背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             

















 

P-3

☆■  七月二十二日  ■



   関で義父の百ケ日の法要があり、昨夜までに幾日もか

 かって準備しておいた荷物を持って、出発する。



   鼓ケ浦、八時三十二分発。荷物はスーツケース、リュ

 ックサック、ボストンバッグ、それらをキャスターに載

 せ、ひきずり転がしながら運ぶ。



   亀山着。昨日、電話で依頼した駅前の長野自転車預か

 りに荷物を預ける。(最近は駅に荷物預かりがない)



   列車の接続時間を利用し、駅から走り出て走り戻り、

 再び列車で関へと急ぐ。



   福蔵寺には、誰よりも早く到着してしまった。



   夏祭と重なって法要の参列者が少ない。智子ちゃんの

 子たちがアメリカから里帰りしていて、参列者にまじっ

 ていた。



   墓参りを済ませてから、お寿司とビールの振る舞いが

 出る。法要は予定より早く終わった。



   だから計画では二時に辞去すべきところを、一時過ぎ

 にはもう裏からバスに乗って、亀山に向かう。以下すべ

 て予定より一時間早くなった。



   一時三十分、亀山から名古屋へ向かう電車に乗り、二

 時五十分、新幹線。五時三十分、由理と川崎で待ち合わ 

 せ、しばらくは日本料理とお別れになるかなと、駅前の ☆
P-4

☆ 「ふるさと料理」で一杯飲む。



   その前にトランクスのパンツ二枚とビデオ用乾電池を

 買う。由理のアパートで就寝。



 ■  七月二十三日  ■

 

  七時出発。京浜急行は雑色から蒲田、東京都内を潜っ

 て青砥へ。ここで京成に乗り換え、成田へと急ぐ。由理

 が見送ってくれた。



   航空券を受け取らねばならない。しかし、約束の場所

 である成田の南ウイングなんて、容易に表現できない広

 さの上に、人が多い。さらに困ったことに、私の航空券

 を携えているはずの人とは、面識もなければ名前も知ら

 ない。



   滑走路側には、団体の臨時カウンターが十か所ほどあ

 った。そこをアタックして「ネクサスメガトリップはど

 こですか」と尋ねて見るが、いずれも「さあ」と頼りな

 い。「シンガポール航空でヨーロッパへ行くんだけど」

 というと、シンガポール航空利用の団体ツアーが集合す

 るカウンターを教えてくれた。



   しかし、そこへ行っても「フリーの方なんでしょう?

 まだ、来てないんじゃないかしら」

   「ここへ来るんでしょうか」

   「ん、なんとも」といいながら彼女らも忙しい。



 (会社へ電話してやる)と、感情が高ぶってきたころ、

 無口な女子事務員が現われた。持っていた切符は、私た

 ちのだけだった。



   私は怒鳴らなかった。「どうなるかと思ったよ」

   「すみません」



   切符を細かく確認した。帰りの名古屋着は、その部分

 に紙(シール)が貼られて訂正してあった。



   搭乗券をもらい、荷物を渡す。タグをもらう。



   そういう搭乗前の手続きは割と簡単に済んで、ほっと

 一息すると、腹が減ってきた。



   レストランできつねそばを食べ、コーヒーで寛ぐ。



   出国。この場面、ビデオ録画。ここで由理と別れた。



   フライトは、十一時五十五分〜十七時三十五分とは言

 え、時差が一時間あるので、正味は七時間ほど飛んだこ

 とになる。機内食が胃袋に支え、早くも気分が悪い。特

 にケーキと紅茶が良くなかった。



   シンガポールのチャンギ国際空港。いよいよひとり旅

 の冒険がここに始まる。不安も好奇心も勇気もごちゃま

 ぜのまま飛行機から降り、空港ロビーに入り、分かった

 ような顔をしてトランジット(乗り継ぎ)の方へ進む。



   動く歩道(エスカレーター)が尽きるとすぐ、トラン

 ジットのチェック・カウンターがあって、大勢が並ん ☆ 
P-5
☆でいる。パスポートや荷物のタグなど提示してチェック

 インしなさいと表示されているから、ウチもするのかせ

 んでもええのか、不安になった。不安はそのままにして

 はいけない。もしも間違った行動をしたら次の飛行機に

 乗れず取り返しがつかない。ともかく確認しなければ、

 と心を決めた。



   私は次に乗る飛行機の搭乗券を示し、

   「Can I check-in here?」。



   すると「No need」 女性職員はごく事務的に言う。



   私は「そうか、要らんのか」と窓口を一度は離れたも

 のの、列を作り並ぶ大勢の人々を見て、また不安になっ

 たので、窓口を換えて「Check-in, please」とやった。



   「あなたは、必要ない。必要なのは他の線から乗り換

 えの人だけです」



   私はやっと納得した。「安心やさ、こんだけ確認しと

 いたら」



   私たちは二十一時四十五分のフライトの合図があるま

 で、ホール内の店を見回る。啓子は特に金細工の値段を

 確認する。



   私は、「How much?」、「A little longer one?」

 「No,this one」などと気楽なことばを連発する。通訳 

 気取りだ。もちろん、買わない。帰りに買うことがあれ

 ば、そのときの参考に、というわけ。



   中二階のレストランは、セルフサービス形式になって

 いた。春雨ふうのチャンポンとサラダか何かを取り、ビ

 ールを飲んだ。「When does this retaurant close?」   

 と尋ねる。帰路は長時間ここで過ごすからだ。「Don't 

 close. All  day long.  All night」とウエイトレスの

 おばさんが笑顔で教えてくれた。



   このトランジット、ホールには、荷物預かり(Baggage

  Left)やクリニックがあって、きれいで広いトイレを使

 い、ゆったりした気分になった。

                                                  

     21:45 Singapore --- 00:45 Dubai 01:55 ---      

     ---  06:00 Roma 07:00 --- Paris 08:55       

                                                  

