その、次の日に、フィムが目覚めたとき、アルフェルムは既に傍らにいなかった。
 フィムも、まどろみの中にいるときから、どうも居心地が悪いなとは思っていたに違いない。だが目覚めた時にその理由がはっきりした――その、いつも横にあるはずの身体が、ぬくもりがないからなのだと。
 フィムは毛布をはねのけ、がばっと起きあがった――そして、やはり彼女の主がその隣にいないことをはっきりと知ったとき、彼女の心の中には、『捨てられたのでは』といういつもの不安よりも先に、怒りがこみ上げてきた。
 (――やっぱり、あのヒトのトコ、行ったんだッ……!!)
 フィムはあからさまにむっとしながらベッドから降り、ぼさぼさになった髪を整えもせず階下へと降りていった。時刻はそろそろ、働く前に食事をしに来る客たちでそこが混み合い始める頃で、マスターはいつものようにそれらの客をさばくためにせっせと働いていた。
 「――ああ、フィムちゃん、」
 そんな客の間をぬって歩くようにしてフィムが扉をくぐろうとしたとき、彼女に気づいた主が声をかけた。
 「ちょっと待って。…アルフェルムから、伝言があるよ。」
 「――アルから……?」
 フィムは眉を曇らせた。
 「ああ、一ガロスほど前に出ていったんだけれどね、その時に、もしフィムちゃんが起きてきたら伝えてくれと、云い残していったんだよ。」
 彼は、皿を拭きながら続けた。
 「ちょっと用事で出かけるけれど、すぐに帰ってくるからと、部屋を出ないで、待っていろと…云っていたよ。」
 「――そんなのっ……!!」
 フィムは、むしろその言葉によってむっとした。
 「…そんなの、アルの勝手だもんっ……そんなのは、あたしっ、知らないもんっ……!!」
 「だけれど、すぐに戻ってくると云っていたよ。」
 「すぐったってっ、もう一ガロスも経ってるんでしょっ!?そんなのすぐじゃないもんっ――すぐっていうのは、すぐのことなんだもんッ!!」
 「いや、だけど――」
 「知らないッ――!!」
 フィムが、衝動にかられて、食堂から外へ飛び出そうとしたとき。
 「キャッ……!!」
 「おっとっ……!!」
 「あっアッ……ご、ごめんなさいっ……あのそのあたしっ、ちゃんと見てなくてっ――」
 「――フィム。」
 「……ア、アルッ……!?」
 フィムがその戸口で鉢合わせたのは、偶然にも、アルフェルムだった。
 「――も、もう帰ってきたんだっ!?」
 が、フィムはすぐにむくれた表情になりぷいっとそっぽを向いた。そして間髪入れずに続ける。
 「アルは、そーやってあのヒトんトコ行ってればいいもんっ。あたしはあたしで、ファンカーと――」
 「ファンカーのところへ、行くぞ。」
 「――え……?」
 フィムがまくしたてている言葉の間をぬってアルフェルムの口から発せられた言葉はフィムが想像だにしていなかったものであったため、それを耳にしたフィムはその場で固まってしまった。
 「聞こえなかったのか。ファンカーの所へ行こうと云っとるんだ。」
 「――ど、どうし……あっ、」
 そしてはたと思い立ち、フィムはまたむっとした顔になった。
 「――アルってば、昨日は行くのをやめろって云っといて今日になってそんなこと云い出すなんて、やっぱしファンカーのコト、疑ってるんでしょッ!?」
 「そういうわけではない。」
 アルフェルムはきっぱりと云った。――実際には、ある種の疑念がアルフェルムの心の内に存在していたのは確かである。だから、フィムの云ったことは当たらずとも遠からずだったのだ――が、それを明かしたところで話がこじれるだけである。
 「――そうではない。昨夜の、お前の話を聞いていて、そのファンカーという奴に少しばかり興味がわいてきたんだ。だから、ちょっと話をしてみたいと思ってな――ほれ、手ぶらでは悪いと思ったから、手みやげまで買ってきたんだぞ。――もっとも、庶民の食い物が口に合うかどうかはわからんが……。」
 アルフェルムは片手に持っていた包みを見せた。
 「――ホントに……?」
 「本当だ。でなくばこんな物など買ってきやせん。」
 「…………。」
 フィムはまじまじとアルフェルムの顔を見た。その表情には、一辺の偽りも含まれていないように見えた――少なくとも、フィムの目には。
 「――だったら……」
 「…だったら、いいケド……。」
 「よし…では、このまま行くぞ。――その、ファンカーのところまでは、遠いのか?」
 「んと…歩くと、二ガロスぐらい……。」
 「――お前、そんなところまで行っとるのか?」
 「だって、街のはずれだもん、それぐらいかかっちゃうよ……それに、あたしはいっつも空翔んで――あっ、」
 「…また、翔んどるな……?街では翔ぶなというのに。」
 「だ、だあってぇっ……!!」
 フィムは困った顔をした。
 「まあいい。二ガロスか……遠いな。どこかで馬車を拾うか……それはそうと、こんな朝から行って大丈夫なんだろうな?」
 「ン…わかんないけど、たぶん……。」
 「それもはっきりしとらんのか。しょうがないな。――まあ、いいさ。駄目だと云われたらそれはその時考えるとしよう。いくぞ。」
 「あっ、ちょっと待ってっ……!!」
 そんなわけで、アルフェエルムはフィムを伴ってファンカーの家へと向かった。
 途中で、街の中を流している馬車を拾い、彼らはそれに乗って移動した。それはもちろん、ファンカーがフィムを迎えたときのような豪奢な馬車などではなく、一般庶民が利用する、がたがた揺れて作りも悪いものであったが、それでも少なくとも彼らが利用するには充分であった。
 「……でも、どうして急に、そんな、ファンカーのコト、気になりだしたの……?」
 フィムは、移動しているときにふと、アルフェルムにそう尋ねた。
 「まあ、お前が熱を上げているようだからな…会って話をしてみたいと思っただけだ。」
 「ホントに、それだけ……?」
 「そうだ。」
 「ふーん……。」
 アルフェルムの返事や、表情からは、相変わらず、彼が云う以上のことは読みとれなかったが、フィムはとにかく納得するようにしたようであった。それにそうして、彼が昨日のあの女性の所へ行く代わり同行してくれると云ったことは、多かれ少なかれ嬉しいことではあったのだ。
 二人はそうして、一ガロスほど揺られ、そしてファンカーの家へと到着した。
 「――ここか。」
 アルフェルムはその、別荘にしてはあまりに広大な敷地と美しく整えられた内部の作り、そしてなにより存在感をもって目に飛び込む豪奢な建物を目にして短くそう云った。
 「門は…閉じられとるな。どうするんだ?誰かを、呼ぶのか?」
 「んー、ここでウロウロしてれば、気づいてくれると思うケド……。」
 フィムはよく解らないことを云ったが、その意味はすぐにはっきりした。
 『おはようございます。フィム様ですね?』
 どこからともなく、低い男の声が響いたのだ。だが、フィムの方はさしてそれに驚くでもなく答えた。
 「あ、ウン、そう…です。」
 『そちらの方は…?』
 「あ、エト、アルを、一緒に連れてきたの…ファンカー、連れてきていいって、云ってたから……。」
 『…しばらく、おまちくださいませ。』
 そこで、その見えぬ姿との会話が一旦とぎれた。
 「…魔法での遠話システムか?」
 アルフェルムは、呟くような小声でフィムに尋ねた。
 「ウン、あたしも、昨日はびっくりしたんだけど…なんかね、この、門柱の所にね、魔法のなんかがあって、んで、中の部屋からね、この門の前が、見えるようになってるんだって。んで、おハナシも出来るようになってるって…ファンカー、云ってたよ。」
 「ふむ。」
 アルフェルムは両側の門柱を見つめた。だが、その上部に据えられている二体の猛禽類の彫刻を注意深く観察してみても、とりたててこれといったしかけを見つけることはできなかった。
 『お待たせいたしました。どうぞお入りくださいませ。』
 そうしているうちに、ふたたび先の声が聞こえ、そしてカチャリ、という音がしたかと思うとその門が自動的に内側に向かって開いた。
 「行こっ。」
 フィムはアルフェルムをいざなって、中へと入った。アルフェルムは何かを見定めるかのように左右を見回しながら、フィムの後ろをゆっくりと歩いていく。と、遠目に、玄関の扉が開けられ、そこに二人の人物が姿を現すのが見えた。一人は扉付近にとどまり、それを開けて待つ。そして、もう一人の方は――
 「あっ、ファンカー
 フィムはぴょんと飛び跳ねて手を振り、そちらに向かって駆けだした。そう、きらきらと輝く銀の長髪、繊細で美しい顔立ち、そしていつもの、見る者の心を惹きつけるような微笑み――扉の奥から現れ、ゆったりと歩いてきながらフィムに向かってにこやかに手を振り返すその男性は、まぎれもなく、ファンカーであった。
 「いらっしゃい。」
 彼は優雅な物腰でフィム――と、アルフェルム――の方に向かって歩いてきて、フィムに向かってそう声をかけた。
 「エヘヘ、また今日も来ちゃった
