背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             

















 

P-57(つづき)

☆だろうと右へ折れる。しかし確信が持てない。



   いっそ引き返そうかと焦るころにやっと前方にアキテ

 ーヌ門らしい景色の見える通りに出た。しかも門までは

 もう三百メートルもない。すると元気が出て、

  「あの門まで 行ってから、何か食おう」と言いなが 

 らペースを速める。



   ここはヴィクトワール広場。九本の道が放射状に集ま

 る。北よりちょっとだけ西に、凱旋門のような煉瓦の大

 門があり、これをアキテーヌ門(Porte d'Aquitaine) 

 と言うのだった。回り道をして疲れていたし、お昼もま

 だだ。このままスイッと通り過ぎるのは惜しく思われ、

 門を反対側に望む場所のレストランの、通りに張り出し

 た席に座って、フランス人がするようにギャルソンを待

 った。                       ☆
P-58

☆「ビール、ドゥ」そう言って荷物を降ろし、カメラを

 出して辺りの雰囲気、特にこの凱旋門を写す。



  「ここは、アキテーヌ門です。ここからワイン博物館

 をめざして歩きます」などとナレーションの声を張り上

 げながら撮影していると、珍らしげな面持ちのボーイが、

 細身のグラスにビールを入れ、丸いコースターに乗せて

 から、去っていった。



   一握りほどのポテトの角チップフライも、ちょっと塩

 気があって、つまみには乙だった。お代りをする。



   そこからまっすぐに進めばいいのだが、これが歩行者

 天国になっていて、実に気楽に歩ける。



  「なにかええもんがあったら、買うて、食べながら歩

 こか」



   まだかなりお腹はすいていて、私はこう提案した。



   ゆったりと散歩するがごとくに漫歩するボルドーびと

 に混じって歩くうちに,左の店にサンドイッチ風のスナ

 ックを売るところがあった。



   近寄って「買うたらどう?」と啓子を誘う。つまみ食

 いによさそうな代物だったが、私の分は買わなかった。



   もっと「ええもん」がこの通りにはありそうな気がし

 ていたし、それに出会ったとき、胃袋が余裕をもってい

 なければならない。だから、これもありきたり、これも

 よくある食品、と評価を下しながら歩くうちに、店のガ

 ラスケースに、日本のすり身の揚げ物によく似たものが

 並んでいて、(フランス人もこんなものを食べるか)と

 思ったとたんに、(ここに入る)と決めていた。



   口にあいそうなものを二、三決めて、店員に、

  「Puis-je manger ici(ここでたべてもいい)?」と

 聞くと、

  「あ、ウイ」と奥のテーブルを指差したのは、なんと

 東洋人。中華料理の店であったことにそのとき初めて気

 がついた。



   欲しがった食べ物を暖めて出すまでの間に、店内を眺

 め回す。そして、なぜか落ち着きと懐かしさのようなも

 のがジワっと、椅子に座った背中から染み込んでくるの

 を感じていた。雰囲気もどことなく違う。そうだ、愛想

 が違う。



   西洋人は「愛想」を売らない。下手(したて)にかし

 づかない。対等な目で見つめて、客に注文を求める。し

 かし、東洋人は食べていたたけばありがたい、と身振り

 で、行動で表現している。



   お客は「ご主人」さまに該当する。だからかしづく。



   何を食べたか今となってはもう忘れてしまって残念だ

 が、春巻か揚げ物かビーフンか、そんなものをつまみな

 がらビールを飲み、楽しんだように思う。後ろの席には

 フランス人の家族が食事をしていて、私たちに関心がな ☆
P-59

☆いのかと見えたが、終わりのころに何かのきっかけで話

 しかけたら、堰を切ったように話しを返してきた。かれ

 らもこの東洋の料理が好きなようであった。



   再び歩行者天国の通りを進む。海軍の服装が多い。フ

 ランスの海軍ばかりでなく、イタリーのも歩いている。

 ここボルドーは、軍港になっているらしい。そして道を

 歩きながら水兵どもは、ガールハントの腕比べをしてい

 るようだった。あるものは、気取った娘にタバコの火を

 わざと借りたり、時刻を尋ねたり、一言のすげない返事

 で通り過ぎようとするニヤケ娘に、乏しい話題に尾鰭を

 つけて粘ったりしていた。



   道は次第に大きな看板が目につくようになり、多分、

 裏町では性を売り物にした映像や営業が、飢えた水兵の

 数時間をカモにしようと、その門口を貪欲に広げている

 のではないか、と思われた。



   残念なことだが、私はその裏町へ「観光」しようとい

 う気持ちも全く起こらなかった。



   道はつまって、放射状の交差点になる。地図は目的地

 に着いたことを教えていた。つまり、斜め前方の建物が

 「Maison du Vin de Bordeaux( ワイン博物館)」なの

 であった。



   西日の当たる方側から入ろうとしたが、厚い硝子のド

 アは開こうとしなかった。入り口はどこなんだ、と反対

 の影の側に回る。すると半間ほどに開いたガラスの扉が

 あって、押すと内側に開いたが、受け付けもなければ入

 り口らしい雰囲気もない。そこへ人が出てきた。時間で

 閉るから仕方なしに出てきた感がある。



  「どこから入れるの」私は出てくる一人に聞いた。

  「いや、もう終わった」



   時計は六時を、わずかに二分過ぎていた。



   ヨ−ロッパはすべてこれだ。いや、これでいいのかも

 しれない。オランジェリーだって五時閉館なのにそれよ

 り早くからお客を追い出した。遠路はるばるここへ来て