   機内の席は、右端の窓際が啓子、ついで私。私の左は

 イタリア人の若い衆。前後に日本人はいない。さすが国

 際的だ。



   ドバイに降りて、一時間の給油。



   機外に出ると熱風がそよ吹いて、サウナに入ったと同

 じ感覚をもたらす。バスが私たちをトランジットロビー

 まで運ぶ。階下に降りたらそこが売店で、ここは金銀財

 宝を並べ立てたごとき観があった。



   やはりここでも値段を聞くばかりで、買わない。予定 

 にないからだ。                                     ☆
P-6

☆  集合時間まぎわになって、啓子はトイレに行きたいと

 言った。私は空港職員とトイレとの間をウロウロする。

 何度も放送が入り、何度も時間がないとせかされて、  

 「私の妻を待つんだが    」とわざわざ言い訳をして、

 改札ゲートの手前に立ち続ける。



   ほぼみんながバスに乗り込んでしまうと、私はじっと

 しておれなくなり、トイレの中へ走り込んで(なにしと

 んのや、いつまでも)と叫ぼうとした。そのとき警戒の

 軍人たちが、さも重大事が起こったかのように声を上げ

 て走り寄ってきた。「だめだ、そこは入れないんだ」



   私は、この国の人がオトコとオンナとを厳しく区別し

 て扱っていることを、数秒の後に理解した。



   機内で過ごす数時間は、いわば苦行だ。本当は眠るの

 が一番いい。次には何かに紛れているのがいい、映画を

 観るとか、日記をつけるとか。



   私は日記を書いた。



   一番いけないのが、眠らなければならないのに眠れな

 い、そんな内面の戦いを綿々と続けること。もし気分で

 も悪い時は、そこが地獄にさえ思える。普段は聞かない

 音楽を、イヤホーンで聴く。自分の感覚をゴマかすには

 クラシックがいい。外からの悪い刺激を遮る。



   ところで、オーディオに関心のない私にも分かったこ

 とがある。前回のスペイン・イタリー行きは、ブリティ

 ッシュ・エアウエイの飛行機だったが、イヤホーンの音

 響が悪かった。日本の安物のラジカセだって、少なくと

 ももっと澄んだ音楽を提供する。観光バスでも同じこと

 を感じた。



   今回のシンガポール航空は、それよりもさらに悪い。

 極端に言えば、フォルテ以上はすべて音が割れている。

 しかしそれでも船酔いや鼓膜への強烈なエアーコンディ

 ションの悪影響は半減する。そんな苦行に耐えてやっと

 ローマに近づく。



   隣の若い衆はローマで降りる。その直前に初めて話ら

 しい話をした。それまでは、私がウイスキーをスチュワ

 ードに注文して、その返事が不明でいらいらしていたと

 き「He is coming」と私に説明を呉れたりして、英語  

 のよく通じない東洋人に好意を示していたのだったが、

 話してみると、大変な訛りの英語であった。



   彼はイタリー人にしてオーストラリア人。父母はロー

 マに住む。いまごろは空港に出迎えに来ているはずだ、

 という。オーストラリアでは、国内航空の荷物積み込み

 の仕事をしている。二週間ほどのバカンスで里帰りをす

 るのだった。



   ローマ空港では乗客を機外に出さなかった。霧が濃か

 ったためか、離陸が遅れる。そして、濃い雲に覆われた

 フランスの上を飛ぶうち、ほんの一時、アルプスらしい ☆
P-7
☆とぎった山々を雲の間に見下ろす。



   パリ上空は晴れ。田舎も町も、森も川も実によく見え

 る。しかし、なかなか降下しなかった。同じ高度で旋回

 する。太陽の方向が変わる。さっき見た川が、森が、ま

 ためぐってくる。三十分余りもこれといった説明なしに

 旋回をし続けたあと、やっとロワッシーアエロポールに

 降りた。



   「御巣鷹山の時、操舵不能に陥ったけど、飛んどった

 んはあれで三十分やったんやに」と啓子が脈絡なしに言

 ったが、さきほどの旋回の中で不吉な連想を経験したと

 すれば、私もまったく同じだった。



 ■  七月  二十四日  ■



   さあパリ、いよいよパリ。身を引き締めて、空港内を

 進んでゆく。



   出国手続き。まるでよそ見をしている。その女性係官

 は愛想もない。



   荷物が出るのを待つ。これも不安で、果たして出るの

 か出ないのか、もし出なかったら、クレイムしに行くの

 に相手に分かるように言えるのか、など心配がいくつも

 頭の中を往き来する。しかし、その間にも二人で交替し  

 ながら、トイレを済ませた。                         ☆

Le carnet de note 携帯したカードのメモ.


    7/24 Tue     --- Paris(Charles De Gaulle)8:55

      ※          Roissy Aéroport --- Chatele ---

      Eurail-     -- St.Michel 

      Passここ       ※(Gar de Nord)マデ国鉄

      から使用     1.Reconfarm 2.宿探し 3.荷物預け 

                                    ※Hotelは

     空港--無料バス --                P168〜特に

                      |               P177右下

   Gare de      Roissy Aéroport駅     P178

   Roissy             |

    Aéroport          |

                      RER --- Gare de Nord           ☆

                               |                        

  P-8

                               |                     

☆    Puis-je aller          METRO -- St.Michel     

      la Gare de Roissy                            

      Aéroport par ce                              

      autobus?           Puis-je aller à St.-      

                         Michel avec ce billet?    

                                                  

                             At the front          

     Je voudrais aller                             

     St.Michel avec ce       I'd like a double       

     billet.Veiulez          room with a bath.       

     vérifier?確かめて     Je voudrais une         

                          chambre pour doux       

                          avec salle de bains.    

                                                  

      Y a-t-il l'air conditionée ?                  

                                                  

      Quel est le prix par nuit                     

                          avec petit déjeuner?     