 「構いませんよ。私もフィムさんとお話をするのは好きですからね。――今日は、お連れの方がみえるのですね。」
 後ろに、ゆっくりと歩いてくるアルフェルムの姿を認め、彼はそう云った。
 「あ、ウン、あのね……ファンカー、アル連れてきてもいいって云ってたでしょ?だからね、今日は一緒に来たの…エト、よかったよね……?」
 「ええ、もちろん大歓迎ですよ。――ようこそいらっしゃいました。私、この屋敷の主で、ファンカー・ゴールドワゲンと申します。後ろにいるのはバサランディと申しまして、当屋敷の執事として働いているものです。」
 ファンカーは、彼らの所に追いついてきたアルフェルムに向かって挨拶し、そして少し振り返るようにしながら扉のそばにたたずむ男性を示した。彼は初老の男性で、ぴっちりと線の入った上下のスーツと白い口髭、それにオールバックに上げた白髪が印象的な、気品漂う人物だった。彼はこちらに向かって一礼した。
 「アルフェルム・ファミリアーナだ。」
 アルフェルムは挨拶を返し、そしてちらり、とバサランディの方を見た。一瞬、二人の目線がぶつかったが、バサランディはすぐに視線を逸らした。アルフェルムはファンカーの方を見直し、続けた。
 「…フィムが世話になったと聞いたので、不躾かとも思ったが、一度訪問させていただくことにした。…これは、口に合うかどうかわからないが、よければ、食べてくれ。」
 アルフェルムはそういって持参していた包みを差し出した。
 「これはどうも、ご丁寧に痛み入ります。」
 ファンカーは包みを受け取り、アルフェルムに向かって笑いかけた。
 「さあ、お二人ともこちらへ。まずはお茶でも召し上がって、くつろがれるとよいでしょう。」
 「それよりも、――不躾ついでと云っては何なのだが、先に、あなたの屋敷を案内してもらえると嬉しいのだが――いや、フィムから、色々と興味深いことを聞いているので、是非一度拝見したいと思っていたのでな。」
 「もちろん構いません。――それでは、そうさせていただきますよ。」
 ファンカーはアルフェルムの要望を嫌な顔一つせず聞き入れ、彼から受け取った包みをバサランディに手渡しながらその前を通って彼らを――フィムにとっては、二度目になるが――館内へと案内した。
 「こちらが、正面ホールです。」
 「――あれっ……?――なんか、今日は…イイニオイ。」
 扉をくぐったフィムが、その館内に漂うほのかな香りに気づいて云った。
 「ああ、気づかれましたか。それはラベンダーの香りです。気分を落ち着かせるために、少しばかりハーブを使ってお香を焚くようにしましてね。それで、館内に匂いが立ちこめている…というわけです。本宅の方でもやっていることなのですが、こちらではこれまで準備が整っていませんで、ようやく今日から出来るようになったというわけです。」
 「ふむ…それでも、かすかな…俺には、云われてみんと判らんくらいのものだな……。」
 アルフェルムは数度、くん、と嗅いでみてそう云った。
 「きつすぎては逆効果ですからね。本当に、それとなく判る程度のものにしてあります。…でも、フィムさんにはすぐに判ったみたいですね。」
 「そうかな?すごくよく判るケド……?」
 「こいつは匂いだとか、感覚的なものが人よりも鋭いらしくてな…それですぐに気づいたのだろう。」
 アルフェルムは、そう答えながら、ホール全体を見回した。フィムの時にそうであったように、数々の美術品がまず眼に飛び込む。
 「――フィムさんにもお話ししたのですが、私は芸術品を集めるのが好きでして。…それで、こうして幾つかを飾ってあるのですよ。」
 「ふむ……。」

 アルフェルムは、フィムがそうであったようには驚かなかったが、それでも、そこに展示されている品々――とりわけ、大きな鷲と鷹――には目を奪われたようだった。
 「――ここは、仕事のための別宅と聞いているが……?」
 「そうです。どうしても、あちこち飛び回ることが多いですからね。…ここも、しばらくは居ることになりますが、その後はおそらく、別の所へ移動して、またそちらで仕事――ということになるでしょうね。」
 「それにしては、豪華なものだな。」
 「仕事のためだけに、最小限の環境しか持っていかないことは、かえって仕事の能率を下げることになります。心に余裕があることこそ、大切なのですよ。――これは、そのための投資であり、必要なもの――そこにかかる多少の費用には目をつぶらなければ。」
 「――なるほど。」
 そう答えたアルフェルムの表情には、変化は見られなかった。
 次に、彼らは資料室に通された。フィムは前回同様――前回それを見たにも関わらず――また目をまん丸にして、その部屋の奥の方へと走っていった。
 「これまた、見事な蔵書だな。」
 「そうでもありません。こちらに持ってきているのは一部ですからね。」
 「この経済書は、俺も見たことがある。――商人だと聞いているが、押さえるべきところは押さえているようだな。」
 アルフェルムは、書物の一冊を手にとってぱらぱらとそのページをめくった。
 「ええ、幸い今のところは私どもの事業も成功させていただいていいますが、それでも数年先のことは判りませんからね…それを更に成長させていくためには、やはりデータを集め、研究し、正しいアプローチを踏む、というのが不可欠です。そのためには、良い専門書を数多く読む事は必須ですからね。――まして、父親がここまでにした事業を、私の代で終わらせてしまうわけにはいきません。」
 その後、ファンカーはフィムにそうしたようにアルフェルムを別棟へ導き、同じ順路で一階へと降りてきた。そして、ゲストルームを見せ、正面ホールへと戻ろうとするときに、アルフェルムが急に立ち止まった。
 「…………?」
 「――どうされました?ああ、そこは、」
 それは、フィムが開けようとして、そして鍵がかけられていて開けられなかった、奥の角の扉であった。
 「…そこは、工事中なのです。貯蔵庫を作っている最中でして……だから、工事がないときはこうして閉じてあるのです。」
 「――そうか。」
 (――何か、今、違和感を感じたんだがな――)
 そう、思いはしたが、アルフェルムはそれを口にすることはなかった。それに、そうは云うものの、今改めて何かを感じ取ろうと集中してみても、そこには全く何の気配もなかったのだ。
 (…気のせいか……。)
 アルフェルムは固執はしなかった。ファンカーの、『フィムさんにもお話ししたのですが、ワインなどをそこへ入れる予定です。完成した際には美味しいワインをご馳走できると思いますので、ぜひフィムさんとご一緒にいらしてください』等といったような話に返事をしながら正面ホールに戻った。
 「…さて、少しばかりお疲れではないですか?まずはお茶でも飲んで、一休みしましょう。」
 「――いや、」
 ファンカーがそう誘うのへ、アルフェルムは手でもって制した。
 「お誘い頂いたのはありがたいが、実はこのあと、少しばかり用があって、俺はもう行かねばならん。」
 「えーっ……!?そんなコト、聞いてないよぅっ……!!」
 フィムが見る見るむくれていく。ファンカーも少しばかり困ったような表情を見せた。
 「いらしたばかりなのに、もうですか?お茶の一杯ぐらい召し上がる時間はあるでしょう?」
 「いただきたいところではあるが、残念ながら急ぎでな。――すまんが、フィムをよろしく頼む。――フィム、失礼のないようにな。」
 「え、ほ、ホントに行っちゃうのっ……!?」
 フィムは少しばかりうろたえた。アルフェルムは少し笑って、彼女の頭を撫でた。
 「すまんな。ギルドへ行かねばならんのでな。」
 「おシゴト……?」
 「ああ。」
 フィムは悲しそうな顔をした。――エムルのことなのかと、彼女が騒ぎ立てることがなかったのは幸いだったかもしれない。
 「――あまり、遅くなるなよ。」
 「う、うん……。」
 「それでは、馬車で中心まで送らせましょう。」
 「気遣いはご無用だ。大した距離ではないし……それに、他にも何ヶ所か、寄らねばならん所もあるのでな。」
 「そうですか……。」
 彼らは正門まで歩いて移動した。そしてそこで、ファンカーはいつものように自らを認証させ、扉を開ける。
 「今日は突然押し掛けてしまってすまなかった。不躾な訪問を温かく受け入れてくれたことに、礼を云う。」
 「――今日は、お会いできて嬉しかったです。またいつでもいらしてください。」
 ファンカーはにっこりして、アルフェルムに向かい右手を差し出した。アルフェルムは一瞬の間ののち、自らの右手でもってそれを強く握り返した。一瞬――合わさったお互いの目と目の奥で、奇妙なかぎろいがゆらめいた気がした――だがそれはいずれにせよすぐにかき消されてしまった。握手を終え、二人とも視線を外したからである。
 「それでは、また。」
 「お気をつけて。」
 二人は最後の挨拶を交わし、そしてアルフェルムはもう一度フィムの頭を撫でて、出ていった。
 さて――
 (――ふむ……)
