背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             

















 

P-39(つづき)

☆  ママンが正装して出てきた。ネックレースまでしてい

 る。手にはヴィデオ・カメラが握られ、車に乗った。



   四人は昨日灯台からの帰路に通ったと同じ道らしい松

 林の中をまず走る。



   時々アンニックが風景の解説をするが、彼女は運転に

 忙しい。フランスの道路はみんなが高速で走るから、乗

 せてもらっていても気になることが多い。おまけに右側

 を走るから、われわれ日本人にはときどき衝突する錯覚

 (単なる錯覚というよりリアルな恐怖)を感じる。特に

 道が枝分かれしたり、ロータリーを回って進行するとき

 など、他の車に無関心でいるように敢えて努力しなけれ

 ばならない。



   広い野原に出た。山はない。少しの起伏はあるが、木

 のない広野にところどころ川か運河か濁り水を淀ませて ☆
P-40

☆いる。草の生えた野には、作物らしいものも見当たらな

 い。牛が草をはむでもない。どうも湿地であるらしかっ

 た。



   田圃のようになっているところは、時には「塩田」と

 言ってみたり、また「カキの養殖」と説明したりする。

 こんなとこまで海水がどうやって入ってくるのだろう、

 海も前方に見えてないじゃないか、と思いつつアンニッ

 クのぶっ飛ばす車のなかの取っ手を握り締める。



   最初に停まったところは、そんな田圃の中の一軒家だ

 ったが、近づくとコンクリートの大きな海水槽をいくつ

 も回りに持つ養殖業者の仕事場だった。



   小屋の中には、篭に入って大小に選り分けられたカキ

 やムール貝、アサリよりははるかに大きくオオアサリよ

 りは小さい貝、蛤だが模様のあまり綺麗でない貝、その

 ほか様々な海産物が並んでいた。海水槽を覗くと薄赤く

 ぼやけて濁り、カキは真珠貝のように鉄の網篭に詰まっ

 て沈んでいた。



   一キロほどさきに、赤い屋根の村が見える。その真ん

 中にはひときわ高くとぎった教会がある。



  「あれが典型的なフランスの田舎よ」とアンニックが

 解説して、私は「これが典型的なフランスの    」とナ

 レーションつきでビデオに収めるのだが、その村の上に

 白く千切れながら水平に広がる雲が、よく見るヨーロッ

 パの風景画に出てくるものとまったく同じであることに

 気付いた。



   これは絵になると感じながら「とあるノルマンジーの

 村」をビデオの協力を得て描いていた。



   このあたりはマランヌというところ、カキの名産地。



   まだまだ走って、港町に出た。空も青いが海も青い。

 真夏の太陽が照りつける真昼なのに、景色は秋のヨット

 バーバーだった。陸には、フランスには珍しい十階ばか

 りの高いホテルがある。それよりもなんとおびただしい

 ヨットの数、人はさほど混雑もしていない(今日は日曜

 日だ)が、ヨットの数は1000のケタを超えて10000に至 

 るのではないか。



   水族館の看板が見える。



   ルネさんは、レストランを探し始めた。潮風が快く匂

 う一軒を選んで、テーブルにつくや、

  「ウフフフ、今日はお前もゲストだから払わなくって

 いいだって、パッパが」とおかしそうにアンニックが言

 う。私は相槌の打ちようがない。



   ミックスサラダに第二皿は魚の切り身の料理。啓子は

 ****、ママンはムール貝、そしてアンニックはオイ

 スター。それらをロゼのワインで楽しむ。



   アンニックは啓子にオイスターの食べ方を示して食べ

 させ、ママンはムールを何度も啓子や私の皿に入れた。 ☆
P-41

☆  食事の最後はアイスクリームで仕上げると、そんなに

 満腹したふうにも思えなかった。



   おいし過ぎたからかというと、そうでもない。雰囲気

 が楽しかったから時を忘れたのか、そうかも知れないが

 それが主な原因でもない。やっぱしアンニックの英語を

 聞き漏らすまいと努力を続ける私が、学生時代の昔のよ

 うに緊張の解けない心理のままで食事をしたからであろ

 うか。



   しばらく散歩したあとで、

  「次ぎはね      ええと、あなたは新しいものと古い

 ものとどちらが好き?」とアンニック。

  「古い方が、いい    」

  「じゃあ、古い町へ行くわ」



   そしてやってきたのが「ラ・ロッシェル」であった。



   私はこの町に着いて、最初、(なんだ、何でもない町

 じゃないか)と思った。だから、通りに植木鉢めいた夾

 竹桃なんかを見つけて、

  「これは毒を持つ木です」なんて植物学的知識をひけ

 らかして楽しみながら道を進む。

  「そう?でも、こちらでは料理に入れるわ」とアンニ

 ックが言う。(ほんとかいな)私は疑う。



   狭く入り込んだ港に出てきた。幅百メートルあまりで

 奥行きが四百メートルほどの港だが、その入り口の幅は

 五十メートルもあるまい。とっくり型の港だった。そし

 てそのいちばん狭い入り口に、石作りの塔が三十メート

 ルもそびえている。



   港の入り口を隔てて向かい合う塔は、説明を受ける前