                                                  

     ※  ここには必要と思われる会話を書いておいた。
                                                 

☆ 旅行中のトイレは面倒だ。肌身離さず身につけるべき

 ものが多々ある。

    今回私は腰に袋を巻きつけ、その中にはパスポートと

  フランが約三十万円分。ズボンの外にはウエストバッグ

  を掛け、これには航空券、ユーレイルパス、メモ帳、老

  眼鏡、ペンに磁石。また上記の会話もカードに書いて、

  困った時には出せるようにしてある。

    こんな腰のものを外して扉の服掛けに掛け、それから

  便座に座る。用足しの最中も外の物音に細心の注意を払

  い、こんなところで暴漢なんかに襲われてなるものか、

  と緊張する。



   半時間も経ってからだったろうか、やっと荷物が出て

 きた。それをキャスターに載せてひきずりながら外に出

 る。出迎えの人達が鉄柵からあふれて身を乗り出してい

 る。そのすき間から出た(フランスに入国した)が、検

 問の気配すらない。



   (こんなに簡単なことなら、ルネさんに盆栽をもって

 きてあげるだったに)

    という思いがちょこっと頭の中をかすめた。



   さて、何よりもまずしておかねばならぬこと、それは

 「リコンファーム」というやつである。飛行機の搭乗は

 七十二時間以上前に、確かに○月○日の第○便に乗りま

 す、と確認を取る習わしになっている。そして、そのた

 めのシンガーポル航空の事務所の電話番号も予め教えて

 もらってはあるが、この広いパリでは探すのも大変、行

 くのも大変、電話の掛け方だってわからない。掛かって

 も言葉が通じるかどうか。



   そんなことを考えると、この空港でシンガポール航空

 の事務所を見つけてリコンファームしておくのがいちば

 んと思われる。だから、まず私たちはそれを探す。



   到着の階には、インフォーメイションや日本航空、エ

 ール・フランスのロビーが目につくばかりで、目当ての ☆
P-9

☆ものはない。インフォーメイションには人がたかり、日

  本航空は今留守だったので、エール・フランスへまず胆

  試しと、



 「ウエッル、ビュロー、デゥ、シンガポール・エール?」



    右側の若い男が、「ジュ、ヌ、セ、パ(分からない)

  --- 」とすげない。



    まあ、全部まわって探すか、と思う間もなく、左の中

  年の男が、英語で,

 「 ---  あちらから階下(した)へ降りて、二十四番へ

  行ってください」という。



   「Down stairs?」  「Yes」  おおきにありがとう、と嬉 

 し げに歩きだす。なぜって、まず人の好意が嬉しい、 

 次いで、通じたことが嬉しいのだ。



   ドゴール空港は円形をなしていて、エレベーターで階

 下に降り、ゲートナンバーを数えながら歩くと、もう半

 周以上もしたような錯覚に陥る。だから啓子は「逆周り

 をしたほうがええのやない?」なんて余計なことを言っ

 たりする。そんなことよりただ黙々と大事なことを実行

 するんだ。



   そして、やっと事務所を見つけた。表示にもそう書い

 てある。ところが誰もいないのだ。「待とうか」私たち

 はそこに荷物をもたせ掛けて、人の現われるのを待つ。

 たぶん何かの小用で席を外しているのに違いないから。



   ところが、現われない。これは「小用」ではない、と

 思える程の時間が過ぎて、難儀なことだが、改めて電話

 か、それとも出かけ直すかしてリコンファームをしなけ

 りゃならん、と覚悟を決めた。



   再び私たちは階上へあがった。予定の第二番目の仕事

 は、ここから「無料のバス」で、国鉄・ロワッシーエア

 ポール駅まで行き、そこからユーレイルパスでパリ・北

 駅(ガル・デュ・ノール)まで乗る。そこで一度降りて

 そこからはメトロでサン・ミッシェルまで行く。



   これをどこかで尋ね、確かめ、実行せねばならない。

 しかし、その事に当たるのは、何たる孤独感、何たる勇

 気の喚起。

   エールフランスのバスが発着するらしい出口の傍に、

 机一つを置くカウンターに男が一人いて、私はこの人に

 「ロワッシーエアポール駅」への行き方を問うことにし

 た。すると、幸運なことに、この人はSNCF(国鉄)

 の窓口職員だったのである。嬉しかった。



   ユーレイル・パスにチェックインをして貰いながら、

   「サン・ミッシェルまで、この切符で行ける?(Puis- 

 je aller a SaintーMichel avec ce billet?)」と問いか

 けると、「モマン」と当惑ぎみに言うので、

 (どうしたの?)