 アルフェルムは、街の中心へ向かって歩きながら、考えていた。
 (…思ったほどでも、なかったか――いやむしろ、思っていたよりもずっと、きちんとした人間だったな。――仕事のための別宅に、あそこまで金をかけるのはどうかとは思うが――がまあ、それだけ裕福なのかも知れんし、それに云っている事はあながち間違ってもいなかったしな…。)
 (――眼を、見てみても……なにかが、感じられたわけでもない。…いやまあ、何かを考えていそうではあったが――それは、一般市民と変わらぬ程度のもの――特別、腹に何かを抱えていそう、というわけではなかったな……。)
 (――関係は、ない、か……。)
 アルフェルムは小さく肩で息をした。
 (――ただ、ひとつだけ――)
 アルフェルムは、そこでやや眉を曇らせた。
 (――ひとつだけ、あの、回廊の隅で感じられた、ごく一瞬の違和感――あれだけ、気がかりだが――)
 (…だがな――そんな気がしただけで、勘違いかも、知れんしな……。)
 (――まあ――大丈夫だろう。何だったのか、ちょっとよくはわからんが…いずれにせよ、フィムは何度かあそこへ行って、そして普通に帰ってきているわけだからな――。)
 「――さて。」
 アルフェルムは、気持ちを切り替えることにしたようだった。
 「――それでは、俺の方も…自分の仕事に向かうとするか。」



 「――もーーーっ、アルっては信じられないッ!!」
 フィムの、耳をつんざくような甲高い声が邸内に響き渡る。
 アルフェルムが立ち去った後、彼が視界から消えてしまってもいつまでも悲しそうな眼でその方向を見つめ続けていたフィムに、ファンカーが『お茶にしましょう。少しは気持ちが落ち着きますよ』と気を利かせてくれたのだ。それで二人はいま、二階のバルコニーでいつものようにお茶をしたためているところだったのだが。
 「アルってばねっ、さいきんいっつもああなんだよっ。すぐにおシゴト、おシゴトってッ……ちっとも、かまってくれないんだからっ……!!」
 フィムはファンカーを目の前にしてまくし立てた。メイドがお茶を入れてからしばらくの間はフィムも静かにしていたのだが、そのうちおさまらなくなってきたのだろう、たまたま目の前にいるファンカーに向かって憤りをぶつけ始めたのであった。
 「まあ、アルフェルムさんもお忙しいのでしょうから、仕方がありませんよ。」
 ファンカーはあくまでも穏やかであった。カップに口を付け、落ち着いた口調と静かな笑みでそう答える。
 「忙しいって云ってたケドねっ、あれねっ、ぜったいウソだよっ。きっと昨日の、女のヒトのところへ行ってるんだっ。もー、アルなんかキライッ!!」
 「なにか、あったのですか?」
 ファンカーは笑いながら尋ねた。それでフィムは昨日のことを話した。通りでぶつかった女性がいたことと、その女性がいきなりアルフェルムに抱きついたこと、そしてアルフェルムの方もまんざらでもなさそうだったことを。
 「アルってば、嬉しそうにッ……どーせまた、そのヒトといちゃいちゃしてるにきまってるっ!!」
 「まあ、何かわけでもあるのでしょう。そういうことをしそうな人には見えませんでしたから。」
 「――でもっ……!!」
 「その人は、フィムさんの大切な人なのでしょう?」
 ファンカーは、何か云いかけたフィムに、そう云って、笑いかけた。
 「――ウン……そうだけど……!!」
 「だったら、もっと信じてあげなくてはいけませんよ。相手を、信じ、待ち、許し、そしていつでも、思いやる……それが、人とおつきあいをするときに大切なことなのです。ひとたびそれを忘れてしまうと、人と人との関係はとても壊れやすくなります。『最も身近にいる精霊にこそ最大の敬意を払え』とも云うでしょう?」
 「……ウン……。」
 「一度、振り返ってみてはどうですか?自分が、傲慢でなかったか…自分が、身勝手すぎやしなかったか、と。――そして、相手を気遣えば、アルフェルムさんですから、ちゃんと返してくれますよ。」
 「…………。」
 フィムは、しばらくファンカーを見つめていたが、ややあって、驚きの響きを帯びた言葉を口にした。
 「――ファンカーは、なんだか……すごいね……。」
 「そうですか?すごいと云われるようなことは、何もしていないと思いますが?」
 ファンカーは笑ってそう云った。だがフィムはいたって真面目に続けた。
 「なんていうか……その、ぜんぶを、見てるっていうか……外から、見つめてるっていうか。ント……なんだっけ、エト……タ……タツ……タカツカ……」
 「――達観、ですか?」
 「あ、ウン…その、タッカン、っていうヤツ……。」
 フィムは目を伏せた。
 「――なんか、すっごく……冷静で。うろたえたりとか、しなくって、ちゃんと考えてて……すごいなって、思うの……。」
 「そう…でもないですけれどね。こう見えても、人一倍神経質だったり、時にはうろたえたりもしますからね。」
 「ウソ――!!」
 「もちろん、それを外には出さないように、努めてはいますけれどね。――感情を制御できなくては、人と交渉など到底出来ませんからね。」
 「…………。」
 フィムは賛嘆をあらわにして、大きな目をぱちくりとさせた。
 「――まあ、」
 しばしおいて、ファンカーはもう一度優しげに笑いながら、口を開いた。
 「それはそれとして、さっきも申し上げたとおり、アルフェルムさんを信じて待ってあげることです。――そうすればきっと、すべてがうまく動き始めますよ。」
 「――ウン
 フィムは嬉しそうに笑った。
 「…ファンカー、アリガトッ
 「いえ、いいのです。フィムさんがそれで元気を取り戻してくださるのなら、こちらも助言した甲斐もあるというものです。」
 「エヘヘ
 「――ただ、」
 ファンカーは、ややまじめな顔に戻って、云った。
 「…ただ?」
 「――私としては、その女性に感謝しなければならないかもしれませんね。」
 ファンカーは目線を上げ、フィムの蒼く光る瞳をじっと見つめた。
 「――どういう、コト……?」
 「こうして、フィムさんと会える時間が多くなるからですよ。」
 「え……。」

 予期していなかった言葉に、フィムは思わずドキリとした。
 「ヤ…ヤだ、そんなの……そんなコト云われたら、びっくりしちゃうよっ……。」
 「嘘ではありませんよ。私は、こうしてフィムさんとお話するのが好きですからね。――じっさい、私はここ数日、こうしてフィムさんが尋ねてきてくれて、そしてお茶を飲みながらこうしてお話をするのをとても楽しみにしているのですよ。」
 「…………。」
 「それに私は、以前にも申し上げたかとは思いますが、美しいものが好きでしてね。その、フィムさんの白い翼――まるで、天使が舞い降りたかのようなフィムさんの姿を見ることは、私の心をときめかせてくれるのですよ。」
 「…………。」
 フィムは、びっくりしたようにしばらくファンカーの顔を見つめていた。が、ややあって、はにかんだ笑顔を見せた。
 「――エヘ…ウレシイなっ、そう云ってもらえるのはっ…ウソでも、ウレシイよっ……
 「嘘ではありませんよ。真実をお話ししているのです。」
 ファンカーはフィムの蒼い瞳を見つめた。フィムは思わず目を反らした。
 「…そんなの……!!」
 「私は、フィムさんにお会いできて、よかったと思っています。フィムさんのその美しい姿を見ること、こうしてお茶を飲みながらお話をすることは、私にとって心を豊かにしてくれる日々の楽しみになりつつありますから。」
 「……そんなに、云われると……照れちゃうなっ……!!」
 フィムは困ったように笑ってみせた。
 「でも――そうやって、云ってくれるのは……ウレシイ、えへへ……。」
 「アルフェルムさんも、いろいろ事情があるのでしょう。でも、その間、寂しかったり、退屈したりしたときには、いつでもいらしてください。私はいつでもいますから…それで、少しでもお力になれるのなら、光栄です。」
 「…アリガトウ……
 フィムは、花のようににっこり笑った。
 さて、アルフェルムである。
 ファンカーとフィムがそうして楽しいお喋りを交わしているとき、アルフェルムは昨日のように通りの人々の会話に耳をそばだてながらギルドへと向かっていた。そのために、なるべく人通りの多いところを選んで、時には遠回りをしながら時間をかけて向かったので彼がギルドに到着することにはラーズの戦車(チャリオット)はもうずいぶん高いところへとその姿を移していた。
 (――ふむ、今日はこれまでのところは、大きな収穫はなしか――。)
 うわさ話は昨日とほぼ同じ程度のもので、誰々がいなくなっただの、どこそこの子が帰ってこないだのといったものであった。やはり同様に目撃情報はなく、またその場所もまちまちで、有力な情報はなしであった。
 「…おや、アルフェルムさん、いらっしゃい。」
 アルフェルムが両開き扉を押し開けて入り口をくぐったとき、カウンターに居た男がそれに気づいて声をかけた。
 「…今日は、ボーンはいないのか。」