 にすでに「中世からこの港町を守り続けた」ことを語っ

 ていた。



   塔に近づくと、古びた鉄製の錨が、石の壁にもたれか

 けさせてあったが、その丈、およそ三メートル。ずっし

 りと時間の重みを表わしている。



   その外側も鋭角の深い入り江になっていて、今しも出

 る船、入る船の少々が見える。数キロ先の、入り江の出

 口には赤い無人灯台が浮いていた。



   外海に向かいながらアンニックは歴史を講じ始める。

  「その昔、この左側は、もちろんフランスの地、カソ

 リックの地だったわ。そのころ、フランスは全部カソリ

 ックだったけれども、ここ、この右側だけは、プロテス

 タントだったの。それで皇帝(ルイ何世とか言ったが私

 には記憶に残らない)の迫害が始まったの。



   この町は自分達を守った。けれどもとうとう食料を断

 たれて、孤立したのね。苦しい戦いをしているときに、

 イギリス、あそこはプロテスタントでしょう。だから、

 あのあたりの海に船を沢山(a lot of)集めて、フラン

 ス本土と戦い、この町を助けようとしたの。      ☆
P-42

☆  宗教の操は守りたい、しかし、祖国をイギリスに渡せ

 ない。で、この町の王様は、自分の宗教をカソリックに

 変えて、町を守ったの」



   私は事の重大さを十分に認識できないまま、

  「ほほう」と聞いている。

  「町を守った王様、領主さまだけど、操のない人のこ

 とを、ここの領主さまみたいって例えに言うのよ、今で

 も」

  「町の人は尊敬しているんじゃないの?」

  「さあ、どうだか」



   なんだか訳のわからない歴史だった。小さな港の中に

 プロペラを唸らせて水上飛行機が滑って来た。レジャー

 も今はヨットや波乗りに飽き足りず、水上や空中で楽し

 むものへと転換しつつあるのだろうか。

  「登ってみる?」本当は登りたくなさそうにアンニッ

 クは言ったが、

  「私は登る」と返事すると、

  「パパ。ママン。その辺で散歩して待ってて」と言っ

 て、塔に入った。



   中に展示室があり、昔の面影を伝える。しかし、その

 古い写真は、大半が海中から引き上げた船やその付属物

 などのものであった。だから残ったものを保存したに止

 まらず、復元を試みたのだ。



   さらに上に上がる。螺旋状の階段は非常にきつい。手

 すりの縄があるから辛うじて進めるが、もしも素手で進

 めと言われれば、その数倍は警戒や用心をせねばなるま

 い。



   アンニックの体臭を匂うほど息がはずむ。



   屋上は十坪程の円形の平坦な場であった。その周辺を

 凸凹(デコボコ)形に厚い石の壁が取り囲む。凹の部分

 からは下の町が見下ろせる。そこに首をつっこんで見下

 ろすと、真ん下の狭い水路が今にもこの足元の高所もろ

 とも引力で引き降ろしそうにしていた。足が震える。



   凸の部分の付け根には四センチほどの穴が一つずつ空

 けられている。銃眼というもので、この塔は「見張り」

 と「防衛」のために建造されたことは私にだって明らか

 だった。



   港町を取り囲む赤瓦の屋根また屋根の連なり。青い空

 に青い入り江。日本にない景色だった。しかも中世以来

 の歴史を、そのままの姿で残し、広がっていた。



   再び下に降りてから、どこかに散歩に行ってしまった

 ルネさんを探した。



  「わたしは、じゃあこっちを探すよ」私は狭い水路に

 接近する道を走った。するとルネさんは、そんな小道の

 セメントの割れ目に生えた草をむしって、匂いをかぎ、

 ハーブを探しているのだった。            ☆
P-43

☆「パッパー、アタンシオン(気をつけて)」アンニッ

 クが声を飛ばす。だがルネさんは返事もしない。(年寄

 り扱いをするな)ってとこなんだろうか。



   五人は、再びそろって歩き始めた。その小さな港の縁

 に沿って歩く。港の一番の奥のところに位置する店に、

 中世的な衣装が各種、二十着ばかりも掛けてあった。軍

 服もあれば婦人服や子供服もある。現代のものとは異な

 り、重たげな飾りやモール、レースなどが豊富につく。



   ばかりでなくビロードの多く用いられた「貴族」風の

 ものが多かった。



   店の前に立つ男に、

  「ヴァンドル?(売ってるの)」と声を掛ける。私は

 こういう軽い話し掛けが好きだ。

  「ア、ウイ」と男は椅子から立ち上がってきた。する

 とアンニックが走り寄ってきて、

  「この服は、着て写真を撮るためよ」と遮るように説

 明し、私を男から切り離した。



   その右奥の店では、

  「コニャックがあるわ。土産にいいわ」とアンニック

 は言い、わざわざその露天の販売所まで連れていった。

 しかし私は買わなかった。買う気にもならなかった。さ

 ほど値が安いとも思えなかったし、荷物にもなる。しば

 し、いじくっただけ。                              



   その辺りが小さな港の奥の突き当たりになるから、左

 に折れると先ほどのちょうど向かい側になる。

  「そこのケ−キがおいしいの。だからジャミルに頼ま

 れているの、買ってきてって」アンニックはそう言いな

 がら足を速めた。そしてケ−キ屋の一軒手前のレストラ

