背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             

















 

P-21

☆ ( 電話口に出たのは女の声だった。)



   私はあらんかぎりの力で、叫んだ。

  「アロー、セ、ヤブノ!。ジュ、レスト、ア、パリ。

 ジュ、アリブレ、ラバ、アプレ、ドゥマン」



   電話の向こうでは女の声が何かフランス語をしゃべっ

 た。そして、そのすきに何かを「探す」と言った。理解

 できずに私がもたつく間に、声が男に替わって、

  「オオ、ユタカ!」



   初めて聞くルネさんの肉声だった。私は胸が高鳴り、

 ほとんど気持ちは上の空になってしまった。



  「ジュ、シュイ、ア、パリ、モーテノン。    ジュ、

 ヴドレ、ザレ、アプレ、ドゥマン」

  「ア、ウイ」



   ア、ウイだって。通じた、ルネさんに通じた。私のフ

 ランス語が役に立った。で、私は喜びに勢いづいて、

  「コマン、バ、ボトル、マラディー?」

  「アーアー、よく、なりました」

   よくなりました、は日本語だった。

  「おお、よかったですね、      トレ、ビヤン。ア、

 ジュ、フィニ、テレフォン?」



   ともかく一生懸命に喚いていた。啓子が言うに、大変

 な大声だったそうだ。                ☆
P-22

☆  電話室をでるとき、さっきカードを売った大男が、親

 指をこちら向きに立ててにこやかに目配せした。

 (うまくいったね)と言っていた。嬉しかった。

  「メルシイ、ボークー」



   私は大声で係の人に挨拶し、出た。(やったぜ、とう

 とう)不思議な感動だった。数分間は涙しそうで、もの

 が言えず、ロッカールームや待合室の付近を訳もなく歩

 いた。



 (やった。通じた。ルネさんは待っている。あさって行

 けばいいんだ)そんな思いが連続して、いつまでも込み

 上げるように胸から喉元を揺すっていた。



   この旅の最初の感動場面だった。



   これからロダン博物館へ行く。RERで三駅戻ればアン 

 ヴァリッド、そこから若干歩けばいい。そういう予定で

 地下に降りた。しかし通過券をもらう窓口がない。啓子

 を残して私がその辺を走って回ったが、ない。しかたな

 く自動販売機で買うことにしたが、そのとき親切にもそ

 ばに立って、ここを押すのだ、次にこうする、と世話を

 焼いた男は、結局、小銭を恵んでほしいのだった。



   私はこういう物乞い根性がまったく嫌いだ。「Non」 

 と言い切って改札口へと走る。あのだらしない表情は思

 い出したくもない。パリの汚点はこの物乞い。メトロの

 中で物乞いして、それで堂々としている。



   物もらいするなら誇りを捨てるがいい。あるいは人間

 の誇りを失わないのなら、それはそれで立派なこと、物

 乞いなんかするな。



   RERの駅、アンヴァリッドを出て、地図に従って進む 

 間じゅう、金色に輝く大きな円形寺院が前方に見えた。

 これは、Les Anvalides(レザンヴァリ ッド)というバ

 ロック様式のドームで、ルイ十四世が傷病兵のために建

 てたのだが、いまではその床下にナポレオンの遺骸があ

 り、そのゆかりの品々が軍隊博物館として収集されてい

 るために、訪れる人が多いという。もちろん私は行く予

 定をしていない。その真横にロダン博物館はあった。



   木造の大したことのない建物だが、ロダンの作品には

 何度も足を止めさせられる。少女の帽子を被った胸像な

 んかは、ことばには置き換えられぬ息吹、気配、実在を

 感じた。芸術の理屈の中には諸説、諸思想もあろうが、

 リアルにまさる芸術が、本当はないのではないか。私は

 ビデオを撮りながらそう思った。



   この昼もセルフチュイルリーへ行った(ような気がす

 る)。



   オペラ座も見学できる、と啓子が言うので、午後はそ

 ちらへ向かう。オペラ座の前は交差点になっているが、

 左へ少し行ったところにパリ三越がある。私たちはまだ

 土産らしいものをほとんど買っていなかったので、参考 ☆
P-23

☆にすることもあろうかと、そこに入った。



   案の定、型通りの物しかなく、日本人観光客が折しも

 所在なくたむろする三階の休憩所でしばし座り、トイレ

 を借りて、外へ出た。



   路上に公衆電話があった。テレフォンカードにはルネ

 さんに掛けた残りの度数があるのかないのか、私は東京

 の由理に電話した。すぐ通じる。声も近い。しかし、由

 理も言ったように、返事をするのにほんの少し、だがは

 っきり感じるほどの時間のズレがある。

  「ウン」と返事するその言葉の頭が、次の単語と重な

 る程度のズレだ。



   「--- いま、パリ。オペラ座の傍。うまいこといっと

  る。ことば?  通じる、通じる。うん、元気や、おかあ

 ちゃんも。まだお土産は何にも買うてない。おかあちゃ

 んと替わるわな」



  「元気やに、土産まだ買うとらへん。うん、元気、元

 気。---  きれたわ」



   ここに記載できるのは私の記憶を通しているから、こ

 の数倍は話したが、私たちは若やいで楽しさいっぱいに