 も、それはこちらの都合だ。時間になればキチンと閉め

 るのは当り前。



   しかし,私たちの落胆は計り知れない。計画では、こ

 こでワインを幾本も買って、日本まで送ろう、というの

 であった。



   残念さが去りやらぬまま、しばらくこの建物のそばに

 たたずむ。最後のお客が出ると、ガラスの扉は、カチリ

 と音を立て中から閉められる。



   それははっきりした「宣告」であった。だから私たち

 は再び西日のきつい通りを、力なく歩きはじめる。ワイ

 ン屋があって、ショウウインドウには、五本詰め、十本

 詰めのワインが並ぶ。値段も日本よりははるかに安く思

 える。                       ☆
P-60

☆ 「やっぱり買おうか。土産はこれを予定しとったんや

 から」と立ち去り難く迷うが、日本でならば(どれにし

 なはります。お値うちでっせ。よそで買うたら、三倍は

 しまんがな)なんて、ためらいの多い私に踏ん切りをつ

 けてくれる。



   しかしフランスではそうは行かない。いくらためらっ

 て覗いたり、瓶を手にとって見ても、知らん顔をしてい

 る。



   日本人にはその態度が(おまえには買うていらんわ)

 とでも意思表示しているように思え、もうええ、と外へ

 出た。



  「どうするの、何にも買わんと」と啓子が責める。

  「ええ、どこかにええもんがあるはずや」あてもない

 のに我を張って、もと来た道を戻った。



   スーパーマーケットにもひとつ入り、二、三軒、洋服

 屋も見て、疲れた私は浮浪者のように店の入り口の石段

 に座り込んだり、道路の真ん中の街灯の根元のセメント

 ブロックに腰を掛けたりして、啓子のショッピング欲の

 収まるのを待つ。



   最後の一軒では協力を求められた。通訳だ。



  「試着してもええか」これはすぐ通じ、売り場の隅に

 案内される。二十代後半の女性だ。



  「もっと明るい色、ないか」

  「長すぎる。短いのないか」



   すると、店主らしきおじさんが現われて、つまみ、引

 き上げ、縫い直しをすぐする素振りを見せた。



   それじゃ買わねばなるまい。そこで、

  「これは若く見えすぎる」と主張し、

  「気に入らなくてゴメン」と店を出る。どうせ買わな

 いものを、啓子はいつもこうする。



   私はそれが実はイヤなんだ。でも、店員、西洋人にし

 ては愛想がよかった。

  「ド、リアン(どういたしまして)」と微笑んだ。



   私のヘアー、リッキッドが残り少なくなっていて、こ

 の町で買おうと、雑貨屋に入る。



   何でもありそうで、棚を探すが、しかし、ない。



   中年のおばさん売り子に聞く。



   私の言葉では意を尽くせないから、身振りも含めて言

 う。

  「髪に、こうしてかけてアレンジするものある?」

  「?シャンプー」

  「ちがう。シャンプーした後に使って、髪の毛をキレ

 イにするの」

  「ああ、カラー……」白髪染めじゃない。通じないな

 ら仕方がない。

  「わたしは、自分でさがす。ありがとう」と誇り高く  ☆
P-61

☆宣言したが、この広い店の中には無かった。



   西洋人は「整髪」もしないし「整髪料」などと言うも

 のは知らないのだろうか。



   歩いて歩いて駅まで来た。駅に「ワイン博物館」の支

 店があるとガイドブックにあったからだ。



   あったが、閉っていた。



   翌朝、乗車前にここを訪れると、愛想のいいオネエチ

 ャンが、

  「日本に送るのは、ここではできないから、駅の外の

 郵便局に持っていってもらうの。けど、高いの。だから

 勧められないわ」私はスナオに従った。

  「汽車の中で飲むの、買ったら」と五本入りの木箱を

 示され、啓子は土産にしようと食指を動かしたが、イタ

 リーくんだりまで運ぶのも大変だし、結局、買わなかっ

 た。



   この日の夕食は何を食ったか覚えていない。スーパー

 で買った物を食っただけかも知れない。



   夜、カナダからの団体さんが、ホテルで騒いでいた。

 日本人だけが「農協さん」じゃあない。バスを連ねて長

 い列を作り、フロントに並んだこの団体、興奮して寝ら

 れるかって顔したおばさん連中が、三々五々、友達の部

 屋を訪問し、扉を開いたままで談笑する。



 (いつまで騒いどんのや)と、修学旅行ならドナりに行

 くところだな、と苦笑いする。

 「旅行気分」はお国変われど誰しも変わらないらしい。



                                                  

 ■  七月三十一日  ■  



   7/31     P128(Table139)       (Table139) 

           Bordeaux(St.Jean)    Toulouse        

   Tue      9:07  ------------ 11:20 11:39 ---  

           P148(Table162)                         

              Narbonne            Arles            

            ---13:08 13:10 -------15:20   宿さがし   

           市内見物P332                          

           ドーデー文学の背景とその世界に浸る  

                                                  

                   ※  Pageは時刻表、ガイドブック

  