 アルフェルムは室内を見回しながらカウンターの椅子に座った。
 「ええ、ちょっと用事に出かけてまして。…でも、用件の方は頭からうかがってます。今のところは、めぼしい情報は入ってないですね。」
 「そうか。…まあ、昨日の今日では、そんなところだろうな。」
 「一応、バルザの方にも、もし同じような話が入っていたらということで連絡は送りましたので、もし向こうでそれに関わる情報か、あるいはここしばらくの間に起こった、関係がありそうな事があれば、数日のうちに入ってくるかとは思いますが。」
 「そうか。助かる。」
 「シーヴィさんの方にも、アルフェルムさんが連絡を取りたがっている、ということを同じ連絡便で伝えましたので、こちらも、連絡が付き次第何かのアクションがあると思います。」
 「何も云うことはないな。」
 アルフェルムはあまりの手際の良さにやや苦笑さえうかべた。――いずれにせよ、フォードとボーンが交わしていたあの密約はともかくとして、彼らがそうやって、きちんと彼の依頼した内容をこなしてくれているのは助かることであった。
 「では、当分は待っているだけか。」
 「どうしましょう?何か情報が入ってきたらそちらの宿に誰か若いのをやるようにしましょうか?」
 「ああ――いや、いい。俺も自分で動き回っているから、居ないことも多いしな。…なるべく寄るようにするから、その時になにかあれば、貰えればいい。」
 「わかりました。」
 「さて――あと、しておかねばならんことが、あったかな……?」
 「とりあえずは、おっしゃるように待っているしかないじゃないでしょうかね。しばらく経てば、いくばくかの情報も集まりましょう。」
 「ふむ。」
 アルフェルムは、少しばかり考えて、そしておもむろに立ち上がった。
 「――ならば、ちょっとあいつの所へでも行ってみるか――すまんが、そういうことで、あとは頼む。」
 「わかりました。」
 アルフェルムは彼に向かって挨拶をすると、ギルドの扉をくぐり、外へと出た。
 「――そろそろ、昼時だな――。」
 アルフェルムは太陽を見上げ、一言呟くと、歩き始めた。



 『トントン』
 「――?」
 何かが聞こえた気がして彼女はうっすらと目を開けた。だが――気のせいだろうと、もう一度布団の中に潜り込む。
 だが――
 『トントン』
 「シーナ。シーナ……いないのか。」
 「……んだいもうっ……人がようやく寝ついたってのにさっ……。」
 『トントン』
 「ああ、いるよいるったらっ。」
 シーナはぶつぶつと文句を云いながら起き出し、髪の毛をかきあげながらのろのろと扉口までいき、来客確認用の小窓を開けた。その向こうに見えたのはよく知る者の姿であった。
 「――?なんだいアルじゃないかい……。」
 彼女はしかめっ面のまま鍵を外すと、扉を開けた。
 「すまんな。寝ていたのか……お前、なんという格好をしとるんだ。」
 彼が驚いた声を上げたのも無理はなかった。シーナはおよそそうして客を迎え入れるのとはほど遠い格好をしていたからである――つまり、パンティだけの下着に薄く透けるネグリジェ、という。
 「そんなこと云ったって仕方ないじゃないさ、あたしゃちょっと前にようやく床に入った所なんだからさ。――昨夜は色々あって遅かったんだよ、ここへ帰ってきたのだってすっかり明るくなってからだったんだから。」
 「そうか、それは悪かったな。」
 彼女はアルフェルムを室内へ招き入れた。彼女が住んでいるのはあまり美しいとは云えない貸し長屋の一部屋で、小さな部屋が三つほどある質素なものであった。室内はそれなりに片づけられてはいたものの、それでもふだんの彼女からは考えられぬような簡素なもので、店に入り浸っている男たちが見たら卒倒したかも知れなかった。
 「――それで?なんだい今日は急に。」
 シーナはアルフェルムをテーブルにつかせておいて自分は一旦奥に引っ込み、バスローブを着て戻ってきた。そしてアルフェルムに、小さな保存用樽から注いだエールを差し出し、自分も椅子を引いて対面に座った。
 「ああ、お前ならなにがしか話を聞いているかもしれないと思ってな。」
 「なんだい、話って。」
 「ほれ、最近の、子供の神隠し事件だ。」
 「――ああ……まあ、ちらほらと、それらしいことは耳にするけどねぇ……なんだい、調べてるのかい。」
 「ああ、ちょっと縁があってな、仕事ではないんだが、調査をしているところだ。――お前の酒場の方で、それらしい話題はないか。」
 「ウチでったってねぇ……。」
 シーナはひじをつき両手を組み、その上に顎をのせて考え込んだ。
 「ウチに来る野郎どもは、あんまりそういう、街中のこととは関係ない奴が多いからねぇ……ばくちでいくら儲かっただの、あの女を抱いただの、そんな話ばっかりで、子供の話なんて出てきやしないよ。」
 「別に直接子供の話でなくてもいいんだ。最近変わったことがあれば……。」
 「変わったこと、ねぇ……。」
 シーナは眉をひそめて考えた。その間にアルフェルムはグラスに口を付ける。と、はたとシーナは気づいて云った。
 「――そういえば……一人、変な事を云っていたのがいたねぇ……ほれ、街の、北東のはずれに、さびれた倉庫区画があるだろ?」
 「ああ、一応今でも使われはしているが、だいぶ古くなってきているんで、国が建て直しを検討中だということだな。もっとも、子供たちにとっては広くて人がおらず、馬車などもそれほど頻繁には入って来んということでいい遊び場になっているようだが。」
 「うちの客の一人が、そっち側から街に入るときにふとみると、およそそんなところには似つかわしくない身なりのいい男が壁際にたたずんでいるのが目に入ったというんだよ。――ところが、瞬きした次の瞬間にはもう誰もいなかったと――文字通り、かき消えちまったって、そう云うんだよ。」
 「――見間違いではないのか?」
 「みんなそういってたさ。『仕事を終えて帰って来るときに、疲れて夢でも見たんだろう』とか、『飲み過ぎて頭がいかれちまったんだろう』とか。だけどそいつはがんとして云い張ってたよ、『俺の愛するコペン通りのせんたく女ウィルフィにかけて、誓ってあれは本物だった』って。」
 「ふむ……。」
 アルフェルムは少し考え込んだ。
 「――その男というのは、どういうやつだったんだろうな……年の頃や身なり、様子など、憶えていないのか。」
 「さあねえ、そこまで詳しくは……遠目だったのと、あまりに一瞬だったので殆ど判らなかったみたいだよ。ただ、憶えている限りでは、着物にせよマントにせよ、埃なんかで薄汚れていない、遠目でも色がはっきり判るそれだったと――気品がはっきりとわかるものだったと云っていたねぇ。顔はよく見えなかったけど、髪は白っぽかったらしいねえ。」
 「ふむ。」
 「――もっとも、」
 シーナはふうと小さく息を吐いて天井を見上げた。
 「…次の日になったら、振られたのか何だか知らないけど、その女の名前が『酒屋の娘ターニャにかけて』なんて変わってたからねぇ、信憑性の方はちょっとねぇ……おまけにその時、たまたま飲んで遅くなってたそいつをかみさんが探しにきて、べらべらまくしたててるその話をその場で聞いちまったもんだから大変だよ。『アンタッ!!やっぱり貢いでたんだねッ!!』ってな感じに大騒ぎになっちまってさ、そのままうやむや、あれからそいつもウチにきてなくて、結局本当のところは判らずじまい、ってところさね。」
 「戯れ言の域を出ん、か……。」
 アルフェルムはぐいっと杯を煽った。
 「まあ、酒場で出てくるようなよた話なんてのは、そんな、ホラに近いものばっかりだよ。」
 「そうか……。」
 「――それよりも、あんた、」
 と、シーナは急に矛先を変えた。
 「今日はフィムちゃんはどうしたのさ。…またほったらかしかい!?」
 「――ほったらかしとは随分だな。別段放っておいている気はないが?」
 「あんたが放っておいてる気はなくても、フィムちゃんのほうはそうじゃないかもしれないだろ。」
 「なんだいきなり。急につっかかってくるな。」
 アルフェルムはぐいっとグラスを空けてしまってやや乱暴に云った。
 「俺とフィムとのことは俺とフィムとの問題であって、お前には関係ないだろう。」
 「関係ないとは随分だね、かつては一つ屋根の下で生活して、あんたのことなら隅から隅まで知ってるあたしを捕まえてさ。あたしゃあんたたちのことを心配して云ってるんだよ。――あんた、フィムちゃんとの生活をあたしの時の二の舞にしたいのかい?」
 「そんなことにはしやしない。」
 「なってるじゃないか、現に今だってさ。――一一昨日あんたが薬草採取に行ってたとき、通りでフィムちゃんに会ったよ。あの娘、ものすごく寂しそうにしてたよ、『一人で待ってるのは辛い』って……あんた、フィムちゃんの気持ちちゃんと解ってるのかい?」