  と一瞬思ったが、彼は指折り数えて十五日間通用のパス

  に「七月二十四日〜八月七日」と書き込もうとしていて、

  ほかごとに考えが回らない、と言っているのだった。  ☆
P-10

☆  黄色い切符を二枚、「これで降りなさい」と呉れた。

 「いくらですか」「いらない」「バスは」「すぐそこの

 右、十八番乗り場」



   気持ちよくスムーズに事は捗った。いい気分だ。



   ウエストバッグに切符を収めた私は(これでよし)と

 つぶやきながら、「もういっぺん念のためシンガポール

 航空を見てくるか」と啓子に言う。



   大きな荷物のキャスターを引きずり、リュックサック

 を背負ってエレベーター前に立ち、やっと入るときに、

 親切にも男の二人連れが私たちに場所を空けて、奥のコ

 ーナーに導いた。「サンキュー」と壁に向き合っていた

 体を表に向ける。向かい合う親切男は背広を脱いで手に

 持っている。



    数秒後、なにか気配するものがあって、私は自分の腰

  元に目をやった。すると背広を持つ手の指が背広に隠れ、

  しかし指先は器用に覗いて、私のウエストバッグに近づ

  いていた。ウエストバッグは、そのチャックが、四セン

  チ余り開かれてあった。



 (クソッ、このヤロー)私は大げさな身振りでチャック

  を閉め直した。エレベーターは一階下がるだけだから、

  すぐ着く。



   男はどうしてか、私の意識からすぐに消えた。



 「おい、今の奴、スリやぜ」私の興奮は覚めない。

  「まさか、そんなこと思とったらみんなドロボウにな

 るやん」啓子は信じない。むしろ疑り深い私を非難しよ

 うとしている。



   私は断固、あの男をスリだと信じている。人すべてを

 疑っているのではない。人をよく見て、その上で善人か

 悪人を見分けることが大切なんだ。



   シンガポール航空は、しかし、またもや誰もいなかっ

 た。そして、日本人の団体が、およそ二十人、このカウ

 ンターで用があるらしく、立ったままで待っていた。尋

 ねると、あてもなく待っているのだという。その辺をウ

 ロウロしながら、私たちも待ったが、どうも時間の浪費

 になる気がして、また階上にあがった。



   そこにスナックがあって、私はパンツの中から百フラ

 ン札を取り出し、ビール二杯を買った。機内食の残りの

 パンを食べる。これは朝めしか昼めしか、何でもいい、

 腹に入れて、さあバスに乗ろうと歩きかけて、念のため

 もう一度と、階下のシンガポール事務所を覗いた。



   係はもちろん、さきほど待っていた団体も、もう姿を

 消してしまっていた。



   この会社の無責任体制に腹が立った。



   バスは、乗ったらすぐにぶっ飛ばしはじめた。自分の

 立つのがやっとだから、荷物を管理できない。一緒にふ

 らつく西洋人娘に、「まるで荷物並みだね」と言い、笑 ☆

 いあった。
P-11

☆  五分程度で駅に着く。RERと呼ばれる高速地下鉄が、 

 メトロとは別に最近作られている。パリ市内は、国鉄の

 敷設した部分と営団の敷設した部分とが混在している。

 郊外はすべてSNCF(国鉄)だから、ユーレイルパスで乗

 れる。乗るのはいいが、降りるときは営団かメトロの駅

 だから、出るための切符がない。



   パリ市内はすべて無人改札だから、出られないのだ。

 これがややこしい。市内から郊外に出るときも、ユーレ

 イルパスを見せながら出るときのためのタダ切符をもら

 わねばならぬ。しかし、これも行く先によってはもらえ

 ないところがあったり、空港からサンミッシェルへはタ

 ダで行ったが、サンミッシェルから空港へは、切符を買

 わされた、というようなよく理解できない乗り物事情で

 あった。



   地下ホームに憩うRERの車体には、威厳があった。 ま

 るでTGVみたいだと、そのときは思った。しかし、横か 

 ら見ると落書きが目につく。メトロと同じなのだ。



   大きな荷物が座席を占領するのを気にしながら座る。

 斜め前に中年おばさんが座ったのは二、三の駅を過ぎて

 からであったろうか、それまでに私は車内や沿線の風景

 をビデオに収めている。



   車両の中央でいきなり演説が始まった。流暢な言葉は

 私にはほとんど聞き取れないが、熱心な演説であること

 はわかる。途中、われわれ陸軍の経験者は    などと言

 うので、報われないもののカンパ活動か、と思い、斜め

 の中年婦人を見る。この婦人、乗った時から異国人に関

 心ありげな目つきで私たちに視線を注ぐ。



   私もフランス語の、いわばウオーミング、アップとし

 て何か話したく思っていたので、「Que est ce qu'il 

 demande ?(彼、何がほしいの)」と言うと、婦人の口 

 からは、溜まっていたように言葉が押し出されてきた。

 理解できないところも多々ありながら雰囲気で補って翻

 訳しよう。



  「----- 言ってることと違うの。あれはご飯を食べるた

 めなの。人前であんなこと言って、特に、日本人なんか

 いると必ずあんなことするのよ。とりあわなくていいの

 よ -----」



   要するに「演説乞食」なんだ。

   やがて演説を終えた男は、カンパを求めて車内を一巡

 したが、なぜか私たちには手を差し出さなかった。



   婦人は「パリは初めて?」と聞いた。

  「いいえ、前に一度」「そう、ホテルは?」「まだ、

 これから」「ベルサイユは?」「ええ、行くつもり」



   婦人の表情は急にはずんで、「あそこはゼッタイにい

 いわ。ぜひ、行くべきよ」と感動してみせた。

  「サンミッシェルからRERで行くの?」「ウーンと、  ☆
P-12

☆そうね、いけるわ。ウン、いけるわ、私、前に行ったか

 ら」



   心もとない返事であった。私の事前調査では、RERで 

 も行けるし、モンパルナスから列車でも行ける。



   ただ、RERの方がその終点であることや、駅が宮殿の 

 門 に近いから行きやすい、と記されてあった。     



   私のすぐ横にはまじめそうな三十男が座っていたが、

 ポケットから鉄道路線図を出して眺め始めた。よく東京

 などで見かけるあの細かい鉄道路線図、地下鉄系統図と

 そっくりだ。



  「モンパルナス駅からも行けるの?」と言ったわたし

 の言葉は罪作りだった。たぶん「からも」の「も」なん

 かは、私の貧弱な言語には入っていなかったのだろう。

 続いて男、「ああ、いけるね」とやったもんだから、女

 はいきなり、「ダメッ、それはだめよ。RERでないとだ 

 めッ」と男に叱るように言い放った。

    男は路線図を示しながら「モンパルナスから-----」

 「いけないわ。私、この私、自分で行ったんだから、

  RERで」(余計なことは言わないでほしいわ)

