいた。
 フィムである。
 彼女にしてみれば、今日はとても気分の良い日になるはずだったのだ。朝からアルフェルムはなんだか優しかったし、だから、昨日までの少しばかり離れかけたお互いの気持ちを埋めるには絶好の日だと、フィムは意識せずとも思っていたに違いない。…だが、突然現れた彼女が、自分という、その場所にもっともふさわしい者をさしおいてアルフェルムの胸を奪い、その中で臆面もなく泣きじゃくっている、そしてまた愛するアルフェルムが、それに対し嬉しそうに――と、彼女は感じた――もちろんそれは、彼女の勝手な想像であったことは云うまでもない――彼女の肩を抱いてやっている、そのことでみるみるうちに彼女の頬はふくれ、眉はつり上がっていく。
 「――アルッ!!」
 「…なんだ、ちょっと待て。今取り込み中だ。」

 またこういう時にアルフェルムのその性格が災いとなる。即ち、嘘でもいいからすまなさそうな顔でもすればフィムも少しぐらいは我慢するのであろうが、彼にとっては何もやましいことでもないし、それに対してどうして嘘までついて機嫌をとらなければならないのかという実直な、云い方を変えれば融通の利かない彼のポリシーが、彼をそのように粗野に振る舞わせる――それが、かえってフィムの神経を逆なでするのであった。
 「取り込み中って、なにっ!!嬉しそうに抱いてッ!!」
 「なにが嬉しそうだ…お前にはこの状況が嬉しそうに見えるのか!?」
 「見えるもんっ!!」
 「馬鹿野郎。…とにかく、少し待て。話はそれからだ。」
 「待てないッ!!」
 フィムはアルフェルムがなだめるのも聞き入れず、周囲をはばかることもなく叫んだ。
 「いいもんッ!!どーせアルは、あたしのコトなんかどうでもいいんだもんっ!!あたし、ファンカーんトコ行くからっ!!」
 「こら、待てフィム…ファンカー?おい、フィム、話を聞けというのにッ…フィムッ……!!」
 アルフェルムが声を張り上げて押しとどめようとするも、これまたフィムの性格である。ひとたびそうして感情が爆発してしまうと、もう何も耳には入らない。フィムはばさっ、と大きく翼を広げると、ばさっ、ばさっとそれを数度打ち付け、『こらっ、フィムッ…翔ぶなと云っとるだろうッ!!』というアルフェルムの叱咤の声も聞かず、そのまま上空へ舞い上がり、町はずれに向かって飛び去ってしまった。
 「…まったく、あいつときたらッ……!!」
 アルフェルムは感情をあらわにして舌打ちした。だが、そうして女性をなだめている途中であるから、どうにもしようがない。アルフェルムは空を見上げたまま、ふうっとため息をついた。
 「……あの……。」
 と、気が付けば、その女性がようやく顔を上げていた。前回と同じ黒縁のめがねの奥にはまだ目に涙が残っていたが、それでも心は少しばかり落ち着いたとみえて、声の方は割としっかりしていた。
 「ああ……落ち着いたか?」
 アルフェルムは彼女に笑いかけ、その身体を離し、肩を軽く叩いた。
 「はい…あ、あの…ど、どうもすみませんでした……わ、私ったら、見ず知らずの人にこんなこと……ううんっ、ええと、こないだお会いはしたけれど……その、ギルドの前で……え、ええと、だから、私――そう、『ああ、あの時の人だ』って思って、それで弟のこと、訊かれたら、急に涙が溢れてきて、どうしようもなくなって……と、とにかく、すみませんでした……!!」
 「いいさ。」
 アルフェルムは、目の前であわてふためく少女の様子に、力が抜けてしまったようで、笑いながら一言だけそう答えた。
 「まあ、フィムは膨れて翔んでいったが――それも、いつものことだ。」
 「――あっ、お連れの方!?すす、すみませんっ……わ、私があんなことしたから……怒ったんですよね、ほ、ほんとにごめんなさいっ……!!」
 彼女はまたぺこぺこと頭を下げた。アルフェルムは苦笑いして、付け加えた。
 「気にするな。いつものことだ――夜になればまた、けろっとした顔で帰ってくるだろう。」
 「ほんとに、ごめんなさい……。」
 「…それにしても、」
 アルフェルムは、通りの邪魔にならないように彼女を手で端へ寄せ、自らも壁に背もたれた。
 「なんだか、随分ため込んでいた様子だったな。…やはり、弟は帰ってきていないのか。」
 彼女はうつむいて、小さくコクッと頷いた。
 「…でも、どうしてそれを…?」
 「俺はあのギルドに所属している。マスターとも懇意でな。あの時、君の様子が変だったので、マスターに尋ねて、一通りの話は聞いた。」
 「そうだったんですか…。」
 彼女はアルフェルムを見上げ、そしてまた再度うつむいて続けた。
 「――行きそうな所を当たってみたり、子供たちに話を聞いたりはしているのですけど…手がかりが、無くて……。」
 「国の方へは、捜索願は出したのか。」
 「…届けは、一応……それで、国の方にも、そういった届けは、ここ最近いくつか来ていて、それでそちらでも、動き始めてはいる、と……ですけど、やっぱり、個人のためには、どうしても動けない、と――個々の事件一つ一つに割り当てるほどの人員は、いないと……。」
 「まあ、そうだろうな。」
 アルフェルムはポケットに手を突っ込み、空を見上げて呟くように云った。
 「…しかし、それでも……国が動き出すほどには、あちこちで、起こっているのか……。」
 「――え?」
 「ああ、いや、なんでもない。」
 その言葉はアルフェルムは自ら濁してしまった。そして彼女の方を向き直った。
 「…良ければ、力になろう。詳しく話をしてくれんか。」
 「――え……?でも……ご迷惑になるんじゃ……。」