 しゃべっている。



   その勢いでオペラ座に入った。



   まあ贅の限りを尽くしたとはこのことか。柱から壁か

 ら天井、すべて手を尽くし金を掛けて作られている。階

 段、シャンデリア、掛け物。王候、貴族が着飾って出入

 りし、また社交界に豪華な衣装をひけらかし合ったのだ

 ろうから、その器か背景として役割を受け持つここオペ

 ラ座はこうでなければいけなかったのだろう。



   観客席を覗く場所が二カ所ある。いずれも声をひそめ

 てそっと覗く、という雰囲気だった。



   一回りして、ギャラリーの長椅子で休憩する間、

  「おい、トイレも貴族的やろか。撮ってくるわ」と、

 カメラを出してその中へ入ると、扉は彫刻にニスを塗っ

 て仕上げた「芸術品」だったが、便器は今日の通常のも

 のだった。



  (便所はな、ウチといっしょやったに)と啓子に言お

 うと、ベンチに近寄ると、



  「はよ来て」と中腰になって私を呼んでいる。

  「なんや(どうしたんや)」

  「この人がね、話しかけてくるんやわ」

 (なに変な奴か)とその横の男を見やる。

  「私、わからんで、もうすぐユーサン来るで、って言

 うとったとこなん。はよ、聞いたってえ」

  (何を)と思う間もなく、男はすぐ話しかけてきた。

 英語だ。



  「東京に住んでるの?」

  「いえ」                        ☆
  
P-24

☆  「東京にね、ナカムラって友人がいるんだ。よく行く

 んだよ」

  「そうですか、私はいなか。スズカていうとこです」

  「オオサカのほう?」

  「いや、ナゴヤのほうですが、ナゴヤは?」

  「行ったことないんだ。私はね、1945年に日本へいっ

 た、第二次世界大戦の終わりに」

  「マッカーサーと一緒に来たんですね」

  「そう、東京に」

  「あなたは、これ(肩の金筋を手で真似て)ですね」

  「そうなんだ。そのころ、東京はずーと焼けてしまっ

 ていた」

  「そのころ私は十一歳、ほんの坊やでしたが、東京で

 はたくさん飢え死にした。いっぱい」

  「そうなんだ、かわいそうだった」

  「私は田舎にいたからまだましだったが、親をなくし

 たり、家を失ったり、不幸なことが多かった」



   オペラ座のベンチで急にこんな話しを始めながら、私

 は涙しそうになった。彼もしみじみ昔を思っているみた

 いだった。



  「奥さんもいっしょですか」

  「ああ、これがそうだが」やや背の低い、しかししっ

 かりした婦人がわざわざベンチから立ち上がって私の前

 に出て、ものを言った。



  「ウチの主人、ジャパンが大好きなの」

   雰囲気としては(主人の趣味よ。だから日本人と見る

 とすぐ話しかけるのよ)といった感じだった。

  「よくパリへ来るんですか?」

  「ああ、しょちゅう。娘がね、ドイツ人と結婚して、

 ドイツに住んでるから      旦那はクライスラー(?)

 のエンジニアーだよ」



   この時、またしても三十代前半ぐらいの婦人が私の前

 に立って、会釈って言うか、愛想って言えばいいのか、

 (自分がその話題の娘だ)という身振りをした。



  「東京は立派になったよ、世界で一番だ。      日本

 人は、いつも正しいことを言うからいいんだ」



   男は視線をまっすぐ前方へ向けて、そう言った。

  「いい旅をしてくださいね」

  「あんたもね」

  「ありがとう」



   いい人に巡り会う。異国の旅だから純粋にその人、そ

 のものに心を接近させてしまう。



   オペラ座からルーブルの方へ歩いた。その途中に「ミ

 ス・パリ」があるはずで、寄って見ようと思った。前回

 来たときには、二度も立ち寄ったからだった。



   しかし見つけられなくて、そのまま歩いてルーブルま ☆
P-25

☆で来てしまった。



   午後も深くなると、足は疲れる。時差の七時間を足す

 と、日本でなら深夜になる。体をして言わしめれば、

 「真夜中に歩きづめなんだから」とグチるだろう。



   が、ルーブルからさらに三十分も歩いて、ノートルダ

 ムへ来た。日差しは暑いし、また来るからと、ビデオに

 も撮らないで土産もの屋だけ覗いた。前回立ち寄ったと

 ころに、だ。



   さてRERのサンミシェル駅はセーヌの川底にあって 、

 「ノートルダムへの出口」と表示もされている。だから

 疲れた体をいたわって、ここから地下へ降り、そして向

 こうのサンミッシェルへ出れば直射日光に当たらずに行

 ける、と判断したのが誤りだった。日本と異なり、地下

 鉄に乗るため以外の通路は一本もなかった。くたびれも

 うけだった。



   しかたなく川風に吹かれて、セーヌを渡る。





■   七月  二十七日  ■

                                                  

    7/27   ヴェルサイユ宮殿見学                   

    Fri    パリ大学第6学部   スーパーマーケット  

                                               