☆  ホテルの朝ご飯がヴァイキングだからうれしかった。

 たっぷりと食べる。



   隣のテーブルに日本人がいたが、日本人はなぜか日本

 人にしゃべらない。黙ったまま食っていた。



   荷物をもって予定の列車に乗る。今日はタカをくくっ ☆
P-62

☆て、座席の予約がしてない。コンパートの外の表示を確

 かめて、フリーの座席に入ろうとしたが、うまく行かな

 かった。すぐ人が来て、立たなければならなかったから

 だ。



   仕方なく隣のコンパートへ移ると、

  「どうぞ、○○までは空いていますから、それまでど

 うぞ」と積極的に言ったのは、肥満もそうとうなお嬢さ

 ん。私にも劣等感を感じさせない英語だが、なかなかの

 多弁。



  「英語がうまいじゃない」と言うと、高校時代から英

 語が好きだった、そうだ。直径二十八センチもあるよう

 なピザをかじりながら、

  「どうですか、よかったら」なんて、私にも、ほかの

 人にも勧めていたが、だれも、じゃ、いただこう、なん

 て言わなかった。



   世話ずきとみえ、

  「この席とこの席は、○○までならノン、リザーブ、

 □からはこことこことは人が来るけど、ここは空くわ」

 と、私たちはわずかの移動をすればこのコンパートでア

 ルルまで過ごせることを証明して見せた。



  「どうしてわかるの」

 と私が聞くと、

  「外のカードに書いてあるわ」と言った。私もていね

 いに見たのだが、わからなかった。



   彼女とはよくしゃべった。語学力が似てるからか、と

 ぎれなく会話が続く。



   私がなぜフランスに来たかということや、彼女の環境

 など、あてどなく果てしなく会話する。



   彼女はカンヌの市役所に勤める。教育委員会の事務職

 だが、仕事の中身は給食に関する経理のようであった。



   日本と同じように小学校では給食がある。おばさん達

 が食事を作って、彼女はその会計をするのだ。私が彼女

 も現場で食い物を作るのかと尋ねたから、彼女は言い訳

 ぎみにそう言ったのだ。



   読書が好きだそうで、

  「フランスの作家のどんな人を知っているか」という

 から、

  「たくさん知っている。モーパッサン、ボーボワール

 なんか、かなり読んだ」

  「ほんとに?  で、どんな人が好き?」

  「フランソワーズ、サガンなんか、いいねえ」

  「わたしは、あの人、きらい。フランスではあまり人

 気、ないのよ。dragなんかやったでしょう」

  「dragって、メドゥサン(薬)?」

  「そう。それに、テレビなんかに出てくると、とても

 早口で、フランス人のわたしにフランス語が分からない ☆
P-63

☆んだから」

  「そう、えらそうなんだね」

  「まあ、そうね」



   どうです、読者諸君。こんな会話をするなんて、割と

 高尚な旅をしてる、でしょう。



   それから、私たちは住所のメモを交換しあった。



   アルルのほんの少し手前で、誰かが乗ってきて、私た

 ちは席を立たなければならなかっったが、そう苦にはな

 らなかった。そう感じるくらい、車中の半日が早く過ぎ

 てしまって途中のトゥルーズなんか、今、記憶にも蘇ら

 ない。



   アルルは向かい合わせたホー     少女の住所        

 ムに片側の駅舎という小さな田   Lalanne Laurence    

 舎駅だ。下り線は駅舎の反対側   Les MouLieres       

 に降りる。だから、今乗ってい   20 Rue Victor Hugo  

 た列車の出発を見送って、それ   0611 Le Cannes      

 から荷物を引きずって駅舎に入      France          

 った。                                            



   これなら日本のどこにでもある駅だ、と思える小さな

 駅だった。駅前にはバスのターミナルがあるばかりで、

 町並みはない。



   ガイドブックにも、町は駅を離れているとあった。



  「さあ、着いた。で、町へ行く前にホテル探しや。そ

 れから、明日の列車、……そんだけせんならん」



   私は、なぜか大きな気分になって、そう言った。



   改札から左へ出かかったところに、一室があって、そ

 こが「観光案内」らしかった。



  「ホテル、紹介、できる?」  



   三十を少し超えたぐらいのおばさんに、私は聞いた。



   彼女は、町の地図を載せたブックレットを差し出し、

  「どんなとこがいい?」というふうなそぶりをした。



   三十二ページから成るこのブックレットを、今、ここ

 ですべて目を通す気はない。しかも、私の語学力では、

 どのホテルがどういいのか、判断するには相当な時間を

 要する。



  「駅から最も近いホテル、にしてください」



   私は少々高くてもいいと、その時、思っていた。近け

 れば道を覚えやすい分だけ私たちには便利なホテルなん

 だから、一万円クラスのものが一万二千円したって構わ

 ないと思った。



   おばさんは、電話をかけ「部屋、ある?  あ,そう」

 と言いさしたまま電話を耳に当てて、私たちに、

  「幾晩?」と尋ねた。

  「一晩」

  「ダ、コール?  ア、ウイ」



   そして、私のパンフレットを開き、ホテル、リストの ☆
P-64

☆「De France」の所に青いボールペンで小さな丸をつ 

 けた。



   次に、ページを変え、地図の右隅に×印を「イシ」と

 言いながら入れた。

  「セ、ロテル、アン?」

  「ウイ、ジェ、コンプリ、メルシ」



   出ようとすると、

  「ア、モマン。10 Frans シル、ブ 、プレ?」

   予約料金であった。



   近い、まったく近かった。旧城門前の広場にでるより

 も先に、左の建物に「Hotel de  France」とペンキで書

 いてあった。入り口は、入るとすぐレストランになって

 いる。



  「ボン、ジュール」私は、元気な声を張り上げて内に

 向かって案内を乞う。

  「ウイ」

   気の弱そうな少女が、ウエイトレスを兼ねてホテルの

 フロントをするのか、レジのところで返事をした。

  「ジュ、マ、ペル、やぶの」

  「ア、ムッシュウ、ヤブノ?」

  「ウイ。ア      、エスク、ラ、シャンブル、エ、ア

 ヴェック、ベニョワ?」

  「ノン」

  「アヴェ、ヴ、デ、シャンブル、アヴェック、ベニョ

 ワ?」

  「イル、ニ、ヤ、パ。メ、アヴェック、ドゥーシュ」



  「おい、どうする?  風呂つきの部屋はないのやて。

 シャワーならついとるのやて」

  「そやな、辛抱しょうか」と啓子。



   便所も部屋にはないと言った。風呂はない、便所は共

 同とすれば、さながらユースホステル並み。覚悟を決め

 て、

  「いくら?  いつ、払うの?」と聞くと、

  「朝ご飯は、食べる?」

  「いや、いらない」

  「朝ご飯ですよ。本当にいらないの?」

  「ええ、食べない」



   変な顔をしたように思った。

  「160  Frans。明日の朝、チェックアウトの時でいい

 わ」



   少女は部屋に案内する前に、ホテルの出入り口を教え

 た。



  「この鍵(二つの鍵を渡されていた)で、出たあとは

 閉めて。帰ったら中から閉めるのに、ほら、これでいい

 わ。門限十一時」

 