    女は男を語勢で黙らせてしまった。



    男は不満そうにうつむいた。

   女は立って、「今度がシャトレット、その次がサンミ

 ッシェルよ」と言って扉に近づいていった。列車が止ま

 ると、もう一度傍まできて「次よ」と親が子に諭すよう

 に言った。



   この女、気性の激しい人らしく、会話のなかで「停車

 場」を私が「l'arret」を使ったら「l'arretなんかじゃ

 ないわ、stationよ」(断じてスタシオンよ)とわざわ 

 ざ言い張った。「停車場」と「駅」とがそんなに重大な

 意味の差異を有しているとは気付かなんだ。



   女が降りた後、私はうなだれた男に同情の念を禁じえ

 ず、何か声をかけた。男は、「ここはパリのちょうど真

 ん中なんです」と、真面目男らしく物理的な観光案内を

 私に施した。



   私は「Merci beaucoup」と謝して荷物をすべて抱え上

 げ、早めに扉に近づき、サンミッシェルに降りた。



   出口について考えなかったので、斜めに上る地下道を

 長々と歩いて、何でもない道に出てしまった。



   宿探しの計画は、橋の袂のサンミッシェル広場から出

 発することになっている。私は磁石を出してセ−ヌの方

 角を調べた。



   安宿探しの地図は、何日間もガイドブックを調べては

 作った。それを、いま手に握り、町の実態と合わせて歩

 き始めている。地図にはホテル名と候補順位が記入して

 ある。そして、それに従い順に交渉することになってい

 る。



   川沿いの道をほんの少し下って路地に入ると、そこが ☆
P-13

☆第一候補の Delly's Hotel だ。入り口正面は通路になっ 

 てすぐ左側に物置様のフロントがあった。



  「どうしょう、ここ、聞くか」と二人が顔を見合わせ

 るうちに、黒人のアベックが私たちの隙をすり抜けてフ

 ロントに入った。二言三言交わした後で、「--- ダコ−

 ル」とオーケーし、二人は奥へ消えて行く。(連れ込み

 宿じゃないか)と思う。



  「Avez vous des chambres?」と私。

  「Oui」「Avec salle de vain?」「Non,la douche   

 et les toilettes sont publiques」

  「部屋、あるけど、風呂もトイレも共同やちゅうとる

 ぜえ、やめとこ」



   次の順位、Hotel St.Michel は、かなり感じのよいフ

 ロントだったが、フロント番の長電話が終わるのを待っ

 て「部屋、ある?」と言うと、「今日は、一つもない」

 (今日は)が強調されたから明日はあるということか。



   三番目の順位へ行く途中にホテルがあった。聞いてみ

 ようか、と気軽に「部屋ある?」とフロントのおじさん

 に声をかけると、「あるよ」。「風呂は?」「ついてる

 よ」「二人部屋?」「もちろん」「で、いくら」「394 

 フラン」



   一万円少々だ。そう高くもない。

  「おまえ、部屋見ておいで ---   Puis-je la voir?」

  「A,oui. ---  voi-la」と鍵を渡してくれる。



  啓子は二階へ消え、ややあって「風呂がな、ちょっと

 小さいわ。部屋はきれいやけど」



  「妻はもっと大きい風呂を望んでいる(これはフラン

 ス語)」と私。



  「ア、ウイ」と次に渡された鍵が505。



   私たちはこの部屋に四晩泊まることにした。部屋はビ

 デオに撮影されている。



   さて、部屋に落ち着いてから、再び町に出る。川沿い

 を少し下ると、Pont Neuf(ポン・ヌフ=橋の名前)。 

 これを渡ったら、マガザン(百貨店)があった。入ると



  すぐが貴金属売り場。べらぼうに安い。そしてそこに

 売り子もいない。「これ、おもちゃか安物やぜ」。



   ここの屋上に上がってパリ全体を眺めた。



   西南の方角にはエッフェル塔が見え、次第に右に視線

 を巡らすと、シャンゼリゼが、北寄りには丘が膨れ、そ

 の真上にサクレクールが、はっきりと遠望された。



   再びエッフェル塔から左に見ると、すぐモンパルナス

 の高いビルが、そしてほぼ東にはポンピドウ、センター

 があった。ヴィデオに収めた。



   帰る道すがら人が物を食うので、釣られるように入っ

 たのがレストラン。ビールを前にポテトチップや貝を食

 う。                        ☆
P-14

☆  ボーイに「ポテト、チップ」と言うと、「え?」とい

 う表情。そうか、フランス語だ、と「ポンムドテル、フ

 リ」。すると「フライ」というところに印をつけ、「飲

 み物は?」という。「ビールだ」「どんな」「この一番

 上のだ」とメニュの最初を指で示す。



   出てきたポテトチップスは、皿に紙を敷き丼に三杯も

 あろうかと思われる量だった。



  「どうする、こんなに」と私が言うと、

  「ええの、みんな食べたる」と啓子。早くも塩を掛け

 ている。出てきたビールは、こんなビールは初めて、と

 いうような味がした。酸い。そして匂いがある。ちょう

 ど漬かりすぎの漬物の匂い、そして癖のある酸っぱさ。

 飲むうちに漬物の懐かしさが思いのほかに口と心になじ

 んで、ポテトチップスも食べビールもおいしく胃に入っ

 てゆく。お代りをする。



   別の席では、老夫婦がムール貝を食べていた。啓子は

 盛んに観察をして「あれみ、よめさんの方がほとんど、

 貝、食べてしもたに。----- ワインもな、だんなさんの

 分まで、奥さん、飲んどる」



   男は快く老い、女はまだ若さをかなり残している。男

 の思いやりが食卓をそのようにするのだろう。こんどこ

 こへ来たら、ムール貝を食べようと言い合った。



   シテ島で、Palais de Justiceとある前を通る。最高 