 ンに、

  「ここへはいりましょ」と、私たちを誘って、道路に

 出張った席を確保した。そこは西日が強く差している。

 だから私も啓子もなるべく日の当たらないような場所を

 求めるが、そんなところはない。せめて半身でも影にな

 るようにと、一番右の二列目に座る。



   彼等は一向に構わない。太陽光線なんかに知らん顔し

 て座る。顔にも背中にもまともに陽を浴びているのだっ

 た。



   (注文をしに行ったのか)と思った。が、アンニック

 は、

  「ケ−キを買ってくるわ」と隣のケーキ屋へ行ってし

 まった。(なんだかバツがわるい)と私は思った。でも

 その感覚は日本人に染み着いたものなのであろうか。



   戻ってきたアンニックは、二包みの菓子のうち一包み

 を解いた。



   中には菓子が、シュウクリームに似た菓子が詰まって

 いた。そしてみんなは、一つずつ手にもって食べ始め、 ☆
P-44

☆レストランの注文を取りにきたウエイターに、そのとき

 やっと「ジュース」とか「ソーダ」とかいった。



   コップとそれぞれの注文に応じたサイダーの小瓶様の

 ものが出て、飲みながら食う。



   アンニックのは、水のようだったので、

  「なに、それ」と聞くと、

  「水。この水、消化にとてもいい水なの」

  「どんなの」

  「やってみる」彼女は自分の「飲みさし」に少し瓶か

 ら注ぎ加えて、コップを私に差し出した。



   私は内面の「ためらい」を必死に押えながら、そしら

 ぬ顔を繕って「そのコップ」に口をつけ、全部飲んだ。



   子供のころはどうだったか、定かではないが、私は兄

 弟の間でも「飲みさし」を「どうぞ」と差し出した記憶

 はない。アンニックの「飲みさし」が生理的に何か反応

 を引き起こしたのでもない。



   もしもコップに口紅がついていれば、そんな反応を起

 こすだろうし、嫌悪を感じる人の触ったものを、拭かず

 に触らねばならぬようなとき、やはり私の生理が不規則

 な動きを示すだろう。



   しかしこの時、そういう生理的な反応は微塵もなく、

 アンニックのすることにイヤな気は全然しなかった。に

 もかかわらず私は「ためらった」。



   そんな人種的文化的差異に、ほんの瞬間こだわってい

 たので、水の本当の味はわからなかったが、ちょっとア

 ルカリかなんかを交えた水ではなかったのか。



   Hotel de Ville  とは市役所のことであった。門のす

 ぐ中は中庭とも集会所とも言える石畳の広場があり、二

 階を支える回廊の円柱の裾から内部へ通じている。



   ラロッシェルの市政は、行政よりも観光に重きを置い

 ているらしく、その回廊にいる数人の人は、いずれも博

 物館的な歴史的陳列物を拝観にきて、時間待ちをする人

 達であった。



   中庭の随所にはめられたレリーフや解説のプレートを

 見て、読んでまわる。日時計が壁に高くしつらえてあっ

 た。影がくっきりと時を有効に示していた。



   これが時には人を苦しめ、時には人を喜ばせ、振り子

 とはまた違った歴史をなぞってきたに違いなかった。



   内部の拝観に先立って、観光客十人ばかりが中庭にま

 ず集まった。陽気な娘がガイドする。映画でなら喜劇女

 優にふさわしい金髪娘だ。



  「フランス語のわからない人は手を上げて」と言った

 みたいだった。もちろん私も手を上げる。そして半数以

 上のものが「わからない」に手を上げる。



   ガイドは苦笑いした。私たち以外は、ドイツ人かアメ

 リカ人かの白人達だった。              ☆
P-45

☆ 「Parlez vous anglais?(あなたは英語を話すか)」



   私はその時、何を思ったか大声で、ヤジのように叫ん

 だ。

  「Non」みんなの笑い声の中で彼女も叫んだ。しかし 

 顔も声も笑っている。私は陽気になった。



   この町がフランスでありながらプロテスタントであっ

 たこと、カソリックの皇帝から攻められたこと、そのと

 き町は結束して自らを守ったこと、イギリスが援助しよ

 うとしたこと、など語られて行く。



   ひとしきり聞いて皆が次の部屋へ移動するころ、アン

 ニックは、私の耳元に口を寄せて、英語で「歴史」を語

 ってくれるのだった。



   私はかすかな陶酔を耳元に感触しながら、みんなより

 かなり遅れて、しかもゆっくりと、次の間の見学に移っ

 て行く、アンニックと頬寄せあいながら。

  「この戦いの絵は、歴史の教科書に載録されているも

 のなの。絵は戦いを描いているだけではなく、時の領主

 や武将など、実録として描写しているわけ。たとえば、

 領主なんかは、鎧の下から法衣がちらと覗いているわ」



   その絵は、数メートルもの長さの太い柱を組み上げた

 石投げ機であった。それが一列に数十機並んでいる。そ

 の後ろに取りついて刀を振り上げ仲間を励ますが如く指

 揮する大男や運び役のたくましい汚れ男。それぞれに命

 をかけた戦いに息つく暇なく動き働く戦士達の様子が、

 画面に綿密に記録されていた。



  「バタイユ」フランス語では、戦いをそう呼ぶが、こ

 のせわしない響きの語には、刃を打ち合わせる音や人の