 「そうは云うがな、こっちだって好きで放っておいてるんじゃない。たかだか一日のクエストに、いちいちあいつを連れていけるか。一日ったって、化け物に襲われる可能性はゼロじゃないんだ。俺はな、大概のことなら切り抜ける自信はある……自分一人ならな。だが、あいつを護りながらとなると話は別だ。現に何度か命を落としかけたこともある――あいつを危険にさらしたくないから、一日ぐらいは我慢しろと云っているんだ。」
 「その一日が毎日続くのがあんただろうに。別段生活に困っているわけでもないのに、あんたは毎日出ていくんだ……待っている女のことなんか考えもしないでさ。フィムちゃんは怪我からは護られてるかもしれないよ、あんたが云うようにね…だけど、心の奥に少しずつ傷を負っていくんだ、あんたがそうやってあの娘を放って出ていくたんびに。それを理解してるのかいって云ってるんだよ。」
 「仕事ってのはこっちが思うようには来てくれんのだ。いくつか依頼が重なってしまうことだってあるし、与えられた期限までにそれをこなすためには、必然的に毎日家を空けざるを得ん事もある。それは働いとるお前なら重々解っていることだろうが。」
 「そして、ようやく休みになったその日でさえ、こうして仕事でもないのに朝から出かけていっちまったりするんだ、あんたはね。おかげで女はいつでもやきもきしてなきゃならないのさ。」
 「あいつがかつて『困った奴がいたら助けるべきだ』と俺に云ったから俺はそれに沿って行動しているんだ。だいたい、心の傷などと云うがな、俺が急いで普通より二ガロスも早く仕事から帰ってきたにもかかわらず、ファンカーとかいう奴と茶を飲んだり美味い菓子を食ったりして楽しく過ごしていたのはフィムの方だぞ。今日にしても、あいつときたら嬉しそうに――」
 「――ちょっと待った。誰だい、ファンカーって?」
 アルフェルムがまくしたてようとするのを、シーナが胡散臭そうな顔をして手で遮った。アルフェルムは話の腰を折られてむっとしたが、しかし説明を始めた。
 「――街のはずれに、でかい屋敷が建ったのは知っているな?あそこに住んでいる商人だそうだ。見た目20代の、線の細い、若い男だったが…実際の経営は父親が仕切っているようだが、こちらへ商売の手を広げるために来たと云っていた。…そんなだから、かなり裕福ではあるようだな。」
 「…そんな若い男の所に、フィムちゃんを一人で放っておいてるのかい。」
 「あいつが好きで通っとるんだ、俺が放っておいたわけじゃない。」
 「あんたがちゃんと相手してやらないからだろ。だいたい、その男信用できるのかい?フィムちゃんみたいなカワイイ娘を、そんなところへ一人でやらして…なにかあったらどうするのさ。」
 「…だから今日、一緒に行って様子を見てきたんだ。そして結論としては、おかしな奴ではない、ごく普通の男だ――そう感じたんで置いてきたんだ。」
 「本当に本性を表してないって云い切れるのかい?ましてフィムちゃんだ、あの綺麗な羽に魅せられないとも限らないだろ。最初はそういうつもりでなくても、魔が差すってことは充分あり得ることだよ。何か起こったときにあんたが側にいてやらなくて、誰があの娘を護るんだい。――事が起こってからじゃ遅いんだ――とりかえしのつかないことになる前に、よく考えた方がいいんじゃないかい?」
 「だがな、フィムが一人で考えて一人で行動していることだぞ?それを俺が抑えつけるわけにはいかんだろうが。…あいつも一八だ、立派な大人だろう――そういうことは、きちんと考えているさ。」
 「子供だよ、あの娘は。」
 シーナは白熱してきた議論を制するかのようにぴしゃりと云い放った。
 「――子供だよ、あの娘は――良くも悪くも、無邪気な部分を心の中に持ってる、ね。…あの娘は今まで、人間界の表だった(、、、、)汚さは見てきたかもしれない。だけど、そんなのは人が持つ闇の面のごく一部でしかない……もっと深い、はまりこんだら逃れられないような闇の内面をまでも知っているわけじゃないだろうに。…その、ファンカーとかいうのが、そうでない…と、本当に云い切れるのかい?――そして、」
 「…そして、もしそういう場面を、フィムちゃんが目にしてしまったら、そういうことに、巻き込まれたら――おそらく、これ以上ないくらいに傷つくよ。――それを、解っているのかい?」
 「…………。」
 アルフェルムは、そこで、黙り込んでしまった。
 「ごらんよ。云い返せないじゃないさ。」
 「――だがな、そうは云うが……そしてそれは、俺も考えたことでもあるが……もし本当に善人だったらどうするんだ。…その場合、お前が云うことは、大変な失礼に当たるわけだろう。」
 「金持ちに善人なんていやしないのは、あんたなら重々解っていることだろうにさ。」
 シーナはアルフェルムが彼女に投げた云い回しをそのまま返す形で皮肉っぽく云った。アルフェルムは再び黙り込む。シーナはしばらくの沈黙の後、重く口を開いた。
 「…結局あんたは、フィムちゃんの振る舞いに、そのファンカーとかってやつに嫉妬してるんだよ。突き放したフィムちゃんがあんたの所に戻ってくる代わりに、そいつの所に入り浸ってることでね。」
 「――嫉妬?この俺が?」
 アルフェルムは眉をひそめ、そして吐き捨てた。
 「――ばかな。」
 「そうさ。」
 シーナは、人前では見せぬおだやかな表情になり、少し首を傾げて見透かすようにアルフェルムの目を見つめた。
 「あたしにゃわかる――あんたは、いつも心の底では抱きついてくるフィムちゃんを期待してる――そして今は、そうやって何にもないって顔してるけど、実は、思い通りに動かないフィムちゃんにいささか嫉妬してるのさ。」
 「――ばかな。」
 アルフェルムは、もう一度、呟くように云った。
 「あんたは強い人間だよ。それは、あたしゃよく知ってる…けど、同時に、弱い人間だよ。たった一人のか弱い娘の行動に、そうまでふりまわされる…ね。――ねえ…アル。人間なんて結局、他人の助けなしにゃ生きられないのさね。あんたが強いことは解ってる――でもたまには、走り続けるのをやめて、立ち止まって少し休んでみちゃどうだい?」
 「…………。」
 「フィムちゃんは、ほんとにあんたのことを愛してる…まるで崇拝するみたいにね。だけどあんたも、くっついてこさせるだけじゃなく、それに手をさしのべておやりよ。そうすれば、きっとなにもかも変わるよ。」
 「…………。」
 「――とにかく、」
 アルフェルムが黙り込んでしまったので、シーナは話を切り上げることにしたようだった。彼女は少し厳しめの、いつもの顔に戻った。
 「その、ファンカーとかいうの…あんまり、信じすぎない方がいいよ。腹の底に何を抱えてるとも限らない…あたしも、随分色々見てきたけど、結局金持ちなんて信じない方がいいんだよ。――そして、これだけは心に留めておくんだよ――なにかあった時に、悲しむのは、あたしでも、あんたでもない。他ならぬフィムちゃんだよ。――いいかい?今夜にでも、フィムちゃんと話でもして、わだかまりを解いておくんだよ……それで、あとは、そいつが本当に信じられると云うことがわかるまで、むやみにフィムちゃんを近づけないこと。わかったね?」
 「――だが――」
 「だがじゃないよ、もう。」
 シーナはばん、と机を叩いて腰を浮かせた。
 「あんたは、あの娘が可愛いと思ったから、そしてあの娘がそれを望んだから、今までの娘たちのように、社会へ適応させるべく送り出す代わり、一緒に暮らすことにしたんだろう?――だったら、もっと大事にしておやりよ。…これは、過去にあんたとの生活に敗れ去ったあたしだから云ってるんだ。――あんた、夜、ちゃんとフィムちゃんを可愛がってやってあげてるんだろうね?」
 「…いや、ここのところちょっと忙しかったから――」
 「ダメじゃないか、そんなことじゃさ。――いいよ、じゃあ、今夜にでも抱いておやり。それで、ベッドの中で話でもすれば、うまくいくようになるさ。わかったかい?」
 「――ああ。」
 「気のない返事だねぇ。しっかりおしよ。――さて……それじゃ、あたしはもう一眠りさせてもらうかねぇ。」
 「ああ、済まなかったな、寝際に押し掛けてきて。」
 「いいさ。滅多に店にも顔を出さないあんただ、こんな時でもなきゃ来やしないしね。――ああ、それから、事件のことはあたしもそれとなく情報を集めておくようにするよ。まあ、酒場の飲んだくれどもからの情報じゃ、信憑性の方はたかが知れてると思うけどね。」
 「いや、どんなことでもいい、耳に入ったらまた伝えてくれ。」
 アルフェルムは椅子を引いて立ち上がった。シーナも呼応するように立ち上がる。アルフェルムはシーナと共に戸口まで歩いていって扉を開けた。
 「じゃあな、ゆっくり休んでくれ。」
 「フィムちゃんによろしくね。それから、もうちょっと店に顔を出しとくれ。せっかくあんたのためにとっておいてあるワインがいつまでたっても蔵から出せやしないよ。」
 「わかった。」
 アルフェルムは済まなさそうに笑って、彼女の家を後にした。



 陽が、傾く。