 裁判所だ。観光客が写真を撮っていたが、後日(八月五

 日か六日)には、ここで抗議するデモの人がいた。静か

 で良識ある意思表示であったから、デモ「隊」とは書か

 ない。



   この真夏なのに、このあたりはプラタナスが繁り、歩

 道をほとんど影にするので、肌が寒い。「疲れとるで早

 よ寝よか」と言いながら、宿へと歩を進める。



   ほぼ五時であった。やはり気になるのはreconfarm が

 まだしてないことだ。もしも帰りの飛行機がなかったら

 ヨーロッパの迷子になってしまう。私は電話をすること

 にした。



   電話の掛け方を近くの店で聞くと、コインででは駄目

 で、カードだという。「どこで売っている?」「タバコ

 屋」と教えられ、近くのタバコで求めると、



  「大きいのか、小さいのか」と聞かれてたので、わから

  ぬまま「小さいの」と答えた。



   そのカードを、人が使うらしいところへ何度突っ込ん

 でも、なにかがダメと意味するような表示が出て、通話

 にならなかった。三度も失敗した直後、後ろから「ここ

 はお金のカードよ」と教えてくれた女性があった。



   キャッシュカードを入れるとこだった。



   でも、さほど恥ずかしいとも思わずに、

 「じゃ、テレフォンはどこ?」と聞くと、             ☆
P-15

☆「通りにあるの」と教えてもらって、「メルシー,ボー

 クー」とやったが、田舎もの、無知 ---。思い出すだけ

 でも恥ずかしい。



   サンジェルマンの大通りの電話ボックスで初めてフラ

 ンスの電話を掛けた。



   まずカードを突っ込んでから、カードボックスの蓋を

 するようになっている。このコツ=タイミングがきわめ

 て難しい。



   うまくその蓋ができ、やっとダイヤルを回すと、

 「 ---  いまは使われていないから、○○----○○番へ

  ---」とテープの録音が続く。番号をメモしようか、と

 も思ったが、聞いて考えるうちに次の番号を言い続けて

 いってしまうに違いないから、やめた。



   シンガポール航空の事務所の電話番号が変更されてい

 たのだった。                                      



   翌朝、ホテルのおばさんに、

  「シンガポール航空の事務所を調べてこの地図に書き

 込んでほしい」と言うと、まず

  「日本航空でしょう」と言われた。

  「いや、ちがうんです」

  「電話で言えば」

  「行かなきゃならんのです」

   やっと納得して電話帳を繰って、ここです、と地図に

 印を入れてくれた。



 ■  七月  二十五日  ■

         

      7/25    St.Michel --- Victor Hugo

             Singapore Airline 事務所 ---

     Wed     Musee d'Orsay ---

             Musee de l'Orangerie des Tuilerie ---

             Basilique de Sacr  Coeur



    ※ 地下鉄のTuilerie駅を出るとすぐSelf.Tuilerie

  ( レストラン)  



   朝飯は「ボンジュール」の挨拶のあと「キャッフェ?

 チイ?」から始まる。



   ホテル代の中には、朝食代が二十フラン(約六百円)

 も含まれているが、その内容はクロワッサン二つ、固い

 フランスパン二切れ、そして私は紅茶とミルク、啓子は

 キャフェオレ、これが全部。



   私たちは、ここの国の習慣からは奇異に見えたかも知

 れないが、果物を食堂に持ち込み、むいで食べた。フラ

 ンス式の朝ご飯では一日の行動のエネルギーに足りなく ☆
P-16

☆思えたからだ。



   だから、ネクタリン、赤梅、桑の実、西洋梨等々と、

 前日にスーパーマーケットで買ったものを「私の国の習

 慣です」という顔をして食べた。いい朝ご飯になった。



   パリの地図には、フロントのおばさんがつけた○印が

 ある。それを見ながら尋ねたビクトルユーゴ・エトワー

 ルは、比較的落ち着いた感じの町であった。真ん中に噴

 水を吹き上げている。



   そこから三、四百メートル歩くと、右側に航空会社の

 マークが見えてきた。何でもない事務所、しかし閑静な

 場所に、受け付け嬢を含めて四人がいた。



   先客一人がカウンターで静かに話す。後ろでそれが終

 わるのを待つ間に、主任格のヒゲ男、私を誘ってカウン

 ターに寄せた。



  「リコンファーム、プリーズ」と言いながら、航空券

 を差し出す。するとヒゲ男は大きな帳簿を見て、そこに

 何やら書き込みながら「八月七日、午前九時二十分、二

 十四番でチェックインしてください」と言う。



   このとき私は二つのことが気にかかっていた。一つは

 成田へではなく名古屋へ行けるか、ということ。も一つ

 は荷物がシンガポールで向こうの責任で積み替えられる

 か、この二つはどうしても確認したいと思った。



  「すみませんが、荷物はシンガポールで外へ出るので

 すか、それともダイレクトに名古屋へ行きますか」

  「ダイレクトに名古屋、です。ノー、プロブレムです

 よ。どうぞこの時間に空港へ行ってください」

  「わかりました。チェックインすればいいのですね」

  「はい」



   実に良好。胸がすく。嬉しくなった。

  「トイレ、借りるか」と啓子に言って、

  「Could I use toilettes?」気持ちは敬語になった。

  「Downstairs,right side」



   トイレには「女子用」としか表示されてなかったが、

 清潔で、ますます気持ちよかった。(このあとビデオ)