   予定では、鉄道旅行を終えて再びパリに戻ってから、

 ヴェルサイユへ行くことになっていた。しかし美術館も

 およそ見終わったし、土産もの探しにうろうろするのも

 時間が勿体なくて、たっぷりこの日をヴェルサイユに充

 てることにする。



   七時、朝ご飯、八時出発と決めて、そのように出発。

   通過券をもらい、ホームに入ろうとするとき、三十過

 ぎの優男(やさおとこ)が近づいた。よく映画でみるフ

 ランスのやさ男の雰囲気だった。



  「ヴェルサイユに行かれるの?  こちらのホームから

 ですよ」



   親切に教えてくれるこの人は、上着を脱いで手に持っ

 ている。ホームに入ってからも傍にいて、



  「私も同じ列車で行くんですよ。次の列車がちょうど

 いいんです」

  「ありがとう、とっても」



   私は警戒していた。親切と詐欺とは紙一重だ、と思っ

 た。



   だから列車に乗るときには、男の傍へ行かないで、一

 等の空いたところに座った。



   RERはオルセー、アンヴァリッドとセーヌの川沿いに 

 地下を進み、やがて川べりの地上に出て走る。思ったほ ☆
P-26

☆ど効率よく走らない、遅い。郊外に出てからは、どうか

 するとTGVのように高速で走り、しかしその後ゆっくり

 と停車する。



   四十分程も乗って、終点に着いた。Versailles-Rive 

 Gaucheの外は広いバス乗り場で、ここを通り抜けて並木

 道の下を数百メートル進むと、宮殿前の広場に出る。



   着いたのは、九時少々前で人はちらほらとしか入って

 行かない。門を入って、どこが見学者の入り口かわから

 ぬまま進むと、数人の柄のよくなさそうな若人がたむろ

 していた。胸にカードをつけて身分証明している。ガイ

 ドかな、と思いながら、その右を覗くと、身体障害者の

 入場口、とある。一般の入場口らしいところはない。で

 もときどきその身体障害者の入場口に人が入るので、私

 も思いきって入ってみたら、



  「イケマセン。ダメ」と叱られた。いま入るのは職員

 らしい、と気がついた。



   それにしてもせっかく早く来たんだから、入場口でも

 ないところで時間を浪費してはいけない。どこで尋ねよ

 うか、あの若者にはいやだなあ、などとためらうところ

 へ、パリで列車を教えてくれたやさ男が近づいてきた。



  「どこで切符を買うの?」

  「ここを左に回ればフリー見学用、まっすぐその向こ

 うのあそこなら、解説つきの見学。これがいいですよ」



   彼はここの職員だったのだ。いま仕事に向かう。私は

 さっきの疑念に恥じながら、サンキューと謝礼した。



   左側にはもう心ときめくばかりの庭園がある、そんな

 一隅に受け付けがあって、私たちは並んだ。



   私の前には十人もいない。



   やっと窓が開く。中は英語列と仏語列とに分けてあっ

 た。英語列に並ぶ。仏語列が出発して十五分も経ってか

 らやっと英語列は動き出した。そのときすでに啓子は

  「トイレ、行きたくなりそう」と言っている。



   ガイドは、その英語がうますぎて私にはほとんど分か

 らなかった。彼女が、まるで歴史の先生のように革命前

 の王室のありさまを語り続けているのは、その雰囲気か

 らわかったが、私にも、その実物の豪華けんらんさとプ

 レイトに表示されてある文字から、何用の部屋で、誰の

 どんな調度かが理解できた。



   すばらしい、などと感嘆の言葉は使わない。権威ある

 ものは搾取、収奪を極め、こういうきらびやかなものを

 形作る。中国の故宮だってロシアのクレムリン宮殿だっ

 てイギリスのバッキンガムも日本の天皇家も、すべて例

 外ではあるまい。



   貧しく飢えて細々と生きた人の思いは、積もり積もっ

 て歴史を動かす。フランス革命なんか、別に歴史的知識

 として頭になくてよいのだ。人間の世界に富や幸のいび ☆
P-27

☆つさがはなはだしくなれば、そこに激しい改善のエネル

 ギーが生ずるのだろう。



   庭園も、人手と金がかかっていた。こんなに美しくし

 てもそこで子供達が遊戯に耽るといった雰囲気のもので

 はけっしてない。



   衣装をひきずり飾りを極めて社交する、そんな場とし

 てだけ、ここはふさわしいのだろうか。



   宮殿内にオペラ劇場があった。蝋燭の明り、シャンデ

 リアで演じられる。いまは、それではコスト高、さらに

 火災の危険があるためにオペラは演じていない、と説明

 を聞くうち、例のやさ男が入ってきて、何かと親切にす

 る。パンフレットを二つ持って来て、私たちにだけくれ

 た。彼は、劇場付近の「立ち番」の係だった。



   広い庭園を、日差しの中、歩くのはつらい。もうわか

 った、といいかげんに切り上げて、浮浪者がするように

 軒下にしゃがんで昼飯をたべた。朝ご飯の残りを紙に包

 んで持って行ったものだった。雨がぱらぱらっと食べ物

 にも当たった。



   そんな感傷にしばし浸ると、旅心を感じるのだ。



   門を出たところに、黒人が鞄、絵葉書、鳩など押し売

 りしている。ここにいたのは本当に真っ黒な人種で、悪

 いがカメラに収めさせてもらった。



   正面の交差点で、懐かしい顔色の団体をみた。近づい

 て見ると、中国人の団体さんであった。



   帰りの車中で斜め前方にアラブ系の女性がいた。