 窓から差し込む光はやや赤みがかかっていて、その奥の壁まで届いている。街はこれから徐々に赤く染まり、そしてその色を青から藍へと変えていくのだ。
 アルフェルムはあの後、再び自分の脚で歩き回って情報の収集につとめていた。残念だが、今日のところは、昨日彼が得た以上のものはなさそうであった――あまり進展らしい進展もなかったので、エムルの所へもいかず、彼は点鐘がアールに移る頃には早々と部屋に引き上げてきたのであった。
 そしてまた、フィムが帰ってきたのもその頃であった。アルフェルムが部屋に戻ってきてほとんどすぐに、『トン、トン…』という例の足音が聞こえたかと思うと、キィ、と扉を開けて彼女は姿を現したのである。
 「――あっ、アル
 「――早かったな。」
 「んー、メイワクかけたらイケナイと思ったから、お昼食べて少ししてからもう向こうを出たの。――でもね、一回泊まりに来たらどうだって云われちゃったっそしたら、晩ゴハンもご馳走できるからってっ
 「…そうか。それは……その、――良かったな。」
 アルフェルムは、昼間シーナに云われたことがふと頭をよぎって、彼にしては珍しく、優しい言葉をかけた。だが――それは、皮肉にも、フィムに間違って受け取られてしまった。
 「あ、エトントっ……あ、あのね、その……も、もちろんアルも一緒に、だよっそのね、ファンカー、ヘンなコト考えてそれ云ったんじゃないからっ……その、フツーにゴハンのコトだけ考えてたと思うからっ
 「…いや、俺はそういうつもりで云ったんでは……。」
 「え、ア……エトントッ……ご、ゴメンッ……
 「……いや、いいが……。」
 「…………。」
 「…………。」
 二人の間には、奇妙な空気が生まれつつあった。
 「あ……あのねっ。ファンカーねっ……アルにね、また来て欲しいってっ。よろしくって、云ってたよっ……。」
 「――そうか。まあ……よろしくと、伝えておいてくれ……。」
 「う、ウンッ……
 「――少しばかり早いが……メシに、行っておくか?」
 「…う、うんっ……。」
 まるで、お互いがお互いを、腫れ物であると畏れているかのような――
 その不思議な雰囲気は、二人が食事をしている間はもちろんのこと、それを終えて部屋に戻ってきてからも変わることはなかった。
 「エト……その、アル……お、――おシゴト……うまく、いったの……?」
 「…いや……そう、簡単に運ぶことではないんでな……おそらくもうしばらくは――いや、それほど時間をかけるつもりもないのだが……どうしても、すぐにけりがつきそうではないから――」
 「そ――そうなんだ。」

 「いや、必要以上に……その、入れ込むつもりは、俺はないんだが……どうしても、な……。」
 「い……いいよっ。その……だって、それも……タイセツなコト、なんだよねっ……?だから……その、あたしはダイジョウブッ、あの、エト、ファンカーんトコ行っておハナシしてれば――あっそ、そのっ、アルがキライんなったとかじゃなくてっ、そのっ……
 「いや……いいんだ。」
 「エト、その……ゴメンッ……
 「…………。」
 「…………
 まるで――
 思春期のうぶな男女の恋のように、二人の会話は滞る。
 なにが、彼らの心を捕らえてしまったのか――
 その奇妙な雰囲気は、だから、やはり、やがて入浴の順が回ってきて二人が一緒に風呂をしたためている間も、さっぱりして部屋に上がってきてからも、まったく、戻る気配はなかったのである。
 「ね……ねえ、お酒……飲まないの?――アル、さいきん……ぜんぜん、飲まないね……。」
 「ちょっと、忙しいからな……ああ、いや、忙しいというか……その。――お、お前の方こそ……珍しいな。そんなことを云うのは……いつもなら、飲むな、飲むなと云うのに。」
 「だ……だって、アル、いっつもいっぱい飲むから……それに、あたしが飲むとダメだって云うし……えと、その、だからヤだとかじゃなくってっ、やっぱりその、アルの身体に悪いしっ……
 「少しぐらい……飲むか?」
 「あ……ウ、ウウンッ……えと、いい……その、また、アルにメーワク、かけちゃうといけないしっ……それにその、やぱしっ、カラダによくないからっ……
 「そうか。――なら……俺も、やめておくか……。」
 「あっアッ、でもでもっ……アル、飲みたいんだったら……その、少しぐらいは……。」
 「いや……俺も、それほど飲みたいというわけでもなくてな……。」
 「そ……そうなんだ。――だったら……いいケドッ……
 「…………。」
 「…………。」
 「そ――それよりも、フィム。」
 「あっな、なぁにっ……?」
 アルフェルムは、彼にしては珍しく口ごもった。
 (『――いいよ、じゃあ、今夜にでも抱いておやり。それで、ベッドの中で話でもすれば、うまくいくようになるさ――』)
 「――他に、する事も……特にないし、――もう……寝るか?」
 「う……うん……その、アル――疲れてるんだ……。」
 「いや……そうではない。その――」
 アルフェルムは、ためらいを見せながら、続きを口にした。
 「――その……久しぶりに――……するか……?」
 「――えッ……。」
 フィムは少し目を見開いて驚き、瞬きをし、そしてうつむいた。だが、その次にフィムの口から紡ぎ出された言葉は、アルフェルムが予期していたものとは異なるものだった。
 「――えと……その、――今日は……あんまり……。」
 「…なんだ?――イヤなのか。」
 「!!そうじゃないの!――そうじゃなくて――」
 フィムは何度もちらちらと、彼を見やっては目線を反らす。
 「……なんか、しばらく……その、しなかったから…かも、しれないケド……なんか……あんまし、そういう…気に、…ならなくて……。」
 「――そうか。」
 「――そ、それに、その……アル、さいきん……いそがしそうだし……あたし、アルのメーワクに、なりたくないし……。」
 「迷惑だなどと、俺は思ったことはないが……。」
 「…………。」
 「……あっ、でもでもっ、」
 フィムは顔を上げてうろたえながら云った。
 「でもっ……ア、アルが…その、したいんだったら、――あ、あたしはっ……その、イイけどッ……!!」
 「――いや……俺も、それほど……というわけでは――。…お前が、そういうようなことを云っていたから、な……。」
 「う、ウン……。」
 「――今日は、いいか。」
 「アッ、えと、エトッ……
 フィムは忙しく目をしばたかせながら、何度も彼の顔を見てはうつむいた。そして最後に、これ以上ないくらいためらってから、返事した。
 「……ウン……。」
 さながら、二つの螺旋階段のごとく――
 ふたりの想いは、複雑にねじれ合い、絡み合う。
 されど――
 どれだけ近づいても、けして交わることのない、その想い。
 シールの定めし運命は、ヒトごときのちっぽけな努力では、所詮変えられぬものなのか――
 結局、二人の間の溝は、二人が床につき、フィムがアルフェルムの腕の中に包まれても、埋まることはなかったのである。



 『
  ヒトの、心は、弱きもの――
  そうして、溝が深まるうち、
  優しいその友人に、気持ちが傾いてしまったりしたとしても、
  いったい、誰が責められるというのでしょう――。
 』



 「――というわけでしてね、それはそれはすばらしい舞台だったのですよ。」
 一夜が開け、時刻はネセグゼの四。
 朝、目を覚ました二人の間には、しかし一晩経っても奇妙な気まずさが依然として残ったままだった。それは朝の食事の間中もずっと続いた――それをアルフェルムがどう思っていたかはともかく、少なくとも、フィムにとっては、随分居心地の悪い時間だったのだ。
 それに耐えられず、彼女は、食事が終わると散歩に行ってくるといったようなことをごにょごにょと云い、ろくな言葉も交わさぬままに、そそくさと出掛けたのである。――もっとも、その時は本当に少しばかり散歩するだけのつもりだったのだ、そう、気分転換のつもりで――しかし、いつの間にやら足がファンカー宅の方へと向かっており、気が付けば、彼の邸宅の前にまで来ていたのだ。そして、それに気付いたファンカーに誘われ、こうして、午前中のお茶ということになったのである。
 だが、今日のフィムは昨日までの彼女とは違い、どこかしら上の空であった。ファンカーが話しかけても、その時は聞いているのだが、しばらくするとぼうっとした表情になり、ティーカップを手にしたまま考え込んでしまったり、ケーキを口に運ぶフォークをくわえたまま動きを止めてしまったりと、どうにも妙であった。
 「――フィムさん。フィムさん?」
 「……え……あっ、アッ!?…エトんと、な……なぁにっ……?」
 「大丈夫ですか?ご気分でも、すぐれないのですか?」
 ファンカーも、フィムとて体調が悪い日もあるのだろうと、最初のうちはあまり気にしていなかったようであるが、さすがに何度もそれが続いたため、ついに見かねてそう尋ねた。
 「え……ア、ううん、そんなコトないけどっ……