   その軽やいだ気持ちのままオルセー美術館へ行く。

   (Victor Hugo ---  Charles de Gaulle Etoir ---      

 Concorde ---  Solf rino)とメトロを乗り継いで、美術

 館に着く。



   外観はハイカラ建造物で、鑑賞客も多い。しかし、コ

 レクションはいまいちだった。もちろん素晴しいものば

 かりだが、特徴がない。印象に残りにくい。網羅的で、

 教科書を形にしたようだった。



   外はすぐセーヌ川、昼の日差しの下を涼しい川風が吹

 いている。プラタナスのちぎれ葉が青いまま乾いて靴の

 下で鳴る道をほんの少し下ると、ソルフェリノ歩道橋が

 ある。たぶんこれは太い水道が川を渡っている上を通れ ☆
P-17

☆るようにしたものに違いない。近づくまで橋とは思えな

 かったし、その幅も約二メートルで、折しも補修工事を

 していたが、その部分、私は板を踏み折らないように用

 心して「そっと」歩いてしまった。



   渡り切って道路の下をくぐると、そこは一面のプラタ

 ナスの木の下陰。やや腰を屈めると、樹木の並木が尽き

 る辺りは道も人も小さく見え、その広さがわかる。



   これがチュイルリー公園である。凱旋門からコンコル

 ド広場へと一直線にシャンゼリゼが通り、そのまま進め

 ばこのチュイルリー公園の真ん中を抜け、古い凱旋門を

 抜けてカルーゼル広場、ルーブルに至る。そういう位置

 関係にある。



   私たちがこの公園へ来たのは、ガイドブックに「セル

 フ、チュイルリー」が紹介されていたからであった。自

 分の口にあうものだけ取って、その支払いをする。そう

 いう気楽さを求めて、この食堂があるはずの場所を二度

 も歩いた。



   辺りにレストランはいくつもあった。しかしセルフ式

 のは一つ。しかも「セルフ、チュイルリー」という店名

 ではない。



   目当ての店を見つけかねて、私たちはここに入った。

   サラダ、ビフテキにポテト、肉の煮物をゼリーで閉じ

 たもの、米のいためもの、ビールにワイン。もっと取っ

 たに違いないが忘れてしまった。約百二十フラン。



   豪華な食事だった。口に異物感は否めないものの、満

 足感も大きい。途中から相席にこの食堂のおばさんみた

 いな人がきて、ゆでたじゃがいもなんかを食べる。何か

 の拍子に会話がはじまった。



  「日本人は、そんなので食事なの?」



   これで何がいけないのかなあ、と自分の皿の中を見回

 すが、分からない。強いて言えば、ドレッシングをかけ

 ないで塩とか酢などをかけている。



  「あなたは、日本人、好きなの?」

   不服そうなおばさんの顔に、私は反日感情でもあるの

 かと、質した。すると、返事は、私のことばの不足の故

 か、さきほどの文脈の上に立ってか、こうだった。

  「好きもきらいも言えないほど、日本人が食堂を始め

 てるよ。日本人のレストランが、まあまあこんなに(手

 を広げて)増えづめだもん」



   おばさんの頭のなかは単純、食い物の話題だけであっ

 たようだ。



   さて、次の仕事はオランジェリー美術館。



   今回の旅行でこんなに美術館が多いのは、啓子の希望

 によるものである。私は逆らわずに啓子の希望通りに予

 定を組んでいる。



   オランジェリーには、モネの「睡蓮」がある。彼は池 ☆
P-18

☆に睡蓮を植え、ひたすらその雰囲気を生き写しにした。

 絵がまた大きい。映画館のワイドスクリーンよりも、そ

 の横幅は広い。そういう絵が、六枚もあった。ビデオは

 それを丹念に収録する。



   あたりの雰囲気にちょっと変なものが感じられて、時

 計を見ると、五時。閉館のため係員が観客をせかす。玄

 関では、絵葉書やパンフレットを求める人が、ごった返

 していた。啓子も何か一つ買おうとその混雑に紛れ込ん

 でいる。



   階段の半ばから「時間です、早く出て下さい」と繰り

 返す「公務員」の「心理」を、私は憶測しながらビデオ

 を操っていた。



   啓子は諦め、五時十分、玄関は閉められた。

  「どうする、これから」ここパリでは、この時刻、ま

 だ一日の仕事を締めくくるには早すぎるのだ。

  「モンマルトルへ行こうか」そうすれば八時ごろまで

 時間は使える。



   メトロのAnversを出て、狭い坂道を上るとき、ふと見

 上げると、あの清楚にそびえるサクレクールがあった。



   私は思わず立ち止まって

  「おい、あれ見い。ええ眺めやなあ」空は秋空以上に

 青く、寺院は白衣よりも白い。そしてそのまろやかさ。



   下町ふうの商店が空間を両脇からうまくカットするの

 で、さながら一幅の生の絵。私は立ち止まってカメラを

 回す。



   通りを抜けると眼前は公園で、秘宝「サクレクール」

 の覆いを今外したところ、と言わんばかりの光景だ。そ

 のまま近づくのが惜しまれて、私たちは真ん下の喫茶店

 に入り、この光景を存分に味わうことにした。トイレも

 借りたかったし。



   アイスクリーム一つ買うにもコミュニケーションを楽

 しむ。バニラでいちご、出てくるまで通じたのやら通じ

 なかったのやらわからない。



   芝生の上にメリーゴーランドが回るそのずっと上まで

 すきなく「芸術品」として出来ているサクレクールの姿

 に満足しながら、コーヒーをすすった。この国でコーヒ

 ーと言うと、エスプレッソに近い。私はあまり好かない

 が景色がいいのとトイレ賃だと思えば何ともない。



   トイレが済んだら、さあ、この丘を上ってテルトル広

 場へ行くのだ。



   公園ではスズメを寄せるおじさんがいて、観光客の子

 供に方法を伝授していた。



   テルトル広場は、サクレクールの裏手、つまりモンマ

 ルトルの丘のほぼ頂上にある。小さな小学校の校庭ぐら

 いの広っぱに、本来ならまだ無名の画家がキャンバスを

 広げて絵を描く。                  ☆
P-19

☆  ここを訪れるのは三回めになるが、初回はそのような

 感じが漂っていた。十年を少し過ぎる昔だ。けれど今は

 そうは思えない。いずれも観光客目当ての商売をしてい

 る。



   啓子はサクレクール寺院の入った町の風景画を四百フ

 ランに値切って買った。私は類型的だと感じた。特に町

 を歩く人の脚が、わざと細く、しかもそれを強調する影

 まで、どれも同じだったからだ。



   日差しはまだ暑いが、もう七時になろうとしていた。