 「だが、こうして話を聞いてしまったことでもあるしな。『サラマンダーと戦うなら、フェニックスをまでも打ち斃せ』とも云う。どこまで出来るかはわからんが、こちらでも、独自に調べてみよう。」
 「…ですけど……その、私、それほど報酬をお出し出来るわけじゃ……。」
 目を伏せてうつむいた彼女に、アルフェルムは小さく笑い、手で制した。
 「仕事にするつもりはない。…遊びでするつもりもないが。――幸い俺も、ここ最近はいくつか仕事をこなした後で、懐はべつだん寒くはない――だから、そのあたりは心配せずともよい。」
 「――どうして……そこまで……?」
 彼女は、顔を上げて、アルフェルムを見上げた。
 「――とは、また……?」
 「いえ……その、」
 彼女は視線を外しながら、言葉を選んで続けた。
 「――その……この間、ギルドの前で、ぶつかった……それだけで、――ええと、その、きょ、今日私が抱きつい…ちゃったのも、あるのかも知れませんけど……でも、それだけで……そこまで……。」
 「――アレが、怒るんでな。」
 アルフェルムは、小さく息を吐いてから、ポツリと呟くように云った。
 「……え?」
 「『俺は、ひとを助けることが出来る人間なのだから、それをすることは、俺の大切な役目の一つ』なのだ、そうだ。」
 「……?」
 「俺が、かつてアレ(、、)を拾ったとき…そして、それが、弱者に対する傲慢なのではないかと疑問を持ちかけていたとき…アレが、無邪気な顔をして俺に云った言葉だ。それで――自分のしていることは、間違いではないのだと、むしろそうあるべきなのだと――あらためて、俺に信念を持たせてくれた。だから……な。」
 「…そうですか……。」
 「――もっとも、」
 アルフェルムは、今度ははっきりそれと聞こえるくらい大きなため息をついた。
 「そう云っておいて、やきもちを焼いて翔んでいったのだから、あいつもあいつで勝手なものなんだが……。」
 「――くすっ……くすくす……。」
 彼女はその言葉と、困ったようなアルフェルムの表情を見て思わず笑い出した。
 「…なんだか、お話を聞いてたら、気が抜けちゃいました。」
 「元気が出たのなら、結構なことだ。」
 アルフェルムの方も、表情を和らげて云った。
 「私、エムルと云います。エムル・フィーヴィー……少し前に、こちらの街に越してきました。この、向こう側の通りを、右へ曲がったところ――長屋の向こう、四軒めの家に住んでいます。」
 「アルフェルムだ。アルフェルム・ファミリアーナ。…アルでいい。――向こうの通り……アルジタ通り(ブルバード)か。…家族でか?」
 「ええ…ですが、父はいません。――母が弟を生んですぐ、流行り病で倒れました…私が、九歳の時でした。」
 「…それは、気の毒だったな…。」
 アルフェルムは少しばかり沈痛な面もちをした。
 「――なので、今は、母と私、それと弟――三人で住んでいます。」
 「三人暮らしか。…それでは、弟のことはさぞかし心配だろうな。」
 「ええ……。」
 再び、エムルは顔を伏せた。
 「…あの日も、ごく普通に…朝ご飯を食べた後、遊びに行ってくると云い残して、家を飛び出していったんです。はっきり、憶えています…『少しは家のことも手伝ってよ!!』って、私が叫んだのを、肩越しに振り返りながらあかんべして走っていったから…。」
 「遊びにか。…友だちは、多いのか。」
 「…みたいです。皆を知っているわけではないけれど――ザテナは、――あ、弟の名です――私と違って、元気で人見知りしない子なので、引っ越ししてもすぐ周りの子供とうち解けて……だから、今回の引っ越しも、これで三回目なんですけど、それでもこの辺りの子供たちとうまくやっていってるみたいです。」
 「歳は、いくつだ――やはり九、十ぐらいか?」
 「そうです、九歳です。」
 エムルは大きく頷いて答えた。
 「…だから、その……買い物に、行くときなんかに、小耳に挟んだりはしてるのですけど……同じくらいの歳の子供が、いなくなってるって、そういう話がうわさになってるから……気が気でなくて……。」
 「ふむ……。」
 アルフェルムは、腕組みをして考えた。
 「いつも、自分の家の周りで遊んでいるのか?」
 「そうですね。あんまり遠くへは行きませんから…近くの子供たちと、鬼ごっこをしたり、通りでボール遊びをしたり……そんなに遠くへ行くことはないですね。」
 「子供たちには、訊いてみたのだな。」
 「ええ、私も何人かは顔を知っているので、尋ねてみたりはしたのですけど……普通に遊んで、普通に別れたとしか……。」
 「そうか……まあ、子供たちに尋ねて簡単に判るようなら、そもそもここまで話は大きくなっとらんか……。」
 アルフェルムは少しばかり考え込んだ。
 「――その、行方不明になっている子供たちの、消えた場所だとか、時間だとか、そういったものを調べれば手がかりにはなるかもしれんか。…少し、調べてみるかな……。」
 「…すみません……。」
 「気にするな。…なにか、情報が入ったら、そちらの家に知らせに行く。もし何か俺に伝えることがあったら…そうだな、ギルドにでも伝言を残しておいてくれ。宿に来て貰うより、その方が何かと都合が良かろう。」
 「わかりました。」
 もう一度、エムルはペコリと頭を下げた。
 「あまり、気を落とさんようにな。落ち込んでいれば、それだけ悪いことも起こりがちだ。笑っていれば、幸運も自然と集まって来る。元気を出して、弟の帰りを信じて待つことだな。」
 「…はい。」
 エムルは、アルフェルムを見上げてニッコリ微笑んだ。