 うめき、馬の蹄や重いものをひきずるきしみ、つぶてが

 鈍い音をあげて足元に落ちるときの地響きなど、すべて

 取り合わせたものが、語感として込められている。



   広い部屋があった。応接間にしては広すぎる。大きな

 丸テーブルに王様が、宰相が座るらしく置いてある。



   雰囲気からおおよそ分かってはいたが、アンニックは

 また私の耳元に寄る。



   私もそれを待つが如く耳を生暖かくする。

  「ここでconseil(コンセーイ、閣議と言おうか町議 

 会と言おうか)が結論をだしたの。領主は改宗するとい

 うことを条件にしてフランス皇帝と和平をする、という

 こと。それでここラロッシェルは救われたのだけれど、

 そういう和平の方針を出したとき、この椅子の傷ができ

 たの」



   椅子の背もたれは六十センチもあろうか。彫り物で縁

 どられ、背の当たる部分は皮が張ってある。年月を経て

 黒くなってはいるが、しっかりしている。まだ十分に実

 用に役立とう。その皮の背中が二十数センチにわたって

 やや斜め一文字に切り割かれてあった。そしてその割か ☆
P-46

☆れたときのままに置かれてあった。



  「口惜しかったんだろうね、領主は」戦いは勝ち目も

 ない。相談役は和平がふさわしゅうございます、って、

 もっともなことを言う。誇り高い領主はやり場のない憤

 りを短剣に託し、自らの椅子の背を力いっぱい切り裂い

 たに違いない。



   アンニックは女だからか、別の考えを持つのか、生返

 事しかしてくれなかった。



   私は口惜しさに青ざめた領主と息を止めて見つめる十

 二人のコンセーイ達を、この椅子の上に幻影として見な

 がらしばしも立っていた。



   テーブルの上の硝子も羊皮紙に描いた町の地図も、す

 べてそのときの恨みをとどめたままで保存されていた。



   狭い階段の途中に昔のままの地図が掛かり、ちょとア

 ンニックと雑談してから中庭に降りていくと、いま、み

 んなは解散するところであった。



  「コンプリ(わかった)?」

   お嬢さんガイドは、私に愛想を向けた。

  「トゥ、コンプリ(みんなわかった)」



   私が叫ぶと、いったん解散した観光客もガイドと一緒

 にハハハと声を上げて笑った。

  「本当ですよ、アンニックの説明で、よくわかった」



   私は、お礼の気持ちも含めてアンニックにささやく。



  「Thank you」とアンニックは幸せそうに答えた。 



   古い町並みを見ながら再び港の付近に戻ってきたが、

  「これ、教会。もとプロテスタント教会だったのを、

 だからカソリック風に変えたの」



   大きな教会だが、正面左の垂れ下がるような飾りもの

 がぎごちない。



  「こっちの方は、元あったものを壊して自ら取り払っ

 たんじゃない?」



   私は、自分の癖で、根拠もなく推測する。

  「いや、たぶん壊されたんだと思うわ」



   中へ入って広い教会内を一間回りした。寺男がパンフ

 レットを売っていた。



   私は、忘れたが、寺男に何かを尋ねた。しかし言葉が

 うまく伝わらず、そばへアンニックが近寄ってきた。

  「どういうことをきいたの?」

  「いや、もういい」そしてアンニックは寺男と言葉を

 交わして、外へ出る。

  「教会の右の部分ね、やはり自分達で壊したんですっ

 て」



   さきほどの私の推測が当たっていた。

  「今は、またプロテスタントに戻ってるの?  それと

 も-----」

  「さあ、聞かなかったわ」              ☆
P-47

☆  再びあの時代衣装の写真屋やコニャックの露天売りの

 前を通って、車の停めてあったところへ来た。もう五時

 は過ぎているが、まるでまっ昼間の感じだった。



   三十分ほど車を飛ばして、静かな町につく。

  「ピエール、ロチの町よ」とアンニックは言い、

  「聞くわ」とポリスが三人立つ路上で尋ねた。



   すると「すぐそこだ」と指を差すので、車を脇に寄せ

 て降りる。路面に足をつけたすぐ前がガラスのショウウ

 インドウで、中に「簡易キモノ」とでも言うおうか、よ

 く外国人相手に横浜あたりで売るキモノ、つまり、つる

 んと羽織って後ろに縫い着けた紐を前に回して結ぶだけ

 の代物が、マネキンにかかっていた。



   一つではない。いくつもそんな安物の「簡易キモノ」

 が、まだ午後の店が開かない大きなガラスの内側に、傾

 き、微笑み、手をポーズして置かれてあった。



   ピエール、ロチに因んで「日本」を売る店であった。



   警官の指差した方向へほんの十数歩行くと、向かいに

 やや高い、と言っても三階建て程の中ビルがあった。

  「ピエール・ロチ・高等学校」とあった。



   私の意識は、ほんの数秒だが混乱する。

 (これが高等学校?  それにしては小さい。せいぜい各

 種学校の大きさじゃないか。フランスでは小規模の高等

 学校(lyc e)が当り前なんだろうか。        ピエール 

 ・ロチは、記念にされて高等学校を作るという質の功績

 を上げた人物なんだろうか。フランス人は、かような人

 を教育的に重要視するのだろうか)