 「コンプリ」私は了解できた。            ☆
P-65

☆  階段を上がって、すぐ右が私たちの部屋だった。



   いつものことだが、荷物を降ろすと「ほっ」とする。

 「やれやれ」と思う。かつてはそうでもなかったはずだ

 が、体力を失った。



   広くてやや高めのダブルベッド。机とスタンド、古い

 電話機。その上に、木製の頑丈な観音開きの窓。



   洗面とシャワー。アコーデオン式のカーテンで一畳ほ

 どを囲えば、シャワーを勢いよく飛ばしてもどうという

 ことはない。さらに、二段ベッドがあって、子供連れで

 来たって泊まれる広さだった。



  「二人で四千円ちょっとの値段やぜ。安すぎると思わ

 んか」私は値段が気に入っていた。



   荷物を部屋に置くと私たちは身軽になった。この町に

 は見るべきものが沢山ある。しかし、一泊しか余裕はな

 いので、さっそく外へ出た。



   広場になっているすぐ向こうに、旧い町の城壁があっ

 た。その城門へまっすぐに向かえば二百メートルもなか

 った。だから広場を挟んで私たちのホテルと城門とが向

 かい合っているという位置関係になる。右側にはローヌ

 河の堤防上に道路が走っている。そのすぐ内側、つまり

 こちら側は木陰が続くが、そこにテニスコートをやや大

 きくしたぐらいのコートが作ってあって、今しも十数人

 の高年齢者が「ペタンク」ボールをしていた。



   啓子が、どこかで聞いたこのゲームを説明しながら、

 そのすぐ端を、コートを踏みこんで通り過ぎた。老人達

 は、確かに「西洋人」で、鼻も高いのだが、色がさほど

 白くない。海の男のように黒いのだ。



   ここはローマ人の遺跡が多いというが、そんな支配、

 被支配の人間関係の中で、この色黒西洋人の先祖は、い

 ったい何者だったのか。



   ドーデの作品の中に見られるアルル人は、しかし、か

 なりの田舎びとに描かれていたが、そのイメージとはわ

 りと結び付くのだ。



   城門を入り、予定していたように円形の闘技場ヘと向

 かう。町を抜け、左に小道を曲がったら、すぐそれが見

 えた。ローマのコロッセオと同じ雰囲気の巨大な建物だ

 った。地図には「ローマ闘技場」とあるから、ローマ人

 支配時代の名残であろうか。なぜだかちょっと待たされ

 て、やっと入場券を買うことができた。待ったのは「釣

 銭」がなかったからだと、切符売りの男は言った。



   私は、よその国に来てまで文句を言おうとは思わない

 が、これは文化とか国民性とかの問題ではなく、不真面

 目、不誠意なのだ。癪にさわる。



   円形の巨大な建物は、観覧席だ。そのおおかたが通行

 禁止になっていた。ローマのコロッセオよりはるかに用

 心深い。午後の日差しは厳しく、太陽を背にした、入り ☆
P-66

☆口近くの南側約三分の一を歩き、往時をイメージした。



   しかし、ここはコロッセオと異なり、何故か、血生臭

  さい嫌悪感を醸さなかった。多分、奴隷同士の殺し合い

  や人の血に歓声を上げる暴君の呪いがなかったのかも知

  れない。



    でも、そのすり鉢の底のごとき地面に、闘牛を練習す

  る若者を遠望したとき、牛の役をする男の持つ角の車が

  8の字を描きながら攻めると、「巧みな剣さばき」と

「かっこよさ」とを同時に保つ「練習」を何度となく繰り

  返すトレアドルに魅せられた「いなせな田舎青年」の心

  が素朴に、素直に伝わってきた。



   彼は年にたった二回の「その日」を連日夢見ている。



 ………いつの間にか、その傍らに少年が現われた。十歳

 にもまだ届くまいと思われる「坊や」は、青年にもまし

 て熱心に、腰をくねらせ、身をそらせては「牛」をさけ、

 「角」をかわし、「英雄の美」を鍛えていた。



   はじめは、かわいらしい滑稽を感じていたが、いつの

 まにか「坊や」の熱心さにひきこまれ、「オッレー」と

 声を上げまじき「ファン」の心境になりかけていた。



   西側に回り、人気のない通路を通って門へもどった。



   闘技場の外の、西側の通りに土産物屋があった。民族

 衣装の人形や焼き物など並ぶ中で、ハーブをつめた匂い

 袋があった。



 (これがいい、土産はこれにしよう)と私は心に決めた。

 荷物にもならないし、軽い。



   また、五、六個ずつ連なっているので、幾人かの土産

 にもしやすい。



   もうほんの少し坂を上ると、右手に「ヴァン、ゴッホ

 の病院」があった。1888から1890まで二年間、病を癒す

 ことに専念もせず、太陽を描いた、という。



   この病院の経営者は、彼のよき医師、よき理解者であ

 り、また援助者でもあった、という。



   私は数段の石段を上り、硝子のドアの中を無遠慮に覗

 いた。しかし、町医者というよりは、しもたやに近い感

 じの玄関=傘たてが無造作に置いてある土間を覗き込ん

 だに過ぎなかった。「ヴァン、ゴッホの病院」、このプ

 レートが空しかった。



   も少し町を入ると、古代劇場がある。のんびりとチケ

 ットを売り、もぎりする、主婦兼業のおばさんの前を、