 「そうだ、その笑顔だ。…いい顔だな。その方が、見ている方も元気になる。」
 アルフェルムは完爾と彼女の肩を叩いた。
 「はい。」
 「…さて、それでは俺は早速少しばかり話を聞きに回るとしよう。エムル…と云ったな。今日はもう帰って、いつも通り家事を進めるといい。」
 「はい…あの、その……お連れの方に、ほんとに、すみませんでしたと、お伝えください…。」
 「わかった。」
 そう、云い残し、アルフェルムは、深々と頭を下げるエムルを背に、通りを歩き出した。
 (――さて、そうは、云ったものの――どうしたものか。)
 アルフェルムは、通りの角を曲がって、立ち止まった。
 (――国の方へ訊きに行ってもいいが、一市民に対しては、おそらくはさほど情報提供はしてくれんだろう…俺自身が歩き回って情報を集めるか。…だが……効率が悪いな……。)
 「――ふむ……。」
 アルフェルムは辺りで主婦たちが交わしている話に耳をそばだてた。残念ながら、その辺りで彼女たちが交わしている会話は、どこそこで野菜が安かっただの、亭主が酒びたりだの、そういった類のもので、運良く彼が欲しがっている情報、というわけではなかった。

 (……とりあえずは、ギルドの方へも、種をまいておくか……。あとはまあ、数日ヴァンを全体的に歩き回って、自身で情報を集めて――)
 アルフェルムは、立ち止まったまま、考えに沈み込んだ。
 (…まあ……一番確実なのは、多分――あいつに、調べさせる事なんだが……。)
 「――だがな……。」
 アルフェルムはそうひとりごちたあと、再び沈黙した。
 (……あいつか――あいつはな……面倒なことに、なるからな……本当なら、こんなことで借りを作りたくは、ないんだが……。)
 (――だが、腕が立つのも、確かだし――)
 「――さて……困ったもんだな……。」
 アルフェルムは思わずそう口にしていた。
 (……しょうがない、か……フェニックスを打ち斃せと云ったのは、俺自身だしな――気が進まんが、手を回しておくか――。)
 「――やれやれ……。」
 その、アルフェルムの口から漏れた言葉が、どういった意味を持つものなのかは、図りし得なかったが、とにかく彼は行動を開始することにしたようだった。彼は、少しずつ人通りが多くなりつつある通りを、ギルドへ向かって再び歩き始めた。
 数十ロスののち、彼はギルドへ到着した。彼はいつものように両開き扉をくぐり、そのあまり新しいとも、美しいとも云えない建物の内部へと足を踏み入れる。ざっと目を走らせると、室内には奥にこれまたいつものように数人の、顔の知れた者たちが座って雑談など交わしていた。
 「…おう、アル公。」
 そしてカウンター内部には、ボーンがいつものようにパイプで煙草を吹かしていた。
 「どうした。仕事探しか。」
 「いや…今日はそうではない。」
 「今日は、おめェの天使は?」
 「…ああ……ちょっと、わけがあって――」
 「またケンカか、ん?」
 聞き慣れた声が背後からかけられた。
 「――フォード。」
 「おこんち。」
 軽装の彼は、特にいつもと変わりない格好で、腰に短めの護身剣と、そして頬を護るトレードマークのナイフを頭に巻いたバンドに着け、戸口の柱にもたれかかるようにして立っていた。
 「――見ていたのか。」
 「おいおい、ホントにケンカかよ。」
 彼はちょっとからかっただけのそれが事実だったことにむしろ驚いてアルフェルムに歩み寄り、そのままカウンターに座った。
 「人聞きの悪いことを云うな。…あいつが勝手に勘違いしただけだ。」
 「だけど、嬢ちゃんの勘違いはきっと恐いぜ、ん?」
 フォードがニヤニヤしながら指を指す。
 「…だから、困っとるんだ。」
 アルフェルムはややむっとして云った。
 「とにかく、話を聞いてくれ。」
 そう云ってアルフェルムも椅子を引き、そこに腰をかけ、ボーンが二人に差し出したアイスティーに口を付けて、ついさっき起こったことを一部始終話した。一昨日ここにきた、三つ編みの彼女に会ったこと、会っただけならいいのだが、感情を高ぶらせた彼女が抱きついてきて、それを見ていたフィムが膨れてどこかへ行ってしまったこと――この話はフォードをこの上なく抱腹させ、奥にいた一団を何事かと驚かせた――そして、まだ弟が見つかっていなく、彼がそれを調査してみることにしたことなどを。
 「――それで、情報を求めてうちへきた――というわけか。」
 「そうだ。」
 「しかしなぁ…ハッキリ云ってアル公よ、そりゃ難しい相談だぜ。」
 フォードがカウンターの上にほおづえをつき、横やりを入れた。
 「だってよ、めどなんてねェんだろ…?報酬があるわけでもなし。…それに、一応国だって動いてるんだろ…それで情報がないとなりゃあな、こんな場末のギルドにそれ以上の情報なんて――」
 「場末で悪かったな。おめェにはもう仕事回してやらん。」
 「あっあっ、いやいやこんなヨイギルドは他にないザンスよボーン様
 「調子のいいこった。」
 舌打ちするボーンを手で制し、アルフェルムは口を開いた。
 「まあ、金にもならんし、本当に見つけられるかどうかも、正直判らん。お前が云うように、国が動いているのにそれ以上のことを俺たちがする意味があるのかどうかも判らん。だが――放っておく気にもなれなくてな。それに――」
 「?」
 「――それに、どうも……なんだか、気になるんだ。」
 「気になる?」
 アルフェルムは、アイスティーの入っているグラスを傾けてもてあそびながら云った。
 「ああ…なんというかな……うまく、言葉に出来ないんだが、――うむ……どうも、そう簡単に、終わらん気がしてな……。」