   黒い髪につぶらな黒い瞳。白い肌が楕円形の顔にふっ

 くらと美しい。黒の衣服は、あれは教会のシスターと同

 じだなあ、と思った。牧師もシスターも起源はすべてア

 ラブかユダヤの地なんだから、偶然のそら似ではない。



   メトロの通路でコンガ、ボンゴとギターでせわしげな

 音楽を奏でていた。左端の奏者は、アマゾンのインディ

 オと同じ顔をしている。他の二人はわからない。



   啓子はなぜかこの音楽を過大評価して、

  「ぜひともビデオに収めて」という。



   私は、こんなところで物乞いするのはキライ、だから

 聞いて楽しめば物乞いを拒否する理由がなくなって、自

 分を自分の嫌う方へ追いやってしまう。そのいやな気分

 と妥協しながらビデオを撮る。



   翌日は旅に出るから荷物の整理をして、トランクはこ

 こに預け、必要最小限のものだけを身につける。その荷

 造りの時間が必要だった。



   ベッドの上も机の上も、もちろん床の上もすべて使っ

 て「最小限」の荷造りに努める。



   しかし、日本人形を一つ、リュックサック、ボストン

 バッグ、これだけはどうしても運ばねばならない。さら

 にカメラとハンドバッグやウエストバッグ。キャスター ☆
P-28

☆も持つ。



   よし、これで動ける、そう見通しをつけて、再び町へ

 出た。サンジェルマン通りを西に進むと、すぐパリ大学

 の医学、薬学部になる。道の両側にまたがっている。南

 側には、キュリー夫妻がここで学問したと表示されたプ

 レートがあった。また、1914、1916にここで愛国の医師

 が死んだとするレリーフがはめこまれており、ちょうど

 第一次世界大戦に当たることから見れば、大勢の医師が

 ここから出征しその命を捧げたのであろうか。



   西側の外れには、記念碑が建っていて上に活字体の文

 字が幾行も並べてある。この医科大学に多大の功績があ

 ったのを顕彰したものに違いなかったが、少し異質な模

 様があるので、なんだろうか、と近寄ると、それは落書

 きであった。



   その落書きの文字が芸術的であり、思いの外に整って

 いるので、何かありそうな気がして、その碑文を読もう

 とした。



   大脳に関する研究で世界的な業績あり、とあった。顕

 彰されているのは「ロボトミー」博士だった。



  「ははーん、おい、わかったぞよ。ロボトミーってい

 うと、大脳の一部を切り取る手術をいう。てんかんによ

 くきくと言われたたんだけど、いまでは人格を変えさせ

 たり意欲を喪失させる、としてこの方法はとらない。  



   多分、生体実験をしたとか、人間の尊厳を損なったと

 か、そういう批判が落書きになってるんじゃないかな、

 よくわからんが」



   私は啓子に、えらそうにもそう解説した。



   そこで大学は尽きていたが、そこから斜めに下る路地

 には、薬屋や個人の医者が何軒もあった。医学書を並べ

 る本屋もある。漢方の薬屋もあった。



   スーパーマーケットの外には果物屋が露天で安売りし

 ている。「あとで買お」と、まずマーケット内に入る。



   生肉のたたきはよだれが出そうなほどおいしそうで、

 目方ではどのくらいかわからないから、

  「アン、ドゥ、トルワ」と唱えながら数で示して、三

 切れ、ハムを四切れ、と買う。



   さてワインが欲しいのだが、買うとしてもコルクを抜

 くものがないから飲めないことに気付く。まあ、ビール

 で我慢するかと、見ていると、牛乳の四角い箱と同じも

 のに、「食卓ワイン」としてあった。



   この赤ワイン、まろやかでうまい。ただ、一リットル

 一度に買うのだから、最低でも二日で飲まねばならぬ。



   果物は、安心できるからいつも日本で食べるものを買

 う。まずネクタリンだ。これは同じ程度の値段で同じ程

 度の味。日本にない珍しいものも食べよう、ということ

 で、桑の実の三倍程のものや、赤い梅(プリュム、ルー ☆
P-29

☆ジュ)なんかを食べた。種は持って帰った。



   魚屋に、台所があれば買ってみたいものが沢山ある。

 残念だなあ、と眺めるうちに、弁当箱のおかず入れぐら

 いのパックに半分位、いわしの酢のものが入っている。

 十フラン(約三百円)とある。



  「マダーム、これ     10 Fr(ディ,フラン)?」



   ウイっともなんとも言わないで包んでよこす愛想のな

 いおばさんは、日本の魚屋もいっしょやさ、と思う。



  「すぐ食べるの、それとも、あとで?」

   変なこと聞くなあ、なんでやろう、あ、痛むからだ。

  「ア、トウド、シュイ(すぐ食べる)」

  「ビアン(それがいいよ)」小母さんは親切なんだ。



   この夜、私たちは外へ食べに出なかった。こんな物を

 部屋で食べたからだ。





 ■  七月 二十八日  ■

                                                  

   7/28    Paris(Austerlitz)----- Angoulem ---

             9:09               12:47 13:40

   Sat     --- Saintes ----- Royan

                             15:40

                                      