 「でも先ほどから、何度もふさぎこんでおられます。――何か、悩み事でもおありなのですか?よろしければ、お話して頂けませんか。」
 「…でも……。」
 「話してしまえば、胸のつかえも取れてきっと楽になりますよ。――それに、」
 「――それに、私も、お力になりたいのです。」
 「…………。」
 フィムは少しためらった。だが、ファンカーの優しげな瞳と温かな笑みに、安心感を感じたのか口を開き、ぽつぽつと話し始めた。
 「あのね……昨日から、その……アルと、あんまり…うまく、いってないの……。」
 「…また、喧嘩でも――されたのですか?…でも、喧嘩するほど仲が良いとも云いますし――」
 「ううん、ケンカじゃないの。ケンカとか、そういうのじゃ……。」
 「――それでは、一体――?」
 「……その……。」
 フィムはもう一度ためらって、おずおず口を開いた。
 「…なんていうか……その、…なんかね……アルと、うまく、話せないの……。――なんか、アル、変にあたしに、気、つかってるみたいで……そいで、その、あたしも……なんだか、喋りづらくなっちゃって、気まずくなっちゃって……。――いつもみたく、『離れてろ』とか、『くっついてくるな』とか云われてる方が、よっぽど気楽なのに…でもなんだか、昨日からのアルは、あたしのコト、壊れ物でも扱うみたいに、ヘンに優しくって……だから、あたしも気になっちゃって、フツーに喋れなくなっちゃって……。」
 「ほう……。」
 「あたしねっ…!!――あたし……やっぱしねっ、アルがね……フツーにね、ランボーでも、いつもみたく……『ほれ、こっちへ来い』とかね、云ってくれる方が……その、――スキ、なんだなぁって……気付いちゃったの……。――あのねっ!!いっつもいっつも、そうだったから……だから、あまし、その、そういうのが、フツーになっちゃってて……わかんなかったケドッ、でも……やっぱり、あたしも、そういうのが、ホントは、スキなんだなぁってっ……少しくらい、ランボーでも、それでも……そんなふうに、…ムリに、きづかってくれるよりは……いつも通りに、ゴーインでも……フツーに、してくれる方が……いいんだなって……わかっちゃったのっ……。」
 「――フィムさんは、」
 ファンカーは、微笑みながら云った。
 「――本当に、アルフェルムさんを――愛して、いらっしゃるのですね……。」
 フィムは、あまりにストレートなその言葉に思わず真っ赤になった。
 「そ、そんなのっ……
 「幸せなことですね、そのように、身近に、自分を本当に理解してくれる方がいて、そして自分も相手と何一つ隠し立てすることもなく接することが出来る――もしかすると、人間として、一番幸せなことなのかもしれません。」
 「――でも……だケド、今は……そうじゃないもん……。」
 数日前、メリスが云った言葉と、偶然にも同じその言葉にも、フィムは寂しそうにうつむいた。
 「今は――今は、前みたく……自然に、出来ないもん…。だから、困ってるんだもん……。」
 「大丈夫ですよ。」
 ファンカーはにっこりして、紅茶を一口飲んだ。
 「お互いに、相手のことを理解しているからこそ――むしろそうであるがゆえに、時にはそのように、すれ違いが起こることもあります。どうしても、人と人、考えることは違うのだから――。」
 「…………。」
 「…だけれど、今までそうして、ずっと刻を一緒に過ごしてきて、辛いときも、悲しいときも、共に歩いてきたのでしょう?――だったら大丈夫ですよ。必ずどこかで理解し合える時がきます。」
 「――ホントに、そう思う……?」
 フィムは上目遣いに、おずおずとそう尋ねた。
 「もちろんです。」
 ファンカーは、一辺の迷いもなく答えた。
 「…………。」
 フィムはあまりにはっきりとしたその答えに、むしろびっくりして、目をまん丸にした。
 「驚くようなことではないですよ。」
 だから、ファンカーは少しばかり表情を崩して笑い、手を振って制した。
 「フィムさんを見ていると判ります。アルフェルムさんのことが本当に好きでたまらないのでしょう?――だったら、うまくいかないわけがありませんよ。――いえ、うまくいかなければならないのですよ、むしろ……。」
 最後の一言は呟きに近いものであったため良く聞き取れなかったが、それはフィムにはあまり関係がなかったようだった。フィムはびっくりした表情で依然ファンカーを見つめていたが、やがて、小さな声でぽつりと云った。
 「あり…がとう……。」
 「いいえ。いいのですよ。」
 ファンカーはにっこりと笑ってそれに応じた。
 「フィムさんのお役に立てるのならおやすいご用です。――これで、フィムさんが元気になれば、私の方もまた、美味しいお茶がいただけることにもなりますしね。」
 「エヘ……あたし、ファンカーと出逢えて、ホントによかったよっ……!!」
 フィムは、頬を赤く染め、花のように笑った。それは、ここ数日彼女にはなかった、本当に心底から嬉しいと感じた笑顔であった。



 一方で、アルフェルム。
 彼は、フィムがなんだか云い訳がましいことを云って出て行ってしまったのを、もちろん彼自身もばつ悪く感じていたには違いないが、しかし流石に彼はフィムほどナーバスではなかったので、すぐに気持ちを切り替えて自らの収集してきた資料の整理を始めた。そして、今日のターゲットはこの地区にしようと決めると、上着を羽織り剣を携え、宿の主に一言伝えて今日も情報収集に出掛けた。
 彼が宿から外へ出たとき、空はここ数日の好天とは相反して雲に覆われていた。――完全な曇天というわけではなく、青い部分も見えてはいたのだ。だから、彼は、さほどそれには気を留めず、まあそのうちにひらけてもくるだろう、といった軽い気持ちで軽装のまま出掛けたのである。
 が――
 宿を出て、いくばくか歩いた頃、天球は、もはや我慢できないとでもいった風に、ぽつり、ぽつりと雨粒を地面に落とし始めた。

 「――雨か……。」
 いつのまにか、どんよりと暗い雲に覆われてしまった天を仰ぎ、アルフェルムは呟いた。
 しばらく我慢していればそれでもあがるかもしれない、といった希望的観測とは裏腹に、ぐずり始めた空は少しずつではあるがその機嫌を悪くしていった。ポツ、ポツポツ……と落ちてきていた雨粒は、やがてサァァ…と線を引いて落下し始め、またたくまに地面を黒く塗りつぶしていく。
 「これは…いかん。」
 アルフェルムは辺りを見回した。周囲は居住区であり、雨宿りが出来そうなくらいに軒が出ている建物はなかなか見あたらない。しかたなく、アルフェルムは雨を逃れる場所を求めて駆けだした。そうするうちにも、空はついに本格的に泣き始める。アルフェルムの身体はみるみるうちに濡れていき、シャツが地肌に張り付いていく。
 「これは…たまらん。」
 アルフェルムは雨粒をしのげる場所を求めて全力で走る。この辺りの住民もこの突然の雨には戸惑ったようで、自分の家に駆け込む者、開けていた戸や窓を慌てて閉める者、勇気を持って干していた洗濯物を必死で取り込む者と、辺りはちょっとした騒ぎにすらなった。
 「――あれだな。」
 アルフェルムがいくつめかの角を曲がったとき、100メムほど先の長屋の戸口に軒が張り出しているのが見えた。――人の家の戸口で雨をしのぐのはいささかはばかられたが、しかしこうも激しく雨粒が降り注ぐ今となってはもはやそんなことは云っていられなかった。彼はそこへ向かって全力で走る。
 ――だが、彼がその最後の100メムを、最後の力を振り絞って疾走し、ついにその軒下に飛び込んだとき、それは起こった。
 『ガチャリ――』
 「!!――とッ……!?」
 「――キャッ!?」
 まさに彼がそこに『文字通り』飛び込んだとき、それとほぼ同時にその扉が開いたのだ。さすがのアルフェルムもこれは予測していなかったとみえ、開けられた戸口にしたたかに身体を打ち付けてしまう。彼はバランスを崩してよろけた――かろうじて、天性の運動能力によってすっころび身体を泥まみれにしてしまうことだけは避けたが。
 だが、それは――
 「あっ、あのっ、ごめんなさいっ――まさか、人がいるなんて――」
 「――エムル。」
 「あ、はいっ……え?――あ、…アルフェルム…さん!?」
 再び、シールの悪戯か――
 偶然にも、その相手は、彼が二度、出会い頭にぶつかっている、眼鏡と三つ編みの女性、エムル・フィーヴィーであったのだ。
 「――なんと、まあ……。」
 「……偶然、ですね……。」
 二人は互いに困ったような、照れくさいような笑みを浮かべてしばし立ちつくした。が、すぐにエムルの方がアルフェルムの身体を激しく打つ雨に気付いた。
 「あっ、アルフェルムさん――どうぞ中へ。このままじゃ、カゼ引いちゃいます。」
 「あ……ああ、すまん。」
 アルフェルムは招き入れられるままに中へと入った。
 「君の、家だったとはな……。」
 「ほんと、すごい偶然ですね。」