 「――そりゃあ、そう簡単には終わるまいが。」
 ボーンがさも当然といった風に云ったが、アルフェルムは首を横に振った。
 「いや、そういう意味ではなくて……何と云えばいいのかな、その……たぶん、ことは、そう簡単ではない気がするんだ……。」
 「…よく、わからねぇがよ。」
 フォードは軽く肩をすくめた。
 「――とにかく、俺たちゃ、なんか気づいたことがあったら、おめぇに知らせりゃいいんだな?」
 「話が早くて助かる。――セプター、ヴェリアスにもし会ったら、同じ事を知らせておいてくれ。」
 「テンフォー。…だけど、相棒はともかく、ヴェリアスがそれを聞き入れるかどうかはわからねぇぜ?」
 「いい。…ああ見えてもあいつは、最後には結局協力してくれるヤツだからな。」
 「よく飲み込んでるこって…。」
 「ふむ…ガキの誘拐ね……そんな話が、このギルドに集まってくるとは思えねェがな…。」
 フォードの皮肉じみたつぶやきは、ボーンの言葉によってかき消された。
 「…しかしまあ、ここに詰めていれば、ウチの登録メンバー、あるいは立ち寄った流れの連中なんかがそんな話をするのを耳にすることもあるかも知れねェな。…わかった、うちの若ェ連中にも云い聞かせておこう――当分の間は、ここに立ってる時は噂に耳をそばだてると共に、積極的に登録メンバーに訊いてみるように、と。」
 「恩に着る。それから――」
 「まだあるのか。しょうがねェな。」
 ボーンが眉をひそめたのへ、アルフェルムはやや苦笑いして続けた。
 「すまんな。こればかりは、お前に頼むしか無くてな。」
 「なんだ。」
 「シーヴィと、連絡を取ってくれ。」
 「…これはまた。」
 ボーンは目を見開いて驚きを隠さずに云った。
 「…誰だよ、そりゃ。」
 フォードが問う。ボーンが何か云い出そうとするのを制して、アルフェルムが眉にしわを寄せつつ、一つ一つ言葉を選んで説明する。
 「…まあ、その――いわゆる、情報屋だ…。お前たちには、説明してなかったが……別段、隠す必要もなかったんだが、これまで、必要でもなかったんで、云わなかった……とにかく、バルザ中央ギルドに属する、情報収集屋だ……ある程度の真魔法も使える、かなりの腕利きで……その、まあ、コイツに頼めば……おそらくは、集められない情報はないと云われる……そういう、ヤツだ……。」
 「なんでぇ。そんな知り合いがいるのかよ。」
 フォードはちょっとばかりびっくりした様子で云った。
 「すまん。その――隠すつもりは、毛頭なかったんだが――」
 「そんなことは構やしねェがよ、だけど……それにしたって、そいつを使えば……そりゃ、金の問題にはなるだろうがよ、これまでの俺たちのクエストにしたって、もっと簡単にすますことが出来たのもあったんじゃねぇのか?」
 「もっともな質問だ。」
 ボーンがカウンター越しに、なぜだか皮肉っぽい笑いを口元に浮かべながら答えた。
 「だがな、一つ問題があるんだ……よな、アルフェルム?」
 「ああ……。」
 アルフェルムは、彼にしては珍しく、非常に躊躇しながら、ぽつりぽつりつづった。
 「ひとつには、…そいつは、女だ。歳は、確か俺と同じ筈だ――だから今、二四、ということになる。」
 「それくれぇたいしたこっちゃねェじゃんかよ。…まあ、嬢ちゃんはいるがよ……それにしたって、嬢ちゃんも、シーナやメリスとはうまくいってるんだしよ、女だって事くらい――」
 「二つ目が、問題なんだ。」
 アルフェルムは、ものすごく大きなため息をついた。
 「――ソイツは……ことあるごとに、その――俺の、身体を、求めて来やがる。」
 「……ひゅうッ。」
 フォードは思わず口笛を吹いた。
 「…そりゃあ、オイシ……イヤイヤ、問題だな。」
 「特に、フィムを抱えるようになってからはな…。」
 もう一度アルフェルムは大きなため息をついた。
 「まあ、昔はな……俺も、男だし、冒険後にそのまま、娼婦館へ飛び込んだ事もあるし――だからまあ、ソイツの時も…いくつか依頼をした見返りに、抱いたこともあるがな――そこでアルフェルムははたと気付き、『いいか、絶対にこのことはフィムには云うなよ』と、ものすごい形相ですごんだ――だが今は、そういう――報酬に肉体関係、などというのは、あまり……。」
 「アルフェルム君は、まぢめ(、、、)ですからねェ。」
 フォードがちゃかしたのへ、アルフェルムはムッとした視線を送ってすごみ、言葉を続けた。
 「…とにかく、そうして、依頼のたびごと、報酬に俺の身体を求めてくるんで――俺自身は、あまり、アイツに頼みたくはないんだが……だがな、アイツが腕のいい情報屋であることは事実なんだ。……だからな――。」
 「――つまり、今回のそのエムルとかいう女性は、それを越える魅力を持っていた、ということですね、センセ?」
 「馬鹿野郎。――そうじゃない。そうじゃないんだが――」
 アルフェルムは、ふたたびくちごもった。
 「確かにな――そこまでする必要はないのかもしれん。…いや、ないだろうな。だがな――何故だか知らんが、俺の勘が、これをそのまま軽率に放っておくべきではない、そう告げているんだ……何故だろうな。俺にも判らん……単なる、直感だと云ってしまえばそれまでだ……。」
 「ふむ……。」
 ボーンがパイプの煙草を火鉢にコン、コンと叩いて捨て、云った。
 「まあな……てめェの勘が、大抵正しいことは、一緒に冒険に出たわけでもない俺とて、重々知らされているからな……フォード、おめェなら余計に判ってることだろう、ん?」