   見ようによっては「植民地主義の尖兵」か「後進国の

 民、蔑視」の典型て人物であろう。



   私が、自分の想念を表現できる言葉にまで整理できな

 いでいるときに、

  「ポリスも知らないのよ、ロチの家を」とアンニック

 は愚痴って、

  「私はこちらの方をさがすわ。ママン、向こうを頼む

 わね」と四つ角を西日の方へ歩いて行った。

  「私たちもママンと同じ方を歩いて見る」私は急いで

 アンニックに告げた。ママンは年をとっているし、足元

 がおぼつかないため一人で放っておけないと思ったから

 だ。私たちはアンニックの反対、つまり海のあるほうへ

 歩く。



   次の四つ角に近づくころ、その向こうの路上に、向か

 い合う二階と二階から紐が二本引かれて、細い字が掲げ

 られてあった。



  「あった」 ---  MAISON DE PIERRE LOTI --- 。



   アンニックはもう二百メートル以上も離れていた。背

  を向けているから声は届かない。そそのとき、

  「私が言うて来るわ」と啓子が言って、アンニックの  ☆
P-48

☆方へ走り出した。(お前、どうやって言うの?)私は口

 元まで声が出かかったが、辛うじて止めた。自分だって

 ろくにコミュニケーションは出来ていないのだ。心配す

 るな。



   案の定、すぐさまアンニックと啓子とは戻ってきた。



   今日は日曜日だから展示はない、と私は信じている。

 だからせめてこの家の雰囲気だけでもカメラに収めよう

 と、

  「ここは、ピエール・ロチの家です。ここには--- 」  

 と、板囲いに掲げられたプレートを撮影しながらナ

 レーションの声を上げている時、後ろの方で、パタン、

 パタンと窓か雨戸かを勢いよく閉める音がした。



 (あ、ここに人が住んでいるんだ、だからプライバシー

 を勝手に覗かれてたまるかって、意思表示して強く「シ

 ャットアウト」してるんだ)と瞬間的に思って、ナレー

 ションの声を小さくする。解説も中絶する。



   しかしルネさん達は、なぜか急にその中に入っていっ

 た。ためらう私も、中の声があたかも争うごとく大きい

 ので、そっと入ってみた。



   すると、若い男と中年の婦人が、受け付けのようなカ

 ウンターに座って、ルネさんとアンニックの抗議に、困

 った表情をしながらも「ノン」「ノン」と言っている。

  「昨日電話したら今日は休み、って言ったでしょう。

 だからこの時間(六時)になったの。今からほんのちょ

 っとでいいから、見せて」アンニックは説得調でやる。

  「日本から、----- 遠いところから、ほら、ジャポネ

 が来たんだ。いいじゃないか、ちょっとの時間」ルネさ

 んは、そう言っているように見えた。



   数回そんな繰り返しのあと、ルネさんは諦めた。残念

 そうな顔で引き下がろうとするとき、職員はカウンター

 の上のパンフレットを片付けようとした。すかさずルネ

 さんが、

  「あ、これ、くださいよ、いいだろう」とやった。

  「ウイ」と若い男が妥協する。そこへ私も身を乗り出

 した。すると、奥にカラー刷りのもっと立派なパンフレ

 ットが見えた。

  「ジュ,ヴドレッ、セルイラ」



   私も雰囲気に飲まれて、権利を主張する。と、男は私

 に渡す。



  「コンビヤン?」男はなんとかと答えた。私は十フラ

 ンか五十フランか、お札を、これで足りるだろうとばか

 り差し出した。



   男はしばしためらって受け取らない。

 (なぜだ)と思う間もなく、ママンが、確か百フラン札

 を横から差し出し、男はそれを受け取って釣り銭を数え

 始めた。                      ☆
 
P-49

☆  私には何も分かっていないのだった。恥かしいことだ

 った。



   分かった顔ををして「フランス語」らしき言葉を発す

 る。そして通じたと信じて悦に入っている。だが、だめ

 なのだった。何にも分かっていないのだった。



   この人気の少ない町にも、美しい緑の公園があって、

 今だれも散歩してはいないものの町の人に潤いをもたら

 しているに違いなく、メリーゴランドまでが絵本のよう

 に緑の芝生の上に、今にも回りそうに鮮やかな色で構え

 てあった。



   ママンが先ほどの展示館のカウンターに眼鏡を忘れて

 きたので、弱い足に拍車をかけるようにもう一往復した

 のだった。だからこの公園のベンチでしばし休息する。



   時間はもう午後の六時だった。



   アンニックの車は、かつて王室の船遊び場だったあた

 りへ走っていった。いまでも艇庫の数がおびただしく、

 川のような入り江には、ボートやヨットがつながれてあ

 る。しかしそれで遊ぶ人はあまり見かけなかった。



   町外れの車道では、正直に言えば、いつも生命の危機

 を思うような走り方をする。速いのだ。それでもアンニ

 ックは、ガイドの務めを果たそうとして、話す。



  「けどね、お菊さんは、本当の妻ではなかったんでし

 ょう」



   私は、女であり人妻でもあるアンニックの表情を斜め

 後ろから盗み見ながら、言った。

  「Yes, --- 」やはり多くをしゃべらない。

  「マダムバタフライと同じように、日本にいるときだ

 けの、ホステスに過ぎなかった」

  「Yes」

  「彼はそれを懐かしんで小説を書いたんでしょうが、

 歳老いたオキクさんは、ピエール・ロチのことを覚えて

 いなかったんですよ」

  「 ---- true ?」アンニックは信じられんという顔を

 した。

  「It's true, I think. A certain novelist wrote, 

 OKIKU-SAN  knew  only  the  name  GILLAUME. But

 she couldn't remember Pierre Loti.」   



   芥川龍之介は「花火」の中で、オキクさんならぬ「明

 子さん」に、かつて「花火のようなvie(ヴィイ=命、 

 生涯)」を語り合った海軍将校のことを、人に問われ、

  「いいえ、その方の名はロチではありませんわ」と言

 わせている。



   正直なところ、私には芥川龍之介の描写意図が分かっ

 ている訳ではない。しかし皮肉なことに「花火のような

 Vie」を説いて異国の美少女と陶酔に浸る青年は、次に 

 はまた別の空の花火をも観賞しただろうが、夏の夜の夢 ☆
P-50

☆から覚めて長い現実をふりかえる女が、

  「そういえば、そんな夢も見たわ」と、男の「情熱」

 を冷めた、あるいは醒めた意識で思い起こすとき、過去

 を美化した「おクキさん」などという異国人の作品のご

 ときは「独りよがりのほざきごと」に過ぎなくなってし

 まう。



   私は、お菊さんが現地妻にしか過ぎなかったことだけ

 を話題にして、それ以上は話さなかった。



   車は、「もう一か所、行く」というアンニックの言葉

 に従って、川下のだだっ広い野を走り続ける。時々、灌

 漑用水ぐらいの流れか淀みかがある。



   ここには塩水が流れ、淀むらしい。道端にも、だから

 葦や柳の類が生えている。



   小砂利をブッブッとタイヤの下からはじき出して、た

 どり着いたのは、一辺が一キロメートルの石作りの城壁

 に取り囲まれた中世的な町であった。四つの角には、ド

 ーム形の見張り台が一つずつ張り出している。シェイク