 サクレクールを北側から回ってメトロへもどったが、さ

 びれた人気の少ない町は、あまり気持ちよくなかった。

 落書きやゴミ、異国からの流入びとに出会うと、心がこ

 わばってしまう。二十分も歩いて、やっとさきほどの喫

 茶店の前に戻って、ほっとする。



   メトロの車中で黒人婦人ふたりと向かい合わせる。話

 しかけてきた。



   最初「奥さんのネックレースが美しい」と言うから、

  「メルシイ」。

   すると「これをしてはいけない」と顔をしかめる。

  「どうして?」

  「ひっぱって首をしめられる」

   しかし黒人婦人の片方はもっと立派なのを首に巻いて

 るじゃないの。

  「日本人はいけないのよ。よく盗られるわ」



   私は不合理に思いながらもスナオに感謝した。そして

 改めて、物陰から殺意に満ちた誰かの眼線を感じて、体

 がこわばった。腰に巻いたフランとパスポート、ウエス

 トバッグのトラベラーズチェック、航空券、ユーレイル

 パス。それぞれに緊張した神経の先端が届いている。啓

 子のバッグも右手が添えられている。私は静かに首をも

 たげ、回りの人々を見回した、警戒心に溢れた目で。



   サンミッシェルには、いろんな芸がある。この日、メ

 トロから町に上がると、高校生くらいの三人がヴァイオ

 リンとホルン、トランペットのトリオで奏でていた。ワ

 インに酔った中年男が、勝手にその前で指揮者を演じて

 いた。トリオはさほどうまくもないが、悪くもない。警

 官の現われるまでしばし、クラシックは演奏された。



   宿の近くでは七人ほどの若人が、デキシーランドを奏

 で始めた。ヴォーカルも塩辛声で歌う。日本でならテレ

 ビ出演も可能なくらいの腕前をもっている。そんな賑わ

 いの町を、どこで食べようか、と私たちはうろつく。



   通りに椅子を競りだしたレストランや、大きく肉片の

 集塊をぶらさげ、逆三角に削り下げて展示するアラブ風

 の店もある。サンドイッチ屋なのだが、サラダやポテト

 やパンなどと併せて、スナックを売る。一度だけ入った

 が、アラブ系の店主は、「これは上等のラム肉だよ」と ☆
P-90

☆得意げに言った。



   夜は更けていかず、九時半を過ぎても明るい。そして

 このころ、町は時をエンジョイする人で溢れる。いつま

 でその賑わいが続くのか、確かめることもできない。私

 たちは疲れているから宿に入る。そして、午前二時、ま

 どろみの中で雑踏のざわめきを聞く。                 



   六時、清掃車の騒音を窓下の通りに聞く。

                                                  

 ■  七月  二十六日  ■ 

                                                  

   7/26    オステルリッツ駅(列車座席の予約、ルネさ

           んへ電話)--- ロダン博物館 ---- パリ三越

   Thu       --- オペラ座 --- ノートルダム 



   旅行が冒険の側面を持つことは私の望むところだ。だ

 から常に不安が先行し、その解決に向かって絶えざる努

 力、工夫、勇気を必要とする。



   ルネさんを訪問し、南仏、イタリーの旅に出るには、

 その前にして置かなければならないことがあった。



   列車の予約、ルネさんへの電話、いずれも私の人生で

 初めての仕事である。



   サンミッシェルからオステルリッツ駅へは、RERで一 

 駅。メトロの一隅にあるSNCF窓口で通過券をもらう。こ

 の日、その窓口に人が並んでいた。見ると何十枚もの切

 符を一人の女性が買っているのだった。団体切符がない

 から何十人かが並んでいるのと同じことになる。後ろに

 並ぶ人はアメリカ人が多かった。



   オステルリッツ駅では、行った時間が悪かった。翌々

 日乗る列車の発車時刻よりやや遅い時刻に窓口を覗いた

 からだ。



  「Too late」とやられた。私ははじめ(もう予約は遅

 い)という意味かと思い、引き下がったが、この時刻の

 ことに気付き、再び窓口に行って、                   

  「Not today.The day after tomorrow」とユ−レイル

 パスを示しながら訴える。窓口は笑顔で、リザーブなら

 向こうだ、と奥の部屋を示してくれた。



   まず順番カードを渡し、番号で相談(リザーブ)カウ

 ンターを決める方式だ。



   中年職員がコンピューターを前にして「?」と表情を

 向ける。「Reservation please」と列車を示すカードを

 出して読んでもらった。予め作っておいたものだ。



   しかし、男はなかなか頭を縦に振らなかった。本を出

 して調べ始め、「そんな列車はない」と言う。

  「時刻表で見たんだ」とがんばると「Angoulemeまでだ」☆
P-21

☆だ」と言った。しかも予定より出発時刻が早い。



   次いで「ニースからナポリの寝台を取りたい」と言う

 と、また本を広げて、

  「そんな列車はない」とわざわざ私に見せた。

   私は諦めて、現地に近いところでまた当たるわさ、と

 考えた。



   もう一つある。ルネさんへの電話だ。構内に電話室が

 あって、そこへ入ると、十ほどの電話がある。電話カー

 ドを差し込んで何度も試みるが、いっこうに様にならな

 い。すると大男の職員が、窓口から身を乗り出して、

  「どこまでかけるんだ」と言う。

  「A Royan」                                      

  「そりゃだめ。もっと大きいカードを買わなきゃ」

  「いくら?」

  「*****」約五百円位だったか、FRANCEじゅうど

 こでも通用、と書かれたFRANCE TELECOMなるカードをも

 らった。「50 UNIT」とある。私は再びあのややこしい 

 フランス式のカード電話に挑戦する。



   カードを入れたらカバーを下ろし、ナンバーをーーー

 でもまたもや掛からないのだ。

  私の傍らに一人職員がきて、

  「番号を見せろ」と言う。

  「町の番号を回さないとダメ」と、ルネさんの番号の頭

 に「16」と書き加えた。そして、私がダイヤルするのを

 助けて、それでやっと通じた。



   電話口に出たのは女の声だった。          ☆



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