 ゆっくりと通って、石造りの建造物の縁を回る。周辺の

 高まりは残っていても、演技の中心をディスプレイする

 部分は、柱が二本、空しくサボテンのようにつっ立って

 いるだけだった。しかし、周辺の後部には、入場用の通

 路や、出演者用の控えの場所とおぼしき部屋が、いずれ

 も石のブロックを素材に建造され、巨大観覧席の下にし

 つらえられているのには、いちいちうならされた。



   拝観用の入り口、つまり切符売り場の真反対が、本当

 は昔、正面だったらしい。というのは、いまは見る影も ☆
P-67

☆ないどころか、建造物はすっかり壊れ切っているが、そ

 の石の部分部分が、並べたり積まれたりしてある。それ

 に心を奪われてしまった。私のような自己流観賞者にし

 ては、まったく珍しいことだった。我ながら自分の心の

 変化に興奮して、ビデオに収めようとした。かつて正面

 を飾った石造彫刻は、ライオンを始めとする猛獣達が生

 き生きと猛っていた。時には草食獣が、首根っこを噛ま

 れ、前足で征服されていた。



   ローマ人の気性を激しく表現した原建造物は、そのと

 き私のイメージ内にまさしく復元されていたのである。



   この町に美術館は多い。それは明朝見ることにして、

 私たちは、いいかげんにごまかしていた食事(抜いた昼

 飯)を、夕べの正餐で取り返そうとしていた。



   歩くうちにどこかキチンとしたレストランに出会うで

 あろうからと、なお町を奥に進むと、百メートル四方程

 の石畳の広場の真ん中に丸い噴水と池があり、若者が憩

 っていた。



   町の中心だ、この辺りで探そうと、その正面北側の立

 派な建物に入ると、中も広い。観光案内用のパンフレッ

 トや壁に示した町の地図、ホテルの紹介などある。



   建物に「Hotel de Vill」とあるから、この観光案内 

 所もどきは、市役所だ。でももう窓口の女子職員は、業

 務を終わろうとして、そとの外人になんか興味はなかっ

 た。



   だから、私が「これ、取ってもいい?」

 と言うか言わぬかに「ウイ」と返事して、卓上をしまっ

 ていた。(どこかにいい食堂はない?)と聞きたい気持

 ちも萎んで、再び広場に出、なお町を進む。そして「食

 い物」の豊かな界隈に出た。



   最初、果物屋だった。覗いただけ。広い通りを左に折

 れると、バス通りで、大きなレストランがあった。写真

 のメニューがあって、入ろうかためらったがやめた。



   城門が見通せるところまで戻って、私たちは通りにせ

 り出た座席第一番のお客となった。



   サラダ、ステーキ、魚のフライ、ワインでフルコース

 を始めた。すると、私たちの姿に安心したのか、もう一

 組の家族が隣にひっついて席を取り、食事を始めた。店

 の中は、まだ「ブワール(飲む)」の時間で、男どもが

 ビールなどを飲んでおり、大きな犬を足元に這わせて飲

 むうちに、店員に犬が吠えかかった。あまりに敵意をむ

 き出しに吠えて、彼は居づらくなったらしく、赤い顔の

 まま席を立ち、私のすぐ傍を町の中心の方へと歩いて行

 った。西洋の犬は人に吠えかからない、と私は思ってい

 た。このときは意外だった。



   この食事の多分、前だったか、小さな八百屋のような

 店で、果物を買った。ネクタリンは安かったし、柔らか ☆
P-68

☆くておいしかった。



   城門を出て、広場の西側の堤防の上に出た。ここはロ

 ワール川の曲がり角、大きな水量が一度は町の側に突き

 当たるようにしてから海に向かう。駅に近いあたりに、

 かつてあった大橋の、袂だけが、両岸とも残っている。

 その上に上る。辺りを展望できるような広さがあって、

 しかし、足元には階下の地面が覗ける崩れがあり、足の

 繊細な神経が痛む。



   流れは曲線をうごめかせて巨大な水の連なりが音もな

 く滑る。たそがれる大川を、なかば放心状態に浸りなが

 ら楽しむとき、一人の男が下から階段を上って私たちに

 近づいてきた。



  「降りよに。悪いけどあの人相、いやや。なにかタカ

 られるみたい」私は男の反対側から同じ階段に向かう。

 男は、川に面した方へと展望しに行く。



  「ゆうさんはそんなに人を疑ごとったらあかんわ。わ

 たしらなんともないわ」

  「いや、無条件に心を許したらあかん」



   啓子ははなはだ不満げだった。異国の人をもっと信用

 せよ、とたしなめていた。私は、人は信用するに足るか

 否か、見極めて、信、不信をしよう、というのであり、

 すべて「不信」とするのではない、と説明しても、啓子

 は「いや、ゆうさんのは、みんな信用しとらへん」と決

 めつけてしまって譲らないのだった。



   家族が釣をしてしていた。禁漁区なのか、私が様子を

 見ようと、堤防の内側の中の段に降りると、大人は瞳を

 避け、子供は「嫌いだ」とでも言うような表情をした。



   あたりはほとんどたそがれていた。西の低い空にまっ

 赤な半月をみた。



   私はビデオを回し、「まもなく十時です。こんな明る

 い月を見ています…」とやりながら、変だと気付く。赤

 すぎたし、半月が急に膨らむ。夕焼けの太陽であった。

 