    八月の四日に再びここへ戻るから、とフロントで繰り

  返し言って、これまでの四晩分を支払い、「戻るまで荷

  物を預かって(deposer mes bagages)ほしい」と頼む 

  と、

  「いいよ」

  「料金は?」

  「そんなの、いらない。no problem」と快く引き受け

  てくれた。



    八時少々過ぎ、私たちはオステルリッツ駅へRERで向 

  かう。1等2号車禁煙室の31.32。



    ほんのいっとき誰かが同室に荷物を置いたが、すぐ 

  また出て行った。ときどき雨のこぼれるわびしい天気。

  列車は平坦な野を走る。川があって、その川は時たまに

  しか見えないが、線路沿いには運河がある。快速に走っ

  て行くうち、原子力発電所の大壷が二機、並んで天にそ

  びえ、蒸気っぽい煙を上げていた。



    隣室の若い衆、東洋人に興味があるのか、わざわざ我

  々のコンパートの前で外を覗く。



  「あれは原子力、だろう?」

   私はさりげなく、青年に水を向ける。

  「そやに、ふたつもあるわさ」ずいぶんきついクセのあ

 る言葉だった。                   ☆
P-30

☆  線路に添う運河めいた川についても二、三尋ねたか。

  雨がまたぱらついていた。



    アングウレームに着くや、すぐホームの駅員に、

  「ロワイヤン行きはどのホーム?」と確かめる。四番

  だとわかったが、五十分も時間があるのに、そのホ−ム

  にはすでに人が立って待つ。



    国民性の違いさ、我々寸暇を惜しんで物を見るんだ、

 と改札を出て、駅前の広場を一瞥することにした。



   人気の少ない町だ。改札の付近は犬の糞を踏んづけて

 ひきずったあとがあり、汚ない。



   表には、街灯の柱に自転車がくくりつけてある。利己

 主義者の多いフランスの一風景。水産大学がこの地にあ

 るのか、そんならしい表示。それから、どんな駅にも必

 ずあるホテルの看板。静かなビュッフェや日本でもよく

 見かけるキオスクとそっくりな駅の売店。三十分ほど眺

 めてから、四番ホームへ行った。



   長い列車が入ってきて、そのとき気付いたので、

  「Ou est la premiere voiture?(一等はどこ?)」 

 と駅員に叫ぶと、

  「一番うしろだ」というので、キャスターの荷物をは

 ずませて走る。列車は長いからいちばん後ろへ着くまで

 に発車してしまっては困る。いい加減なところで妥協し

 て乗り込み、車内を移動する。



   私たちは最後尾の車両、後から二つめのコンパートに

 収まった。目のクリッとした中年女がひとりでいたが、

  「ここ、いい?」

  「どうぞ」ってことになって、荷物を持ち込んだ。



   列車はまた、ひまわり畑の中をひた走る。トイレをし

 ようと、出たら、最後尾だから展望がいい。快適なスピ

 ードで車体の下から線路を吐き出し、風景をみるみる遠

 ざけてしまう。架線はもうないし、いつのまにか単線に

 なっている。そんなロワイヤン向けの支線を、しかし,

 百キロを超える速さで走る。



   コニャック(Cognaque)という駅があって、

  「あのワインを蒸留するコニャックはここの産物?」

 と相部屋の婦人に聞くと、

  「そうよ」といった。



   何でもないただの広っぱばかりの田舎だが、蒸留工場

 らしい建物と煙突だけは幾本か立っていた。



   シャトウ・ヌフという駅があって、

  「chateau(お城 )がneuf(9つ)あるの?」

 と相部屋の目パッチリさんに聞く。

  「Non,le chateau est neuf.(新しいお城)」

 と解説してくれた。そこでどんな新しいお城があるのか

 と、カメラを窓外に構えると、

  「次の駅を過ぎてからたくさんあるわ」と案内してくれ ☆
P-31

☆た。しかし彼女の言う辺りには何も見えなかった。



   セイントで進行の方向が変わったから、ロワイヤンに

 は機関車の次に到着する。終着駅の駅舎に接するほどい

 い場所にわがヴォアチュール(車両)は止まる。



   かねてから私たちは、この出会い=ルネさんとの初対

 面をビデオに収めることにしていた。啓子がすべてを写

 すというのだ。



   ブレーキの音が次第に重くなり、自転車くらいの速さ

 になったとき、出迎え人の中に、私たちを認めて同方向

 に急ぎ始める婦人があった。



   ふっくらとしており、あの写真の中の一人であった。

   私はステップを降りながら、この人と握手をした。

 (奥さんなんだ)とそのとき思った。

  「マダーム。ジュ、シュイ、コンタン、ドゥ、ヴ、ヴ

 アール」

  「わたし、アンニック、娘よ。この人が、パパ」



   ルネさんは、ベレー帽をかぶり、満面の笑みでくしゃ

 くしゃになりながら私と握手をした。



  「病気はどうですか」

  「***」通じなかったらしい。

   アンニックがなにか言った。

  「アンシン、    ナリマシタ」

   右脳を指差しながら言った、日本語で。

  「よくなりましたか。よかったですね。これが、私の

 家内です」



   カメラを離さないでいる啓子を紹介する。

  「奥さんの顔が、初めにわかりました。あの、着物の

 写真と同じですから」



   この春、名古屋の鶴舞公園で、夜桜を見ながら二枚の

 写真を撮った。それを予め送っておいたからだ。



   十一歳のサンドリーヌも連れ、三人が車で迎えにきて

 いた。



   荷物を乗せて動き出す前に、

  「ちょっと待って」と明後日のために出発時刻表を確

 認しに行った。



   家につく前に少し見せたいとこがあるからと、アンニ

 ックは言って、ロワイヤンからサンパレに至る町の様子

 を私たちに紹介しながら、運転を続ける。



  「St-Palais-sur-Mer(サン.パレ.シュル.メール)海沿いの聖なる

 宮殿」という地名だが、この大西洋に面し、十キロに

 も及ぶリゾート地は、すべてがまったく新しく作られた