 「それを出されると弱えなぁ……俺もそれで生命を救われた一人だからなぁ…。」
 かつて彼らがパーティを組み冒険に出たときに、ある遺跡の内部で、アルフェルムの直感がパーティ全体を致命的な罠から救ったことがあったのだ。そう――アルフェルムの力は、その肉体的な戦闘力だけではない、言葉では説明の出来ぬ動物的な直感といったものでも評価されているのだ――そして、だからこそ、彼が加わったパーティは、ただの一度を除いて、『けして戻らないことがない』という、冒険者としてはこの上ない評価を受けているのである。(その一度とて、彼は大怪我を負ったものの、少なくともヴァンに戻っては来たのだ)もっとも、アルフェルムがそうして行動を共にするのは基本的に非常に能力の高い者たちばかりであったし、彼がフォード、セプター、ヴェリアスと知り合ってからは同行するのは彼らばかりで他の者から同行の依頼があってもほとんどは断っていたから、彼をパーティに加えさえすれば生き残れるといったような安易な考えは基本的に成り立たなかったのであるが。
 「――とにかく、そんなわけだ。ここでの情報収集と、…アイツ(、、、)への連絡――頼んだぞ。…俺はこれから、少しばかり自分で聞き込みに回ってみる。あとは、頼む。」
 「アルフェルム。」
 「…なんだ。」
 アイスティーを一気に飲み干し、席を立ちかけたアルフェルムに、ボーンが声をかけた。
 「――その事を探るのもいいがよ、嬢ちゃんのことも気にかけてやれよ。」
 「――ああ。」
 その、ボーンの言葉に、アルフェルムは、彼の真意を酌み取ったものかどうか、小さく返答だけし、そのまま扉をくぐって外へと出ていった。
 「やれやれ…アルフェルムの旦那、どうしたのかねぇ…確かに俺も今回のことについては聞いちゃいるが、しかしそこまで入れ込むようなことなのかね……?」
 「だがな……あいつが、そう云っているのだからな……勘であれ、その他から来るものであれ――信じるに足るものであることは、事実だろう……。」
 「…まぁな、アイツが云うことだからなぁ……。」
 「――それでも、」
 ボーンはカウンターの上に肘をつき、ずいっとフォードに顔を寄せた。
 「もし万が一、本当になんでもなかったら。」
 「――なかったら?」

 「…その時は、アイツにメシでもおごらせよう。」
 「――そりゃいいや。」
 フォードはにかっと歯を見せた。
 「おめェ知ってるか、二つ向こうの通りの酒場、こないだまで建て替え工事してたろう。…ついぞこの間、あそこが新装開店したんだ。一度前を通るついでにのぞいてみたが、いい感じになってたぜ。一度あそこで飲みてェと思ってたんだ。」
 「それはヒジョーによろしいですな、旦那。これはゼヒともアルフェルムセンセにはご失敗いただかないと。――いっそ、なにもしてやらねぇ、ってのはどうだ?」
 「そうするか?」
 二人は顔を見合わせて大声で笑った。
 そんな、ちょっとした裏取引が、ボーンとフォードの間で行われていようとは、流石のアルフェルムの直感でさえも、感じ取れるものではなかったのである。



 「ふむ――。」
 夕陽が斜めに差し込む室内で、アルフェルムは考え込むようにため息を吐いた。
 ついぞ先ほど、アールの三が街に響き渡り、人々に、そろそろ一日の終わりだと、そろそろ闇が訪れるころだと告げたところである。いつものように、働く男たちは仕事を切り上げてそれぞれの家に向かい、女たちはその男たちのために、今日も食事を用意し始める。腹を減らした男どもは、やれきょうも飯が足りないだの、今日は魚より肉が食いたかっただのもっと酒を出せだの、騒がしくわめき立てるのだ。そして、そんな中で時間は過ぎ去り、一日が終わっていく。
 だが今はまだ少しばかりその局地戦争には時間が早いようであった。沈みかけてはいてもまだ陽はその全体を天球に残している。もっともそれももうあと半ガロスほどのことであろうが。
 とにかく、アルフェルムは、宿の自室で、自分が書き留めてきた何枚かのメモを机の上にばらまいたまま、思いに耽っていたのであった。
 『――向こうの通りの長屋の子、ほれ、九つの、いつも頭を結わえてる女の子だよ……数日前から見かけないと思ってたら、なんでも家に帰ってないらしいんだよ――』
 『――うちの隣のアレックスんところもさ、十になる息子のリム坊が帰ってこないってさ……国に捜索願は出したけど、あたしも気が気じゃないよ――』
 『――聞いたかい?ハルバト区の、ノバ坊や……さらわれたらしいんだよ。誰にって?そんなことあたしが知るかい。占い屋じゃないんだからさ――』
 事件が、街中に広まるスピードは予想以上のもののようであった。噂は至る所で聞かれた――少しばかり近辺を歩くだけでも、噂好きな女性たちが時にひそひそと、時には騒ぎ立てながら道ばたで話をしあうのを聞くことが出来た。そしてまた、その事件は一箇所だけで起こっているものでもないようであった――アルフェルムは、ヴァンの中央を通って反対側のかなり遠くの方まで足を運んだのだが、そちらの方でも同じような話が聞かれたのだ。
 「これは、なんとも――。」
 アルフェルムは、メモの一枚を取り上げた。それは、街のおおざっぱな地図の上に、子供たちが行方不明になった場所を点で書き込んだものであった。その点の数は六、七個ほどあったのだが、その位置はてんでバラバラで、何の規則性も見いだせなかった。
 (ふむ……幾つか発生箇所を拾い上げれば、それからおおよその場所くらい特定できるかとも思ったんだが……さらわれた場所はヴァン全体にまんべんなく広がっているな……複数の人間による犯行ということか――?)