    そう勘違いするほどここの日没は遅い。



   共同便所もシャワーも気にならない。しかし、この夜

 は暑かったので、木製の窓にすき間を作り、ドアに物を

 挟んで空気の流れを作った。





 ■  八月  一日  ■  

                                   

   8/1       Arles   Marseilles   Nice Ville   

   Wed       12:21 ------------- 15:46   20:10--- 

           -------- 夜行列車  -------- 

            

   朝はゆっくりしていた。ペイを済ませて、荷物をすべ ☆
P-69

☆て持ち、再び町に出る。



    まず右手の堤防上の道路を歩いて、レアト美術館

 (Musee Reattu)へ向かう。気持ちのいい朝だったので、

  ゆっくりと歩を運ぶ。川の流れの中には、時に魚がゆる

  りと動く。注意をするとかなりの数の魚が、鰭でそよろ

  と舵をとりながら、遊ぶ。



    私は、川べりの泥にまで降り、接近して見た。藻やご

  みを縫って動く魚は、ウグイに似た川鱒だろうと推定さ

  れた。

    再び堤防の上から、曲がりの正面に当たる流れを見る

  と、数知れぬ川鱒が群れているようであった。



   堤防の内側の二階の窓を開け放して掃除をする「女」

 が間近かに見えた。まだ化粧のない女の、しかも色の白

 い肌、絵描きなら「形」になろうと思われ、私はカメラ

 した。



   いきなり向ける訳にも行かず、川を撮るフリをしなが

 ら、角度をグルリと回して、部屋着もゆるやかにシーツ

 をはたいて窓に出す「女」の、部屋の蒸せた匂いまで想

 像しながらズームした。



   美術館は、二つに別れていて、最初は間違って分館の

 方へ行った。中庭めいたところで雑談する係員に案内を

 乞うと、「道へ出て、右へ行き、左側だ」と案内した。

 意味は通じても道は想像したようにキチンとは存在しな

 い。正しい道に入っているのか、他人の庭に間違って迷

 い込んでいるのかわからぬ不安を、一瞬だけ味わいかけ

 て、そこに入り口があった。



   ここは、モダンアートを得意とする、らしい。名前は

 覚える気もないが、世界的に有名なアーチストや写真家

 を出している。



   しかし、ヌードならはっきりヌード、女ならはっきり

 裸の女と、きまりをつけてほしい、と思う。間接的にそ

 れらしきものを、わけありげに描き、しかし具象ではな

 い、だから、単なる「即物」より価値深いのだろうか。



   世界の古代美術、とでも言うべき写真があって、これ

 はよかった。ナスカもピラミッドも、いまや半ば廃虚と

 なった建造物も、やはり抽象的なモダニズムよりよっぽ

 どしっかり私を捕えた。



   私はそれらの感想を交えながらカメラし、「ピカソの

 絵が混じっています。どれでしょうか」などと、クイズ

 めいた表示のある一室にきた。そこの係のおばさんが一

 番インテリくさかった。



  「カメラはいけません」と言った。ヨーロッパでは珍

 しいことだった。



   次の間で、「カメラを撮ってもいい?」と聞くと、二

 十前位の女が、さっきのピカソの間のおばさんに尋ねに

 行った。



   おばさんは、わざわざやってきて、

  「結構です。あの部屋だけが禁止なのです」と、落ち  ☆
P-70

☆着いた表情で教えてくれた。



   ある部屋では娘さんが、カラフルでフレアーだらけの

 スカートをはいていた。わたしは「すみません」と近づ

 いて、

  「これ、この地域の古い衣装ですか」と尋ねた。

   娘さんは、笑いながら「いいえ」と答えた。色の白い

 娘だった。ここはアルルだから、私の中にあるドーデの

 世界が、普通の情景に先入観の「色づけ」をしていたの

 だろう。



   列車は12:21に発車する。11:00には観光をやめて、昼

 を食べよう、と言いながら、城門の方へ戻って来た。昨

 日夕食を食べた、あの食堂がもう数十メートルというこ

 とろに広場があって、それを眺める位置に小さなレスト

 ランがあった。



   通りの側に、ケースがサンドイッチやサラダを覗かせ

 ている。



  「ここにしょ」

   角に座って、「ビール、ドゥ」。すると、愛想のよさ 

 そうなおばさんが、返事をして、私たちは親しみ深い客

 となった。パリなら(最初来たときはいずれもそうだっ

 た)「ドゥ、ビール」と訂正をする。ここは、そんな愛 

 想のないことをやらない。



   小学生の坊やが、お手伝いで、サラダをテーブルに運

 んだ。ハムをところどころに散らしたサラダを食べ、ビ

 ールを飲んだ。



   そのほかに何か食べたような気もするが、忘れた。



   城門を外に出たすぐのところに、朝市をやっていた。

 時間が、たっぷりはなかったが、ひとわたり見るぐらい

 はある。三十分ばかり見回ることにした。



   私は、こういう雰囲気が好きだ。五十メートルほどに

 渡って、八百屋、肉屋、魚屋、パン屋などなどが店を連

 ねている。魚も安い。鮪の大きな身=胴を輪切りにした

 のがゴロっと転がる。



  「刺身にしたら、ウマイやろな」と言いながら近づく

 と、黒に金色の縞がある蜂が二匹、肉にかみついて,そ

 の汁を吸っていた。人の気配も忘れて肉汁に没入する姿

 は、さもありなんと、その身のウマサが想像された。



   塩にまみれたピーナッツを買った。大きく湾曲したサ

 ラミを、「子供達の土産にしようか」と買った。試食用

 に若い男がナイフで切って見せたのを、食べた。日本の

 あの固いサラミと異なり、匂いがあったもののおいしか

 った。



   この日、列車に乗る予定がなかったなら、まだ一時間

 はこの広場で市を見回ったに違いない。けど、私たちに

 は、あと三十分程しか時間がなかった。



   アルルの駅へ行き、静かに待とうとするとき、意地悪 ☆
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☆く、激しく便意を催した。ホームへ出て左に、あった。