 ものだ、とアンニックが説明する。



   見渡す私は、広さに驚きはするがさほど新しいとは思

 はない。



 「なぜすべてが新しいかと言うと、1944年にここら辺一

 帯がすっかり破壊されたから」            ☆
P-32

☆「ドイツ軍ですね」

  「いいえ、ドイツ軍ではありません。アメリカ軍が、

 上陸の前にすっかり破壊しました。美しい海岸はもちろ

 んのこと、緑の林も海岸から十キロ内部まで帯状にあっ

 たのですが、それも焼き尽くされました。なにもかも壊

 したのは米軍なんです。

   だから、こんなすっかり新しいリゾートができている

 んです。」



   私には意外な話だった。ドイツ軍を憎み、祖国の解放

 を願うフランスのレジスタンスと連合軍が協力して上陸

 作戦を敢行し、そして成功した、というのが歴史の語る

 ところではなかったのか。



   アンニックの話は、ここの新しさを言うよりも、破壊

 者であるアメリカを告発する語調があった。



  「ノルマンディーはどこなんですか、米軍の上陸作戦

 はそこと聞いているが」



   私はこの部分戦ではアメリカがやりすぎたのかも知れ

 ないと思ったからだ。

  「ノルマジーはこのあたりすべてを言うの。だから米

 軍はここから上陸して展開したの」



   テレビや映画で「正義」の米軍が果敢に戦い上陸を果

 たしたのはここだったのだ。そしてそれは同時に貴重な

 風土や自然、歴史的な宝の潰滅的な破壊だったのだ。



   いま歴史は、ソヴィエトばかりでなくここでも「読み

 直され」ている。



   町の観光案内があって、そこで二、三のパンフレット

 をもらった。



   私が特に希望した訳ではないのだが、ピエール・ロチ

 の話になった。アンニックとルネさんは、かわるがわる

 まるで言い訳でもするように、



  「土曜日と日曜日は展示が休みだ」と説明した。ルネ

 さんは、日本語を使おうとして、「キク、オク」と言っ

 た。「オク」とはmadameかmademoiselleを日本語で「オ

 ク」というのだと勘違いしている。



  「おキクさん」となんど言い替えても、老人の思い込

 みは変わらない。変な表情になってしまった。



   ルネさんの夏の別荘に着く。写真に写されてあったと

 おりの家だ。二百か三百坪ぐらいの庭や畑の中に思い思

 いの家が建っている。軽井沢のような凝った作りが散見

 されるところではない。百姓屋が少々建て込んでいると

 も見えるし、住宅地だが菜園つきだ、とも見える。



   門を開けると右に左に果樹が枝を差し出す。その下に

 車を停め、ルネさんの奥さんが出迎えた。歓迎の表情を

 満面に表わしながら、しかし発音がよくわからない。



  「お会いできて幸せです。私の妻です」と紹介して、

 中に案内された。                  ☆
P-33

☆ すぐ二階に誘われ、階段左の部屋に通された。ベッド

 が二つ、いずれもダブルベッドで、手作りのカバーが掛

 けられてある。



   隣にトイレ、その隣が風呂。



  「風呂とトイレと一緒にしなかったのよ、日本の家の

 ように」とアンニックが説明した。



   荷物を解いて寛いでから、お茶の時間となった。



   アンニックの旦那さんは、ジャミルという。お医者さ

 んだ。一か月のヴァカンスを過ごす身だ。



  「ジャミルはコーヒーをいれるのが得意なの」とアン

 ニックが言い、私たちは食堂(居間)に集まった。

  「このクッキーもジャミルが焼いたのよ」



   私にはクッキーのよさなんかわからないし、どうでも

 いい。家族の紹介があった。



   ルネさんには二人の娘があり、アンニックが長女、次

 女はクロウディーヌ、大学の先生をしていて、今、アメ

 リカ旅行を楽しんでいる。



   写真で紹介されていたルネさんの家族は、彼の年にし

 ては若い子供が多すぎたが、実は孫であった。アンニッ

 クには二太郎、二姫がある。Yvesはミリタリーサーヴィ

 スの義務が終わって先生になろうとしている。表現の研

 究なんかしているという。



   Stephaneはエンジニアーをしようとしている。Sophie

 はトゥールの家に一人で残ってアルバイト中。



   そしてSandrineはまだ子供。小学校を終わったばかり

 で、こんどグラマースクールに入る。



   ステファンは恭々しく、

  「ボンジュール、マダーム」と啓子に挨拶した。いか

 にも西洋人らしい挨拶の仕方で快かった。



   お茶のあと、ルネさんと徒歩で町に出る。五分あとで

 追いかけるから、とアンニックは言い、私たちを先に出

 した。



   町というより「村」の郵便局や小学校、戦没者の碑な

 ど紹介する合間に、草をちぎっては匂いをかぎ、**と

 いうハーブだ、と説明するルネさんは、私と同じように

 植物にも大いに興味を持つ人だった。親しみがぐっと増

 した。



   アンニックが車で追い付いて、まず海水浴場へ行く。

  「ここの水は冷たいの。大西洋は、地中海と違って冷

 たいのよ。でも私はとっても好き。冷たいのが気持ちい

 いの。サンドリーヌと毎日ここへ来ては、帰りにソフト

 クリームを食べるの」



   笑顔がソフトクリームのおいしさに満ちていた。

   緑のペンキをぬった大きな箱にピエロの絵がかかれ、

 その前に低いベンチが数列並んでいた。

  「マリオネットなの」               ☆
P-34

☆ そう言えば紙芝居が上演されそうな雰囲気であった。



   アンニックは、そんな劇を日本人の私が理解できるの

 かいぶかりながら、

  「一日に一回、子供達がここに集まって楽しむわ」

  「人形劇ですね」私は分かっていることを伝える。

  「ええ、糸でこう、動かすの」



   そのすぐそばにクレープを焼く店があった。ちょっと

 した日覆いの下で鉄板の上にメリケン粉液を延ばす。お

 好み焼きだ。



  「食べたことある?」