 スピアの劇中の「城門」が、角角に乗っかっているみた

 いだ。

  「ブルーアージュよ」とアンニックが言った。



   古い町には違いなかったが、どういういわれや値うち

 があるのか、聞くのも、もうかなり疲れいたし、話すア

 ンニックにも、もうあまり意欲がないのかもしれなかっ

 た。



   城門を入ったすぐ右に、オフィスがあって、案内書や

 絵葉書を置いている。十七世紀半ばにできた城壁という

 から、そう古くはないのだが、こんな形の建造物として

 はいちばん後世のものだったに違いない。中の民家は、

 普通の田舎のものと少しも変わらぬ赤瓦を乗せ、漆喰の

 壁にプレートをはめた板戸で、何の変哲もない。時々自

 動車が砂煙をあげて走りすぎるのは多分、この真ん中を

 街道が通っているからだろう。



   何軒かの前を通りすぎて、土産もの売り場みたいな場

 所があった。どうしてかインディアンの細工なんかがあ

 る。関心も示さず通りすぎると、公園風の広場に塔と記

 念碑があった。そこにフランスとカナダの国旗とが並ん

 ではためいている。

  「どうしてカナダなの?」



   するとアンニックは、記念碑に刻まれたある部分を指

 差した。



   そこには「Samuel Champlin が新しいフランスを作っ

 た」とあった。つまり、カナダにはケベックという州が

 あり、そこは公用語をフランス語としているが、それは

 この地出身のこの男が、いつの時代かインディアンの地

 に植民地を築いたのだ。



   私に感動があろうはずはない。           ☆
 
P-51

☆  かつて私たちだって「台湾の蕃族を征伐したのは誰、

 総督府を構えたのは何時」などと書かれたものを読んだ

 のは、日本人が無反省に植民地を求めていた時代のこと

 だった。樺太も太連も、もちろん朝鮮半島もその地に住

 む人が主権を有するべきで、異国のよそ人が差し出がま

 しくも、発見や建国などと「無力な民」に「恩恵」を施

 したごとくに言う必要はさらさらない。



   城壁の上にのぼった。どの方向もはるかに荒れた野が

 見やられる。牛がいるでもない、また羊が草を食むでも

 ない。半ば枯れた草の間に、塩水を淀める川が入り組む

 ばかりだった。



   足元の芝生や草は、この夏のさなかに、あたかも冬草

 のように枯れていた。

  「これまではこんなことはなかったのに、昨年に続い

 て今年も、雨が降らないので草が枯れてしまったの」



   アンニックは、何時、知識を仕入れて来たのか、そう

 解説した。



   時刻はほとんど八時であった。しかし陽はまだ高い。

 私はみんなより少々遅れていることを知りながら、わざ

 と遅れて絵葉書を買った。



   たった二枚の絵葉書だったが、ここの売店の小母さん

 は役場の吏員のようにキチンとして、親切、言葉遣いも

 丁寧で、封筒に入れてお釣りとともに差し出すとき、

  「メルシー、ムッシュー」と優しく謝した。

  「ウイ、マダーム」こちらも紳士だ。気持がいい。

   車をぶっ飛ばして帰宅。

   それにしても夕食まであまり時間はかからず、昨夜と

 同じく、ファーストディッシュはメロンから始まる。



   野菜サラダ。次は何の料理だったか、もう忘れてしま

 った。トマトいためのご飯だったか、肉か魚の料理だっ

 たか。確かに覚えているのは一つ。食後のデザートにケ

 ーキが出た。アンニックが、

  「これ、ラロッシェルで買ったあれよ」と言う。

  「え、どこで?」

  「ほら、あそこ」



   あの時(ジャミルに頼まれた)と彼女は言ったので、

 てっきりジャミルが食べるのだと私は信じ込んでいた。



   ジャミルは、夕食後のデザートを買ってくるように

 「頼んだ」ってわけ。柔らかい甘さと果実の酸味が調和

 よく並ぶ味わいだった。



   十時、きっとルネさんも疲れママンも疲れているに違

 いない、と、

  「ボンニュイ。ビアンドルミール」と私たちは二階に

 上がった。



   このことをルネさんが、やや心配して、その後、私に

 置き手紙したのも知らず、私たちは風呂をして、ベッド ☆
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☆に上った。                                        





 ■  七月 三十日  ■ 

 

  7/30   Royan    Saintes      Bordeaux(St.Jean)

          11:38---12:10 12:19-------13:51

   Mon    宿さがし           

          Cours de la Marne   ヴィクトワール広場    

          Port d'Aquitaine   Rue Sainte Catherine   

          Maison du Vin de Bordeaux   

                                                  

   おいとまする朝、六時過ぎには早くも目が覚めてしま

 った。私だけではない。



   フランスの日中が長くて夜が遅くても、私たち日本人

 はこの時刻に「生活」が始まる。



   しかし部屋で何かをすれば、階下の皆さんに迷惑でも

 あろう。私たちは昨夜から出発の用意(荷づくり)が既

 に済んでいたので、そっと階段をおりて、台所を通らな

 いで食堂から庭へ降りようとした。するとテーブルの上

 に、置き手紙のようにメモがあった。



 「I am sorry you did not stay a long time. Please,

 another time 下さい you will stay a longer time. I

 shall try to improve my 頭」



   私はそのメモを握ったまま、そっと部屋の扉を外へ向

 けて押し開き、庭木の下の柔らかい土に出た。



   桜のような木もあったが、果樹がほとんどであった。

 無花果や梅のような木には実が成っていて、梅はちぎっ

 て口に入れるとパリで食べた「プリューム、ルージュ」

 とそっくりの味がした。時間潰しだから、ゆっくり時間

 をかけて、その庭を詳細に観察しながら歩く。門の外の

 道路の向こう側にも農園があった。そこも夏のメゾンな

 のだろう、ちょうどそのとき、一人の男が鍬をもって、

 上半身を屈ませながら手入れをしていた。

  トマトや豆などが栽培されてあった。六十はもう可な

 り前に過ぎた感じのその男の、顔は西洋人でも力に耐え

 て鍬を引きずる尊い苦悩の情は、日本の百姓のそれとま

 ったく変わらない。この感じは、マーロン、ブランドが

 ゴッド、ファーザーを演じて、トマト畑で心臓発作で死

 ぬときの、あの雰囲気とも同じであった。



   やや寒かった朝の冷気に昼の暖かみが加わりかけたこ

 ろ、

  「ボンジュール。ビアン、ドルミール、アン?」とル

 ネさんが声をかけた。



   台所で朝食をとった後、私には何故か突然に感じられ ☆
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☆たが、ルネさんとママンが、浴衣を着ると言いだした。