 (それと……気になるのは、目撃者が全くいないということだな……この手の犯行というのは、まったく誰にも見とがめられずに行うというのは、かなり難しいものなんだが…。)
 (――しかも、噂から判断すると、共通して、遊びに行ったまま帰ってこないというパターンだ…つまり、昼間、外出している間にいなくなっている。)
 (――そうなると――)
 「――魔法、か……。」
 アルフェルムは、ぼそっ、と呟いた。
 (…犯人が、魔法の使い手であれば……街の至る所に現れることも、そして姿を隠して機を窺い、隙を見て子供を誘拐することも……可能では、あるな。)
 (――だが……)
 アルフェルムは、厳しい顔でさらに考え込む。
 (…使うとすれば、スタンダードなところで真魔法(ライトスペル)瞬動(テレポート)不可視(インヴィジブル)あたり、そうでなくば精霊魔法(エレメンタルキャスト)の風系か、あるいは――古代語魔法(ハイ・エンシェント)にも確か、転送(テレポート・プルーラル)という瞬間移動があったな…しかし、『不可視』はともかく、『瞬動』の方はそれほど簡単な魔法ではないし、精霊魔法、古代語魔法に至っては使い手がいるのかどうかも疑わしいくらい、レアなものだ。…まして、子供をさらうとなれば、おそらくは、その子供も連れて瞬間移動をもう一度使うわけだろう。『転送』ならばその難しさは云うに及ばず、『瞬動』を術者能力拡張して複数搬送するにせよ――そこには、かなりのレベルが要求される……。)
 (――それに、街は、魔法による破壊行為をを防ぐために感知・防御力場結界(センス・プロテクションフィールド)で覆われている……破壊魔法ではないとはいえ、いくらなんでも、街中でそのレベルの魔法を無闇に使えば、その存在をバルザの王立魔法学院に知られ、街中での魔法の不必要な使用ということで、逮捕されることにもなりかねん――だが、ここまで、それらしき動きが国の方にあったわけではないようだ――ということは、そいつはさらに、学院にそれを悟られないために、魔法の発動に伴い放出される魔法力を遮断し、力場のゆらぎを防ぐような魔法も同時に使っているはずだ――つまり、)
 「――つまり……その場合は、相当な使い手だ、ということだな……。」
 アルフェルムは、昨日の晩の事を思い出していた。――突然感じた、異様な気配。族か、あるいは闇の属性を持つ怪物でも忍び込んだかと剣を手に取り、周囲を調べ――しかしそれは、そうしているうちにあとかたもなく消え失せ、そしてそこにはいつも通りの平穏な夜が存在しているだけだった――ほんの数ロスの間のことであったが、しかし、確かに異様なことではあった。
 (あれも、おかしな現象だった。たぶん、魔法の一種だとは思うんだが…だが、なにか、までは、俺にも――しかし、少なくとも、かなりの力を持つ者の行為であることには間違いあるまい。――もっとも、それを直ちに今回の事件と関連づけてしまうのはやや急ぎすぎる結論であるから、これは、しばらく様子を見てみないと判らんが。)
 アルフェルムは、小さく息を吐いた。
 (――とにかく、やっかいなことになりそうだな…これまでも、そういった、神隠しだのなんだのといった類の話がなかったわけではないが、しかしそれらは所詮こそどろの誘拐の類か、せいぜい下等モンスターによる襲撃事件程度だった……まあ、もともとバルザにせよヴァンにせよ、土地柄かあるいは学院の力が強いのか、悪鬼(デーモン)悪魔(デビル)のように危険なモンスターが現れることや、あるいは学院のシールドをかいくぐってまでも魔法で犯罪を犯そうとする輩が現れたりすることはあまりないのだ。――だが――)
 (――だが、今回は明らかに違う。このような大量の、それも子供だけの行方不明事件……こんな、猟奇的なものは、俺がここ(ヴァン)に住むようになってから、かつて聞いたことがない。これは、へたをすると、かなり大きな事件になるかもしれん……。)
 アルフェルムはもう一度、小さな地図を見直した。そして、ふと考えた。
 (――ヴァンでは、街全体に及んでいるようだが……果たしてこれは、バルザでも起こっているのだろうか……?――あるいは、カルタス、ヴェロッサといったような他の都市では――?)
 もしも周囲の都市でも起こっているのなら、複数犯の可能性も出てくる。もちろん単独で、瞬間移動を使って街から街へ飛びながら犯行を行うことも可能ではある。しかし、距離が伸びる分失敗の確率も増す――すなわち、術者にそれだけの腕が求められるわけである。むろんこれまでの推論から、術者がそれに足りうる高レベルの者であることは充分に考えられるが、それよりも複数の協力者が居ると考える方がより妥当であろう。
 (――そして、そうでない場合――)
 犯人は、ここ、ヴァン近辺に滞在する可能性が高い、ということになる。
 (――まあ、国の動きが鈍い以上、後者だろうな……バルザで起こっているようなら、もうこれまでに少しぐらい動きがあってもいいはずだからな……それに、)
 (――相手は、高レベルの術者であるはずだ。他の街で犯行に及ぶ、という機転に気づかんこともないと思うが、見とがめられる理由がないのなら、瞬動でのリスクを避けるためにむしろこの近辺で犯行を重ねたとしても不思議ではない。)
 (――だが、これも、調べてみないことにはな…推測だけで決めつけるわけには、いかん…。)
 そこで、アルフェルムは国の捜索のことを考えついた。エムルがそうしたように、いくつかの報告と捜索依頼は、すでに国に届いている。
 (――しかし――)
 事に魔法が絡んでいるのなら、主体となるべきは王立魔法学院、ということになる。だが――
 (――学院か……学院が、腰を上げるのは、遅いだろうな……自分たちの庭であるバルザで起こったことならともかく、ここヴァンで……しかも、力場結界を、たくみにかいくぐっているであろう相手だからな……自分たちが絶対だと信じている力場結界にかからん以上、そう簡単に動きはせんだろう……。)
 「――いずれにせよ――」
 ここまでの話は、相手が魔法を使う術者で、その者が何らかの理由で犯行に及んでいるという仮定に基づいたものである。そうでない――例えば、実は隠蔽能力を持つモンスターによる密かなる襲撃だったというような場合――ここまでの推論は、あとかたもなく崩れ去る。――だが、そうであれ、そうでないのであれ――現時点では、情報が少なすぎて、どうしようもないのである。かといって、アルフェルム自身が一人で情報を集めるのは、効率が悪すぎ、実際的ではない。