   クレープと言うとき、フランス語は、rを喉の奥から

 出すので、「クレ」が独特のフランス語らしさになる。



   私はこの感じが好きだ。

  「いいえ」

  「やってみる?」

  「うん」



   アンニックはお好み焼き台に近づいて、注文した。日

 本のお好み焼きよりははるかに薄いからすぐに焼け上が

 るのだが、注文してすぐ食べる訳にはいかない。しばし

 の間にもアンニックはガイドする。



   浜辺のずっと右手は、磯の岩がみえる。

  「あの辺ではシュリンプが獲れるの。シュリンプって

 わかる?」

  「ええ分かります。海老のことだよ。どんな海老?。

 ああそれくらいの普通のえびですね」

  「これがおいしいの。ここのクラブの会員が、よく食

 べるの」



   どんなクラブで何をするのか、興味があったが、聞か

 なかった。



   焼けたクレープを畳んで、扇のようにしたものと引き

 替えにアンニックは代金を払う。

  「やってみる?」アンニックは五、六センチつまんで

 ひき千切った。



   最初は私に、次に啓子に手渡す。

  「どう?」軽い味に砂糖が振りかけてある。

  「メリケン粉には卵が入るの?」

  「いえ、卵は入らないわ。ミルクやバターが入る、そ

 れに砂糖」



   薄くて軽いメリケン粉焼きに細かい砂糖をまぶした食

 べ物だ。



   車に乗ってこんどは海から岩が少し崖になっていると

 ころにやってきた。ところどころトーチカの跡がある。

 崖から櫓を組んで網を水中に降ろし、一定時間の後、そ

 のロープを引くと海老か蟹かが入る。相手次第ののんび

 りとした漁法だ。こうして伊勢海老ぐらいの大ざりがに

 がとれる。                    ☆
P-35

☆  車を降りて崖の上にさしかかるとき、折りしも網を上

 げる一櫓があった。何も入っていなかった。



   アンニックは、また「アメリカ軍がすっかりこの辺り

 の海辺を破壊した」話を繰り返した。



   午後の日差しは厳しいが、海から吹き上げる風は、む

 しろ肌に寒い。散歩する二人づれの婦人に出会った。ル

 ネさんの近所づきあいの人とその姪であった。ルネさん

 が私たちを隣人に紹介し、私は陽気に喋った。一人は英

 語を話すので、



  「英語がお上手です」と私が言うと、けたけたと笑っ

 た。彼女はアメリカの大学で教えている。夏の一と月だ

 けこうして叔母のもとに里帰りして英気を養う。



   私たちは握手をした。

  「あなたは手が冷たいわ。きっと身体も冷えているの

 よ」と英語で啓子に言った。

  「私のセーターを着なさい」と、体に巻いていた黒い

 セーターを、ほどいて啓子に掛けた。

  「どうやって返すの」と啓子。

  「どうしてお返しすればいいの?」私は下手な翻訳を

 する。

  「ルネさんのお宅に置いておけばいいわ」

  「ルネさんとこに置けばいいって」



   その叔母に当たる人はがっちりベルトのついたミリタ

 リールックのコートに身を包んでいる。襟にはスカーフ

 まで入っている。



   よく日本で腰にセーターを巻いた姿を見かけるが、あ

 れはウソ。物まね。あんな姿は私は前から嫌いだった。

 不要な衣類を飾りのためだけで身にまとっている。ここ

 では暑いがしかし寒い。だから真夏の真昼だって、風が

 吹けば寒くなる、木陰が続けば冷える、だからそのとき

 のためにセーターを予備として持つ「必要」がある。



   実に「さま」になっているファッションだった。

  「もうすぐ帰るのだから私はいいの」と言って、慣れ

 ない異国人に貸す思いやりをうれしく思った。

  「本当にありがとう」

  「いい旅をしてね」なんども手を振って別れた。

  「この白い家はね」とルネさんが崖の上の、隅にトー

 チカの残りが一部分セメントから鉄骨を見せている家を

 示した。



  「トロツキーが、一時期、一年間ほどここに住んだん

 です」

  「あのレーニンと別れた?」

  「そう、レーニンの友人だった」



   私にはさほどの感慨も湧かないが、革命半ばにして追

 われた、不本意な闘士は、寒い冬の海を眺めて寂しく暮

 らしたのだろうか。                 ☆
P-36

☆  しばらく松林の多い道路を走りながら、

  「この辺りの松は、火事で焼けたの」

  「米軍によって?」

  「いいえ、山火事よ」

  「松はその油がよくもえるんだ」

  「ええ」



   緑を抜けたところに灯台があった。

  「Watch-tower for the ships?」

  「I don't know, but it brightens allday long.

 Even in the night.      Do you see like this tower

 in Japan?」

  「Yes,a lot.」



   私は悪いことを言ってしまった。アンニックは年柄年

 中光を出すこの塔を、珍しいから日本人に見せたのだ。



   なのに私は、日本では「トウダイ」というもので、

 「watchtower」として船の安全航行に役立つ、とまで教

 えてしまった。



   塔の傍まで行って見学することもやめて、私たちは帰

 路に就いた。



  「食事は八時よ」と時間を指定されて、私たちは部屋

 に上がった。人形をほどき、浴衣二着をきれいに畳み、

 広重の「東海道五十三次の内  川崎の宿」を描いたちり

 めんの風呂敷を準備した。



   みんなが既にテーブルに着いていた。私たちは先ず、

 あの3300円の芸者の踊り人形を台に乗せて飾った。歓声

 があがって拍手。



  "This is a dancer.Ancient japanese dancer"

 "And this is YUKATA for masculine.  This one for  

 feminine.  Obi,the belt      "

 "Papa,Maman,tres bien!"(パパ、ママ、とってもいい 

 わよ)