   私たちは着付けを手伝う。そして庭と家との狭い通路

 に二人は並んだ。アンニックに撮影を促し、その後で私

 たちも入れて四人で写真をとった。



   これがルネさんのメゾンを出る直前の行事であった。



   私のヴィデオは、このときテープが終わりになって、

 ここでテープの入れ替えをしている。



   この入れ替えが、私には、だぶん人生観にさえ関わる

 ような重大な節目であった。私が、いわば精魂込めて敢

 行した「フランス旅行」の「生の記録」は、成田出発か

 らこの場面までで終わりになったしまったからである。



   アンニックは「まだ時間はあるし、もう二か所、案内

 する」と言って、車に誘った。



   車には前日同様、ルネさんとママンが乗る。

   特にジャミルとは丁寧な挨拶をして、車は出発した。



   最初、教会に連れていった。

  「この教会は、まったく新しいのよ。本当は私は新し

 い建造物よりも古いものの方に興味があるんだけども、

 珍しいから案内するの」



   歴史に造詣の深い彼女は、こんなとこにもこだわりを

 見せながら、大きな教会に近づいた。



   中に入る前に立ち止まって、その正面上の、避雷針を

 兼ねた尖塔をまぶしく見上げる角度で説明した。



  「何に見える?」

   いきなりの質問で、「 ???  」、その意図を図りかね

 ていると、

  「ほら、ね。船よ。船にマストがあるでしょ。それを

 象(かたど)って作ってあるの。この教会すべてが、い

 わば船なの」



   そう言われればそうだった。巨大な近代的な船が、青

 い空の下、地面ならぬ海洋面に浮かんで、マストを天に

 そびえさせている。そして私たちは前庭ならぬ甲板に立

 って見上げている。



  「Ah, we are now on the deck.」

  「Yes and we are looking up the masts.」



   中に入ると、広い。天井を見上げ、それが甲板を真上

 から鳥瞰した様を形作っているのを容易に理解する。正

 面、いちばんの奥には、たぶん「ご本尊」さまがあるの

 か、一段と厳かで、中空にパイプオルガンが仕組まれて

 あった。



  「オルガンですね。あのパイプは日本のバンブーを用

 いるのですよ」

  「No, I don't  know.」

  「ところで、結婚式はあの前でするの?」

  「No, not this side.」

   その反対側にも祭壇があって、教会の東側の三分の一 ☆
P-54

☆が式場用になっていた。

  「ヴァージン、ロードは?」

  「ここ。こういうふうに敷物を敷くの」アンニックも

 女、その気になって目を細めながら両手をそろえて長く

 振り、通路を示した。



   去るとき、彼女がマリアさまにひざまずいたところを

 見ると、昨日の日曜に教会へは行かなかったが、クリス

 チャンなのか。



   出口への通路に大鍋があった。

  「これでバプテスマ、するの」

  「ああ、クリスチャンになるのだね」



   出口のすぐ左脇には、ステッカーが張ってあり、アン

 ニックが笑いながら説明した。



  「今では若い人はあまり教会へ通わないわ。だから、

 こんな広告を、教会が張り出すのよ」

  (君も教会で洗礼を受けよう)みたいなことが書かれ

 てあった。



   次に巨大なリゾート地の、浜側ではなく、住宅側に来

 た。植え込みを豊富に混ぜた通りの右側は海水浴場にな

 るが、左は二、三階建ての、マンションかアパートが、

 いずれも表を海に向けて、視野の続く限り並ぶ。

  「これはホテル?  でしょう」

  「いえ、アパートなの」

  「え?  誰が借りるの?」

  「行楽客が、夏の間だけ二か月、借りて、ヴァカンス

 を楽しむの。老人なら海を見るだけ。若者なら泳いだり

 ヨットしたりよ」



   夏の間だけのアパート。普段は三千人あまりの人口だ

 が、夏には四十数万人にふくらむと言う。フランスの各

 地からだけでなくドイツからもやってくる。しかし、日

 本人の姿はほとんど見かけなかった。



   ルネさんは、さきほどから何かを拾っていた。近寄っ

 てきて、啓子に手渡したものは、ピーナッツの半分ぐら

 いの松の実だった。したたかに実が入っている。



  「高価なの」とアンニックが解説した。

  「そのまま食べてもいいし、お菓子(ケーキ)に入れ

 たりするわ」



   そしてそんな会話を、私たちは別れを意識しながら、

 寂しげに交わした。



   時間の残りは殆どなく、駅へ行く途中で事故か何かに

 遭おうものなら、私たちの予定が狂ってしまう、そんな

 危ない橋渡りにさえ思えていた。



   だからロワイヤンの駅で、列車を待つ時間はさほど長

 くはなかった。



  「一等だから、あの辺です」と私が待つべき場所を示

 したとき、                     ☆
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☆「一等なの?」とアンニックが言った。