 「――やはり…シーヴィに頼るしか、なさそうだな……。」
 アルフェルムは、諦め混じりのため息を吐いた。そして、ポツリと一言漏らした。
 「――フィムが、荒れるだろうな……。」
 と、自分でも気づかぬその言葉を口にし、彼ははたと我に返った。
 「――そういえば……まだ、帰って来んな……。」
 アルフェルムは窓の外に視線を移した。いつの間にかもう陽はその姿を地平線の下に隠してしまい、天球は紺にその衣装を変えようとしている。
 (――まさか……。)
 アルフェルムの心に嫌な感覚がよぎった。
 確かに、噂で流れているのは、十歳前後の子供だという。だから、今十八であるフィムには、それは当てはまらぬはずである。だが――奇しくも、メリスが同じ事を心配したように――犯人が、フィムを、対象足りうると認識したならば。
 「…………。」
 アルフェルムは、ベッドの枕元へと歩み寄り、いつもそこに置いてある護身用の小剣を腰にくくりつけると、足早にドアへと向かって、そのノブに手をかけた。が、その時――
 「…………?」
 トン、トンと、階段を上るらしき聞き慣れた足音がアルフェルムの耳に入った。そして――
 「――ただい……ひゃっ!?」
 扉を開けるなり、その目の前に立っていたアルフェルムにびっくりして飛び上がったのは、紛れもなく、フィムであったのだ。

 「――フィム。」
 「あ、ア……えと、――ただいまっ。」
 フィムは少しうろたえたが、しかしすぐにちょっと不機嫌そうな顔に戻ると、顔を背けながらそれだけ云った。
 「――大丈夫だったか。」
 「…大丈夫って、何がっ?――ファンカーだったら、ヘンなコトしないもんっ。フツーに、ゴハン食べて、お茶もらって、おハナシして、帰ってきただけだもんっ。」
 「なにも――なかったか。その……例えば、誰かに、見られているとか、つけられているとか――」
 「そ、そんなコト、ファンカー、しないもんっ。ファンカー、やさしいもんっ…そんなヘンなコトとかするヒトじゃないもんっ!!」
 「そうじゃない。そういうことを云ってるんではなくって――」
 「アルこそ、あの女のヒトとえっちなコトしたりしてたんでしょ!!エッチ!!」
 「俺がそんなことをするか。俺は、あの女性(ひと)が困っていた様子だったから、手を貸そうと云っただけだ。」
 「やっぱしなんかしたんだっ。アルのばかっ!!」
 話を聞こうとしないフィムに、アルフェルムも苛ついてくる。
 「馬鹿野郎。そもそも、困っている人がいたら助けろと云ったのはお前だっただろうが。それをなんだ。」
 「知らないもんっ。アルはただいちゃいちゃしたかっただけなんだもんっ!!あたしにはファンカーがいるからいいもんっ。ファンカー、アルと違ってすっごくおハナシしてくれるしっ、おいしいゴハンごちそうしてくれたしっ、いっつもニコニコしてるしあたしの云うことも色々聞いてくれるしっ、だからすっごく楽しかったんだからっ!!だから明日も行くんだもん!!アルはアルで勝手にすればいいんだもん!!」
 「――勝手にしろ。」
 アルフェルムはフィムを怒鳴りつけそうになったが、不意に力が抜けたように一言そう云った。
 「…メシに行くぞ。」
 「……アルのバカッ!!」
 彼女の脇を通り抜け、階段を一段ずつ下りていくアルフェルムの背後に、また大きな罵声が浴びせかけられた。だが、彼の姿が視界から消えると、その時フィムはまだ眉をひそめ口を尖らせてぶうっと膨れたままだったが、仕方なくというかやむなく自分も降りてきた。彼女は食堂に入り、混雑しているその場内でアルフェルムの姿を発見すると、壊してしまいそうな勢いで乱暴に椅子を引き、どすんとそこに座った。
 「何にするんだ。」
 「何でもいいっ。」
 フィムはぶっきらぼうに返事した。アルフェルムの方も、それを何とかしようというタイプではない。給仕のためにそばを通った主に二品三品の料理を付け足して注文すると、あとはもう、口を開くこともない。――もっとも、その頭の中では、先に考えていたようなこと――明日、どこへ行って、何をして、こういう情報を得たらこう動くといったような――が巡らされていたかもしれない。しかし少なくとも外から見たときに、彼が何を考えているのかは判らなかった。
 とにかく、その日の彼らの食事はだから、ずいぶん静かなものであった。彼らは、出来上がった料理を運んできた主人とさえほとんど喋ることなく、何言か挨拶程度の会話を交わしただけで、あとは目の前の調理された食べ物を機械的に口に運ぶだけという、おおよそいつもからは考えられない姿であった。
 彼らは、食事を終えると、ごく静かに部屋へと戻ってきた。フィムは、晩ご飯を食べたことで少しだけ落ち着いた様子ではあったが、依然、むすっとした顔をしていた。扉を開けて室内に入ったアルフェルムが、まだメモをちらかしっぱなしのテーブルに近づいて椅子に腰を下ろしたとき、彼女はベッドに歩み寄って、いつもそうするようにへりに腰を下ろした。
 「…おフロっ、入らないのっ?」
 ぶすっとむくれたまま、そう問いかけたフィムに、アルフェルムの方は顔をそちらに向けようともせず、机上に散らかされているメモを片づけながら答えた。
 「…まだ、俺たちの時間じゃないだろう……もう少し待ってからだ。」
 「――それ、なにっ。」
 「俺が今日調べていた内容だ。」
 それを聞いてフィムはむっと唇を尖らせる。
 「…あの、女のひとのなんでしょっ。」
 「ああ、そうだが――?」
 「ふーん……すごく一生懸命なんだねっ。」
 フィムは皮肉たっぷりにそう云った。
 「どうせ明日も朝からがんばって調べたりするんだもんねっ。いいもん…あたし、明日もファンカーんトコ行って、おハナシしたりとかしてるから…いいもんっ。」
 「――また、行くのか。」
 その、云い方が、きつく聞こえたのかもしれない。フィムはぷいっとそっぽを向いて答えた。
 「…ファンカー、一緒にいて楽しいもんっ。またいろんなコトおハナシするんだもんっ。」
 (…その、ファンカーという奴……少し、気になるな……。)