 が、この汚なさでは私にはデキなかった。



  「汽車で、しょうか」と一度は思ったものの、駄目。

 そして「ティシュ、はよ」と、バスのターミナルへ駆け

 こむ。そこには有料のトイレがあった。きれいなだけで

 はない、安心だ。



   列車は予定どおりに来た。すぐマルセイユが近づく。

 台地の上を、光る海にまっすぐ向かう感じに進んで、マ

 ルセイユに着いた。私たちは降りないから、町の雰囲気

 も分からぬままだ。



   列車が再び出ると、進行方向の左側に、大きな山があ

 った。アルプスで見かけるように、地層が巨大な力で押

 し上げられ、その結果「塊」がせり出した感があった。

 そんな地形だからか、マルセイユから先は、地図で見る

 のとは違って、線路は絶えずカーブし、快適なほどに加

 速しなかった。ニースに近づくにつれて、この傾向は顕

 著になった。



   なるほど、この辺が保養地だ、と思えるように、左に

 は山と別荘、ホテルが白く斜面に張り付き、右は青い海

 にヨット、ボート、近くは浮き袋、砂利上の裸人をゆっ

 くりと見せながら、列車はほとんど徐行する。海岸の道

 路を平行して走る自動車のほうが速い。あくびせんばか

 りにダラダラ走って、やっとニースに着いた。



   時間は四時間もある。まず駅構内を一回りし、迷わな

 いように雰囲気をつかんだ。駅前右には、トーマス、ク

 ック社の両替があった。



  「ニースまで来たんやから、あの海まで行こ」と言う

 ことになって、左の大通りからまっすぐ海のほう=南へ

 向かう。裸で甲羅干しをするニースにしては、この通り

 は繁華街過ぎていた。だから時々、衣料品点などを覗い

 て今にも買いそうになるのをこらえては、先に進む。



   一キロほどで、広場か大通りかに出た。「待てよ」と

 地図を確認してみると、海はもう近かった。



   通りのすぐ下が、砂利の海岸で、そう苦労せずに「裸

 の甲羅干し」を見つけることができた。レストランや休

 憩所などの施設と海水浴客のいる風景は、日本のそれと

 変わるところはない。



   私はしばらくあちこちを歩き回って見ようとした。啓

 子は、こんなときいつもそうだが、暑いからと、日向に

 出るのをいやがった。通りを挟んで広場のはずれにたた

 ずんでいたが、ほんのちょっと海岸べりまで出て、すぐ

 下の浜を見た。これがニースのすべてだった。



   まだ時間は早かった。五時にもなっていない。ヨーロ

 ッパでは、こんな時間に食事をしない。承知で、レスト

 ランに入った。そこには「フリュイ、ド、メール」なる

 メニューが出ており、直訳すると「海の果物」で、およ ☆
P-72

☆そ見当はついたが、豊富な海の幸を心行くまで食べたか

 ったからだ。



   案の定、「飲む?」と聞く。

  「いや、食べる。ところで、フリュイ、ド、メール、

 できる?」

  「ウイ、でも、時間がだいぶ、早いから…」



   そして、私はフリュイ、ド、メールのうちの何かを注

 文して、店員に「今日はできない」といわれた。で、普

 通の代物らしいのを注文して、食べることになったが、

 イカやエビ、魚にまじって蟹があったが、一匹だけ、臭

 い。古いのだ。それでも、いつか恵美がつれて行ってく

 れた本山か覚王山かのスペイン料理のように、墨のある

 イカや、それこそ海から上げて塩水でゆでただけのムー

 ル貝なんかを、楽しんで食べた。



   ニースの「思い出」にしようと思ったからだ。



   再び駅に向かってゆっくりと歩を運ぶ。ある店は、高

 級品を扱っていた。買わないけどこんな高価なものもあ

 るのか、と参考にするにふさわしい店だった。



   出て、私はさっきと同じように歩く。ボストンバッグ

  とリュックサックをキャスターに縛り付けて引きずりな

  がら、肩からはビデオのバッグを提げ、左前の腰にはウ

  エスト、バッグを巻いている。



   そのときやにわに数人の少女が私を取り囲むように近

 寄ってきた。両手で、賞状を持つような格好でB4版大の

 紙を差し出す。何か言っていた。



 (カンパか)ほんの一瞬そう思った。紙は白紙だった。



 (そうだ、こいつらだ、かっぱらいは)と気付いたのは

 そのとき既に遅かった。



  「バカモンッ……」私が声をあげて、体を振り回すよ

 うにする、直前に、ウエスト、バッグが「ごい」とたく

 し上げられ、同時にズボンのポケットから鹿皮の財布が

 「ぐい」と引き抜かれた。



   私が左手を振り回した時には、不良少女どもは、てん

 でに全速力で人ごみの中へ走っていた。



  「やられた」ことの私の「反応」は、ここにうまく書

 けない。

  「くやしい」か「残念」か「虚脱」か、それらすべて

 を混合した、向けようのない「不満」を、私の全身の細

 部に感じて、

  「もうーー、クッソオ、もうーー、コノヤロウ」とつ

 ぶやきながら、収まりのつかない自分をもてあまして、

 レースの終わったマラソン、ランナーのように、路上を

 ふらふらした。



   実のところ、空の財布をすられただけで、損害はほと

 んどない。



   今夜列車に乗ったら、降りるのはイタリーで、フラン ☆
P-73

☆は用済み、だから明日からのためにポケットはリラ用の

 空財布を用意していた。



   空だから不用意にその端がポケットから覗いていたの

 かも知れない。それでも憤慨は激しかった。大人になっ

 てこんな激情を味わわなかったようにも思う。プライド