   贅沢なのね、と思ったのだろう。



   デッキに上がった後の、動き出すまでの何分か、何十

 秒か。

  「本当にありがとう。ムッシュウ、健康に気をつけて

 ね。ママン、健康に気をつけてください。また会えます

 ように」



   私は乏しい語彙で繰り返した。



   アンニックが、

  「フランス式のやり方でお別れしましょ」と、首の後

 ろに手を回して、両の頬に唇を当て、チュッ、チュッと

 吸った。私は涙して、感激していた。しかし、言葉はそ

 れに伴うはずもない。



  「---   I'm sorry, I can't express my heart.」



    私は涙声で叫んだ。



   列車は動き始めた。私は一歩上に上がって手を盛んに

 振る。



   車掌が気を利かしてか、ホームを離れるまで、扉を閉

 めなかった。そして、数分の後にやっと席に座ることが

 できた。



   別れは寂しい。けれどその感傷は快い。



   ロワイヤンからセイントまでは、わずかの時間で、だ

 から列車もローカル用の短いものだった。



   車掌に切符を見せながら、「ボルドーまで行く」と意

 思表示してある。だから、セイントのホームで、

  「あちらのホームで待ちなさい」と教えてもらった。



   ホームに降りても、また、

  「このホームですね」と確認する。



   乗り換えたのも、やはりローカル列車だった。林が車

 窓の視界を遮りながら走るが、それでも時には畑が広が

 る。それはほとんどがひまわり畑だった。でなければと

 うもろこし畑。



   ルネさんはインディアン、コーンと呼んだが、たぶん

 牧草の代わりにでも栽培するのだろうか。コンバインの

 運転台だけのようなものが、無人で畑の中に放置され、

 長いホースを引きずって、スプリンクラーが水を蒔きち

 らしていた。



   駅の付近には、どんな田舎でも十軒ばかりの家があっ

 て、そのうちの一つには"Hotel"の看板が出ている。そ 

 の名前も"Hotel de Gare"(駅のホテル)とか、"Hotel 

 Francais"(フランスのホテル)などと「大きな」名を 

 付けるのは日本と似ていて面白い。



   しかし名のわりには、隣り合わせの民家と少しも違わ

 ないし、どうかすると"CAFE"の方が立派だったりする。



   さて、そんな田舎駅よりもっと寂しげな駅があった。

 引き込み線やホームの数だけは他より多く、がらんと広 ☆
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☆い駅には、駅員用の駅舎が林の奥に見えるだけで、付近

 に民家もなかった。国鉄職員が二人、この列車から降り

 て駅舎の方へ歩く。勤務明けなのか、足取りも軽い。



   その一人が、こちらの方をじっと窺いながら歩く。



   私は、手を振った。ロワイヤンからセイントまでの車

 掌で、私から乗り換えホームを、二度にも渡って質問さ

 れ、そしてていねいに教えた男であった。私は感謝の気

 持ちを込めて手を振った。彼も手を振った。



 (心配だなあ、あのジャポネ)と思っているのかも知れ

 なかった。



   再びひまわりやインディアンコーンの畑があったり、

 林の中に道路が吸い込まれていったりする景色を見続け

 ながら列車は走る。



   そんな野を抜け、やや高い林に入ったかと思うころ、

 大きな川の上に出た。木曽や揖斐の規模ではない。図抜

 けて大きいこの川は、まるで洪水のさなかのように泥を

 溶いた水を上下させながら満々たるエネルギーをみせて

 流れていた。



   列車は泥水を左から右に見ながら鉄橋を渡る。川の向

 こうにビルや塔がいくつも見え、都会が息づいていた。

 そして鉄橋の巨大な鉄の構造がそのままボルドー駅に接

 続しているような感じで駅に入った。



   駅は、巨大な建造物であるだけでなく、大理石などふ

 んだんに使って、ハイカラな、シックな、そしてアリス

 トクラティックな雰囲気を出していた。日本の雰囲気で

 は、駅というよりむしろ空港のようだった。



   私たちはいつもそうだが、新しい街に着いたあと、し

 なければならないことが二つあった。



   一つは次の列車の確認と座席の確保。もう一つはホテ

 ルの決定。これをしないと落ち着いて観光できない。



   駅を出たすぐ前の広場の街灯の根元に、リュックと荷

 物を置き、そっと周囲を見回す。



   用心深く気を配りながら本を見た。駅の周りにはいく

 つもホテルがある、と記されてあるとおりに、見回せば

 一つの視野に四つも見えるではないか。



   しかし、本に紹介されている感じのいい清潔なビジネ

 スホテル風の"Hotel Arcade"は見えなかった。



  「おい、あの辺まで行って見てくる。で、すぐ戻って

 来る。ええか」



   啓子をこんな町角に一人残して、なにかあったら大変

 だ。五歩行っては振り返り、十歩行ってはまた振り返り

 して、このようにこわごわ歩きで、広い駅前広場を通り

 に沿って下って行った。



   三本目の通りが見通せるとこまで下がって、しかしそ

 んなホテルの名は発見できなかったので、

 (十も二十もここからホテルが見えてるんだから、この ☆
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☆どれかにアッタクすればいいさ)と覚悟を決めて戻ると

 きに、

  「あった、こんな近くが目にはいらなんだのか」と、

 啓子のすぐ傍で私は叫んだ。



   駅前の通りを三十メートルも行かないところに、九階

 建ての白いホテルがあった。



   フランスのビルディングは、どれもくすんで、しかも

 四、五階止りだが、これは日本で見かけるのと同じよう

 に白くて新しかった。



   フロントには若い女がいて、尋ねると部屋はあった。

 〔275Fr 宿泊  64Fr 朝食〕 



   昼飯は、このときまで食べていなかった。ルネさん一

 家と別れてからそんな時間も場所もなかったからだ。



   301号室は角にあってエレベーターに近い。ともかく 

 シャワーを浴びて、靴下や下着など、ホテルの小さい石

 鹸で洗って、持参の物干し用のロープを、室内の調度な

 どを利用して張った。



   最初は私がパンツや靴下などをそれに掛け、次いで啓

 子がシャワーの後で自分のものを干す。すると約三メー

 トルのロープもそれでいっぱいになってしまう。そのた

 め幾分か部屋が狭く感じられる。けれどもそこに「安心

 感」も醸し出される。こうしておけば数時間の内に乾い

 てしまう。私たちは新しいものに着替え、町へと出かけ

 た。



   駅前からアキテーヌ門まで行くのに、ちょと横着をし

 たため、回り道をしてしてしまった。



   Cours de la Marne という大通りを歩けば問題はなか

 ったのだが、昼飯をまだ食べていなかったために、ちょ

 っと何かをスナックして、その後でメイン通りへ行けば

 いい、と勝手な計画を立てたからだ。



   駅前を左へはずれた辺りには、ありそうでレストラン

 がなかった。諦めて人気のない通りを、だぶんこの方角

 だろうと右へ折れる。しかし確信が持てない。     ☆

七月三十日のつづき
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