 アルフェルムはそこで少しばかり考え込んだ。フィムが昨日得意げになって彼に話したのは、そのファンカーという者が商人で、しかも豪奢な馬車を走らせたり、仕事とは云えその地方にわざわざ一軒の別荘をまで建ててしまうほどの豪商であること、どうやらかなり美しい顔立ちをしていること、言葉や物腰が洗練されているらしいこと、そして彫刻や絵画、剥製といった高価な装飾品を集めているというようなことであった。
 だが――それよりも、アルフェルムの心に引っかかったことがあった。
 (――そう、いえば……今回の神隠し事件、――その、ファンカーという奴が来た時期と一致するな……。)
 (『――街のはずれに、大きな家が建ったって云ったよねっ?アレがねっ、ファンカーんちだったのっ、スッゴクねっ、おっきなおうちなのっ――』)
 彼が、ファンカーがこちらに越してきた厳密な時期を知っているわけではない。だがフィムは、昨日の夕食時、得意げに話していたその会話の中で、街外れに新しく建った新しい屋敷がファンカーのものだったと云った。――ならば、厳密には同時期でないにせよ、少なくとも今回の事件は、彼が越してきた後、ということになる。
 (……偶然の一致かもしれんが……だが、今までこういう猟奇的な事件がここヴァンでは起こっていなかったのもまた、事実だ……。)
 「――な……なによっ。」
 アルフェルムが急に黙り込んだため、フィムの方がむしろうろたえた。
 「そ、そんな恐いカオしたって知らないもんっ。アルの方が悪いんだもん。」
 「――フィム。」
 そして、急に投げかけられた自分の名前に、再び彼女はびくっとする。
 「……なにっ。」
 「…明日は、その、ファンカーという奴のところへ行くのを、やめておけ。」
 「――なんでよっ。アルには、…か、カンケーないもんっ。」
 フィムはかなりむっとして云った。
 「アルはどーせ明日もあのヒトのために色々するんでしょっ。どーせそうなんだもん…アルはあたしのコトとかキライになったんだもん!!いいもんっ…あたしだって、ファンカーんトコ行っチャウんだもんっ!!」
 「まだお前はそういうことを云っとるのか。…そうじゃない。その、ファンカーという奴、急にこの辺りにぱっと現れたことといい、その後で例の神隠し事件が起きていることといい、少しばかり胡散臭いと云っているんだ。」
 「…アルってば、ファンカーのこと疑ってるんだっ。――ファンカー、そういうヒトじゃないもんっ!!」
 「そうかそうでないかを決めるのは、お前じゃあない、事実だ。その事実がはっきりせんうちは、軽はずみな行動は避けろと云っとるんだ。」
 「そうかそうでないかは、じじつ……?――む、ムズカシイコト云ってもわかんないもんっ!!アルのバカッ!!」
 「フィムッ――!!」
 ひとたびへそを曲げてしまえば、それがそう簡単に収まることはない。
 完全にむくれてしまったフィムは、だから、そのあと彼らがいつものように宿の風呂を借り、身体の垢を落としている間も、ずっとそんな調子のままであった。アルフェルムも途中まである程度は彼女を説得しようと試みたのだが、しかしこうなった彼女が云うことなど聞きはしない、いやむしろするなと云えば云うほどむきになってそれをするであろうことを一番知っているのもまた、アルフェルムなのであった。だから、彼らが風呂から上がってきて部屋に落ち着いた頃にはもう、アルフェルムの方も無駄な努力はしなくなってしまっていた。
 「――寝ないのっ?」
 フィムは、一昨日の夜のように髪の毛と翼を乱暴に拭いてベッドに座り、窓際に立って通りを眺めているアルフェルムに向かって、ぶっきらぼうに云った。
 「先に寝ていろ。」
 「…………。」
 そちらを見もしないでごく簡単に返事したアルフェルムに、フィムは再びむっとしたに違いないが、しかし彼女はそれに対して何を云うこともなかった。代わりに、毛布をめくり上げてその中にごそごそと潜り込む。
 (……ファンカー、か……。)
 アルフェルムの方は、依然そのことを考え込んでいた。
 (――あまり、他人を……会いもせぬはなから疑いたくもないが、…だがな……商人というやつは、ときどき、とんでもないのが居たりするからな……。)
 (全部が全部、そうとは云わんが……基本的に、金と権力を持っているやつは、ろくでもないやつが殆どだ…。――ギルドにも、わけのわからん依頼をしてくるやつが何人もいた……どんな女でも狂わせてしまう媚薬を手に入れたいとか、世の中にある麻薬は全部試したからもっとすごいやつが欲しいとか、――そういえば、愛玩物としてエルフの少女を慰みたいから今すぐさらってこいとかわめいていた阿呆も居たな……流石にあの時は、ボーンが一喝して終わりだったが。)
 (――その、ファンカーというやつも……この方面で取引をするためだけに、仕事場として別荘を建てただと?――その中には、剥製だの彫刻だの絵画だの、高級品をたんまりと運び込んで……たかが、数ヶ月で終わるであろうの仕事のためだけに?)
 (――まあ、フィムの話を聞く限りでは、出来た人間のようではあるが……。)
 (…………。)
 (…一度、話をしてみた方が良いか……?)
 アルフェルムは、眼下の通りをぼんやりと眺めながら考えた。
 (…ふむ――そうだな。会いもせずに、邪推ばかりしていても仕方がないし…一度、会ってみるのが、手っ取り早そうだ。――フィムと一緒に行くか……俺だけで行くよりも、その方がいいだろう。少なくとも、それでなにかフィムに危害が及ぶようなことは、ないだろうし……。)
 (――よし。そうするか……朝から、――そうだな、あの店のがいいか――そのあと、フィムを連れて。あとはまあ、行ってみて、話してみた感じ次第か――)
 アルフェルムは頭の中でプランを練り上げると、それに納得したように数度頷いた。そしてゆっくりとベッドの方を振り返る――彼は足音を立てぬように歩み寄ると、少しだけ毛布をめくり上げてフィムの顔を覗き込んだ。
 「……すー………スー……。」
 嵐のように猛り狂っていたフィムであったが、その疲れでも出たのか、彼女は既に規則正しい寝息を立てていた。その表情はおだやかで、ついぞ先ほどまで癇癪を起こしていたとはとうてい思えなかった。
 「――こう、なってしまえば、おとなしいものなんだがな……。」
 思わずアルフェルムは苦笑いしてそう漏らした。
 「さて…それでは、俺も、休むとするか……。」

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