   アンニックが両親の幸福感 を言葉にした。

   ヒロシゲが描いた絵だ、というところまではすぐに判

 ってもらえたが、これが風呂敷き(ラッピイングのため

 の布)だというところは判ってもらえなかったようだ。

 何度も壁掛けだろうという素振りをする。本当は掛けて

 もらったほうが絵のためにもいいのだから、逆らわなか

 った。



   ひとしきりがやがやと鑑賞して、今度はママンが新聞

 紙にくるんだた重いものを差し出した。



  「ママンが朝ご飯を(キュイジーヌ)クッキングする

 の」と、私には聞こえた。

  「私たちのために朝ご飯(petit dejouner)を作って

 くれたの?」

  「そうじゃあ、ないの。これは、朝ご飯を準備するも

 のよ。ママンが買ったの。開けて見る?」       ☆
P-37

☆「うん」

   達磨型をした皿二枚、と紅茶カップ二つ。私たち二人

 の朝食道具をプレゼントしてくれたのだった。なじみに

 くい彩りと形だが、せっかくの志が篭っている。私は心

 から感謝して、



  「有難うございます。満足しています」と述べた。  



   夕食になった。先ずメロンが出る。固いばかりでどう

 も甘くない。飲み物にはワインがない。



   コップは普通の水。メロンを二切れほど食べたころ、

 サラダのボウルとゆでた海老の入った鉢とが出された。

 サラダは例によりごわごわしているが、そしてドレッシ

 ングらしいものもないが、野菜は薬、と真剣に食べる。

 海老は、濃いめの塩ゆでにしてあるので、おいしい。指

 先をぬらして殻をむき、食べる。ママンは、何度も、も

 っと取らないか、と言う。



   その間、何やかんやとアンニックは話題を見つけて話

 しかける。海老を食べている時、ジャミルが突然、殻の

 ことを日本語で何というのか、と問うた。真意が分かり

 かねていると、



  「医学によいものをもたらした」と言うので、キチン

 とかケチンとかいう日本の蟹の殻から取り出されはじめ

 た繊維のことだとわかって、

  「手術をするときに殻から作った繊維を用いると、あ

 とで外さなくていい、新しい糸が日本で作られた」とい

 うと、アンニックがフランス語で話し、ジャミンはうな

 ずく。



   彼はレバノンの出身である。東洋医学も勉強したいの

 だが、中国や香港に行くだけの費用がない、と言った。



   アンニックはもと父から英語を教わったことや、学校

 でも父のクラスで教わったので、

  「パッパのこと、みんなと同じように  ムッシュウっ

 て呼んだのよ。父も私を子として扱わなかったわ」と述

 懐した。



   話すうちに「ママンも、小学校の先生だったのよ。私

 もママンに習ったの」



    -----   私の記憶は、この夜、ここで話したことか、

  次の夜、話したことかもう混然としているが、勝手にア

  レンジして書く。



   アンニックの話しには歴史に関することが多いので、

  「あなたは博識だ。特に歴史なんかよく知ってる」と

 いうと、

  「歴史がいちばん好きで、得意だったわ。で、大学へ

 いって勉強したかったの。でもちょうどその頃、ウチは

 家を買ったばかりだったし、両親が是非にと英語の先生

 になるのを勧めたわ」やや寂しそうな表情でもあった。



   しかしそう不満そうでもなかった。         ☆
P-38

☆「あなたの娘さんの写真、送ってちょうだい」とか、

  「フランスにはあまりいい就職口がないのよ」などと

 つぶやいたのも、何かを訴えるようで印象に残った。

  「明日は8:30〜9:00に起きましょうよ」と十時をかな

 り過ぎてからアンニックが言う。

  「みんなはいつも十一時ごろまで寝るの。ママンは朝

 が苦手なの」



   私たちは風呂に入り、寝た。他人さまのところにいる

 という感じは全くしなかった。ヨソ行きの雰囲気が少し

 もなかったからである。



   ぐっすり寝て、早めに寝覚めてしまった。



                                                  

 ■  七月 二十九日 ■



  7/29  Sun    Marennes -- La Rochelle -- Brouage



    八時三十分を少し過ぎてから、迷惑を掛けないように

 そっと階段を降りると、階下にはすでにコ−ヒ−の匂い

 がしていた。いつものように私は紅茶、啓子はコーヒー

 にする。そして日本の感覚で言えば、あまり美しくない

 パンやクラッカーをつまみながら、すする。



  「今日はお天気がいいからうれしいわ」などと言うう

 ちに、ルネさんもママンも起きてきた。



  「ママンは昨夜のうちに今朝の準備をみんなしておい

 たのよ」とアンニック。

  「ありがとうございました」

  「ドゥ、リアン(いいえ、ちっとも)」ママンは老人

 らしくバス(低音)で答え、笑顔を作った。

  「よく眠れた?」

  「ウイ、ビアン、ドルミール」

  「アア、ヨロシ、デス、アハハ」とルネさん。



   朝の食事は台所でするものらしい。その間にも啓子の

 背中の後ろを家族が通り過ぎる。

  「ボン、ジュール」

  「ボン、ジュー」と笑顔を見せ合う。



   そんなとき、サンドリーヌが起きてきた。パジャマ姿

 のままで笑顔もなく台所に降りてきた。起きたばかりの

 子供の顔だから別に愛想がないとも思わない。すると突

 然、啓子の顔に向かってその顔を近づけた。何かの異変

 を感じて、啓子は顔を避ける。サンドリーヌは構わずさ

 らに近づけて、チュッとやった。



   ああ、そうか、とやっと分かる。

  「ボンジュール、マダム」両の頬にやってから、次は

 私の番だ。こそばゆい。しかし、避けないで目を細めて ☆
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☆辛抱する。

  「ボンジュー、ムッシュー」

  「ボンジュール、サンドリーヌ」



   こんな挨拶は、生涯、初めてだった。接吻の初体験。

  「親しみを感じる人には、両側の頬にキッスするので

 すよ。サンドリーヌは喜んでいるのです」なぜかこのと

 き、西洋人が(悪い意味ではけっしてないが)動物的だ

 と感じた。

 人と動物とがつきあう、それと同じ方法で人もつきあう

 んだなあ、と感じたという方が適切か。



   ダイニング、ルームには、この時、ティッシュ、ペイ

 パーが二十袋以上も積んであった。ヨーロッパでは日本

 のティッシュ、ペイパーが喜ばれる、と啓子がどこから

 か聞いていて、日本人形のパッキングを兼ねて箱の中に

 あったものを「もしよければ使ってください」と、朝、

 出しておいたものだ。



   サンドリーヌが何かお母さんにねだっている。

  「ティッシュ、ペイパーが欲しいって言うの」



   私は立って、

  「欲しいだけ使いなさい。どれだけでも」と話したり

 意思表示を試みたりしたが、どれだけ通じたか。ひとつ

 だけ模様の美しいのを選んで、部屋に持っていった。

  「何が書いてあるの?」とアンニック。

  「アドヴァーティズメント」

  「アアン」

  「もらったものばかりですよ」

  「アイ、シー」



   アンニックは運転と観光ガイド?役。ジャミルは今日

 はお母さん役もして、息子二人娘一人とともに海水浴を

 し、食事も作る。

  「サンドリーヌが寂しがるのと、夫の家事がちょっと

 心配」とアンニックは喋った。



   ママンが正装して出てきた。ネックレースまでしてい ☆

七月二十九日のつづき
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