 エムルは微笑んで、アルフェルムにタオルを一枚渡した。アルフェルムはそれで全身を拭う。そうしたところで湿ってしまった衣類はべっとりと肌に張り付き、依然快適とは云い難かったが、それでもしとどに濡れそぼった髪や腕を拭きあげるだけでも相当ましにはなった。
 「すまない…助かった。」
 「いいえ。…あったかいお茶入れましたから、どうぞ座って、召し上がってください。」
 「すまないな。」
 彼が招かれたその内部は台所つきの小さな部屋で、四人ほどが座れる小さなテーブルと椅子があったのだが、そこにエムルは既に沸かしてあったらしい湯から紅茶を入れ、テーブルの上にて、アルフェルムの前に差し出した。
 「ああ…すまん。」
 「どこかへおでかけされていたんですか?」
 エムルは自分の分もカップに注ぎながら尋ねた。
 「ああ――」
 アルフェルムは誘われるままに席に着き、それを一口喉に流し込んで続けた。エムルも椅子を引き、そこに座る。が、次のアルフェルムの言葉は、エムルの動きを止めるのに充分であった。
 「君の弟の件でな。――まだ調査していない地区があったので、そちらへ出掛けて情報を収集しようと、向かう途中だった。」
 「!!あ……そう…そう、ですか……。」
 「――丁度、都合は、いいか。」
 アルフェルムは、ここまでに彼が得た情報をエムルに話した。人さらいの話が方々に散らばっていること、国の方ではさしたる動きがないこと、残念ながら、ここまでの調査では何かを特定できるほどには至っていないこと――総括的な意味も含めて、彼はこれまでの経緯を包み隠さず話した。
 「そう……ですか……。」
 当然の事ながら、エムルの方はそれを聞いてふさぎ込んだ。――無理もない。彼女にとっては、母親を除いては、弟こそが唯一の親族であるのだ。その弟に対して、多大なる愛情を注いでいたとしても不思議ではない。そして、その弟の失踪の手がかりがなかったとあれば――そう、落ち込んだとしても、これは仕方のないことであった。
 「――がまあ、」
 アルフェルムは、彼女の心配を振り払おうと続けた。
 「…こちらも、その情報だけでなく――他に頼んでいる奴らもいるのでな。――彼らを、今は、待とう。――心配、ない。こちらも、手は尽くしているから――きっと、弟は――見つかる。」
 「――はい……はい、その……そう、……そう――ですね……。」
 エムルの方は、しかし、そうは云うものの、なかなかその言葉をは信じられないようではあった。――責められはしまい――アルフェルムがいくら問題ないと説き伏せたところで、進展がさほどないのは事実――そんな状態で、自分を奮い立たせようとしても、それは無理というものであっただろう。
 「――すまんな。もう少し、大きく動ければよいのだが……。」
 そんなエムルの胸中を察して、アルフェルムは申し訳なさそうに云った。
 「あっ……あの、い、いえっ……そ、そんなことないです……だってその、……これは……うちの勝手な問題なのに……それを、助けてくださって……。」
 「まあ、――乗りかかった船ということもあるにはあるが、前にも云ったように、アイツ(フィム)が、望むこと――だから、な。」
 アルフェルムは静かにカップに口を付けた。
 「…………。」
 エムルはそんなアルフェルムの顔をしばらく見つめていた。が、その視線に気付いたアルフェルムがふと目線を上げると、彼女は慌てて目を反らし、そしてごまかすように続けた。
 「あっ、あの……それで、今日は……その、お連れの……フィム…さんは……?」
 「――ああ、」
 アルフェルムは一瞬間をおき、そしてやや、ばつ悪そうに云った。
 「…ちょっと、今……なんというか、……うまくなくてな。」
 「えっ…え、ケ、ケンカ…ですか……?も、もしかして、私のせい……?」
 「――ああ、いや、」
 アルフェルムは慌ててかぶりを振った。
 「そういうわけではない。いつものことだから、気にせずともよい。」
 実際には、それはいつもどおりのケンカというわけではなかったのだが、アルフェルムは彼女を安心させるために嘘をついた。
 「――そうですか…だったら、いいんですけど……。」
 「いつものことだ。」
 アルフェルムは、短く繰り返しただけだった。――このあたり、喋ることが、そして目の前の女性を楽しませることが好きなファンカーとは対照的であった。彼は再度、静かにカップに口を付ける。
 「――よく、降るな……。」
 サァァァ…と耳に入る雨音に気づき、アルフェルムは肩越しに振り返り、窓の外を見つめて云った。雨足は先ほどよりは弱まったものの、それでもまだ雨具が必要なくらいには地面を打ち続けている。
 「…………。」
 エムルの方はそんなアルフェルムの横顔を、先ほどと同じようにじっと見つめている。その瞳は、少しばかり熱っぽかったかもしれない――そして、だから、アルフェルムはそれに気付いてエムルの方を見直った。一瞬まともに交差した視線にエムルは慌てて目を伏せる。そして、それを取り繕うように彼女はしどろもどろで言葉を繋いだ。
 「あっ、あの……そ、そういえば私、アルフェルムさんのことなにも知らないんですけど……その、ど、どこに住んでいるかとか、おいくつでいらっしゃるとか…。」
 「ああ…俺か。」
 アルフェルムは温かい紅茶を一口すすり、続けた。
 「俺は、ここから少しばかり離れた所に宿を借りて住んでいる――アルファード通りと云って判るか?『"人々の想い"亭』という食堂の二階だ。」
 「おひとりで……?」
 「いや、フィムと、二人でだ。」
 「え!?あ、ア…そ、そうですよね……。」
 エムルはちょっと驚いたように目を見開き、しかしすぐに目を伏せた。アルフェルムはやや怪訝に思ったようであったが、そのまま続けた。
 「この街には、どうかな――一八の時に流れ着いたから、かれこれ五年、――いや、六年になるかな――?そのぐらいは住んどるな。」
 「お仕事は、なにをされているんですか…?」
 「冒険者ギルドに所属して、まあ、探索だの、調査だの、そういうのをやっとるよ。」
 「冒険者ですか…すごいんですね……。」
 「すごいかどうかは判らんが、」
 アルフェルムは少しばかり苦笑いして云った。
 「まあ、これまでそうして生きてきて、それなりに楽しませて貰ったからな……自分の生き方に、合ってはいるんだろうな。」
 「なんだか、すごいですね…。」
 エムルは、少しばかり羨ましそうにそう云った。
 「いや、実際、それほどでは――」
 「私は――」
 エムルは、アルフェルムの言葉を聞かずに続けた。
 「……私は、今まで、なにひとつ、そんなふうに…わくわくすることもなく、…育ってきましたから……そういう、なんというか……他の人たちと、触れ合う機会もあまりなくて……それで、その、こんなふうに――その、……他の男の人と、お話をすることもなくて……。」
 「……そうなのか。」
 アルフェルムは軽く笑った。
 「…あまり、男性と付き合ったことはない…と?」
 「――はい……。」
 エムルは塞ぎ込むようにうつむいて返事した。
 「――父が、亡くなってから――私は、母を助けて、ずっとやりくりしてきましたから…だから、その――あまり、そういう……機会は、なくて……。」
 メリスにせよエムルにせよ、典型的な庶民の娘である。物心ついたときから家事を手伝い、仕事を手伝い、親を、家族を助け、忙しく生きてきている者たちである。――この時代、庶民にとって学問というのは基本的に手の届かないものであった。教育を受けたくても、あまりに高い学費を払うこともままならず、ほとんどの者にははなからチャンスがなかったのである。ゆえに、それを享受できるのはごく一部の裕福な者たちのみであったのだ――したがい、そういう一般庶民にとっては、近所の者たちと出逢い、付き合い、そしてそのまま結ばれるケースが多かったのであるが、それ以外にはこれといって出逢うチャンスがなかったのもまた、メリスがため息混じりに云ったとおりである。
 「まあ、難しいところではあるな。」
  アルフェルムは小さく笑った。
 「その街にずっと住んでいれば、出逢いもあるのだろうがな。」
 「そうですね……父がいて、定職があれば、一つの街に長くも居られるのですけど……どうしても、女手ということで、短期間の仕事が多くて、あちこち移動することになっちゃうんですよね。――私も、仕事があれば手伝うんですけど、残念ながらこの街では私みたいな若い女性のための仕事はあまりないみたいで……だから、今はこうして家事をしてるんですけどね……。」
 「今日は、母親は仕事に出ているのか?」
 「そうです。中央の方で、市の手伝いをしています。」
 「大黒柱がいないとなると、なかなか、辛いところだな。」
 「そうですね――その、」
 エムルはちらちら、と何度かアルフェルムの方を見やった。
 「――その……アルフェルムさんみたいな方が、居てくれれば……うちも、す、すごく…助かる…ん…ですけど……。」

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