 を踏みにじられた、一瞬のうちに徹底的にバカにされた

 気がするのだった。



   気を取り直すには時間がかかった。



   旅の途中でさまざまな紙片を得る。レシートなど、帰

 ってくるとトランクから数知れず出てくるが、それを見

 ると、この日、この後、スーパーマーケットで(多分、

 車中用の)食べ物を買ったはずだが、今、どう努力して

 も買い物場面を思い出さないのだ。(フルーツ二種類、

 ピエモンテ風サラダ、紙箱入りワイン、パンで占めて41

 ,59 Fr=1200円ほど買っている)ショックが記憶を薄め

 させたに違いない。



   ローマ、テルミニ行の夜行列車は、七時をかなり過ぎ

 ないとホームに入らない。しかし明るさではまるで午後

 の四時ごろにも思えるホームを、長い列車が引き込まれ

 てきた。



   ヨーロッパのホームには列車編成図が掲示されている

 から予め私たちの乗るハコは、ファースト、クラスの97

 番号のハコで、前から三両めであることが、明々白々に

 わかっている。



   私たちは、95…96…と乗車口付近に張られた番号の紙

 を読みながら近づいて行く。



   しかしないのだ。…98。私は自分の目を疑った。

  「ここ で待つとって」私はまた走って96…97…?。

  「おかしい。もっと後ろに行って見よに」



   列車は長いのだ。最後まで確認するのは大仕事。しか

 も一両だって見逃さずに99,100と見て行く。番号は確実

 にふえて、97は存在しないことがわかった。



   最後尾付近で、乗務員か駅員か、ともかく制服がいた

 ので、私は指定券を示した。

  「Where is my seat, uun  ?」

 車掌は突き出されたチケットを手にとって見た。

  「Ah…Over there.The third car from the top. You

  see?」



   なにこくだ、このやろう。

  「There's no car.This train doesn't have car No 

 97.」



   通じないといけない。

  「There I found  No 95,96. And the next car No 98.

 But No 97 can't  be found.…… Where is my seat?」



   なんとかするとか、ここで辛抱してくれとか、何か言

 うだろうと思った。が、職員野郎は、         ☆
P-74

☆「I don't know.」と抜かしおった。「私は車掌で、 

 列車編成をしたのは私じゃない」そんなふうなことを言

 って反論した。



 (このバカめ)とばかりクレイムの姿勢を崩すまいとす

 るところへ、アメリカ人のおばさんが駆けてきた。そし

 て胸のすく英語で、

  「一等車の私の座席がないじゃないの」と相手に言わ

 せず攻撃した。



   両手を広げて首を振るばかりの車掌は、どうにもなら

 なかった。私たちは諦めて、後ろから二番めの二等車に

 乗った。そしてだれもまだ乗っていないコンパートを見

 つけ、

  「これで辛抱しよか」と、荷物を棚に乗せた。



   私は「外国語」で初めての「ケンカ」をした。言うべ

 きことが言えたので、まあ半分ほど、不満が解消してい

 たし、夜行列車が動き出して見ると、明朝までじっとこ

 こで過ごせば、実害はないと思うことにしていた。



   国境へ向かう列車は、さきほどニースに近づくに当た

 ってノロノロ進行をしたが、それにもまして遅い。駅と

 駅の間も狭い。



   半時間ほどして、モナコ公国のモンテカルロ駅に入っ

 た。事前に地図を読み、身を乗り出して、おそらく再び

 来ることのない珍しい土地をできるだけ見、知ろうとす

 る。しかし、どう努力してもこのあたりにザラにある保

 養地めいた海岸の土地だという以外に、特別なものを見

 い出しえなかった。強いて言えば、数多くの別荘地より

 も「不便」で「貧乏臭い」雰囲気があって、だから「大

 国」に吸収されずに残りえたのかもしれない、などと大

 胆な解釈を試みながら、もう光を失いつつある町を撮影

 した。



   ヴェンティミグリアは、イタリア最初の駅だ。ゆっく

 りと進む列車が長い停車時間を取って、とうとう日没と

 なってしまった。



  「ここ、いいですか」と、元気のいい声で戸を開けた

 のは、日本人だった。

  「いいよ」

 と言うと、「ああ、よかった」と体じゅうの表現で彼は

 喜んだ。



   彼は一人旅に来たのはいいが、語学力はいまいちで、

 無鉄砲にも駅で寝たり、乗り物を間違えたり、ハラハラ

 する旅を続けているのだった。帰りの飛行機は、と聞く

 と「まだ取れていない」という。九月の初旬には帰る必

 要があり、ローマで交渉したい、とのことだったが、ど

 う聞いても見通しはなかった。それでも彼は平気で、

  「交渉してみます」と九州のアクセントでこだわりな

 く言ってのけた。羨ましいばかりの楽天家であった。  ☆
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☆ 私も心強かった。身ぐるみはぎとられ兼ねない夜行列

 車で、息子のような「男」と二人になれば、明日の朝ま

 で交代で寝るとか、共同で「敵」に当たるとか、ともか

 く防御の体制を作ることが出来る。話すうちにほんとう

 に息子のような気がしてきた。



   ワインを飲む、サラダを食う。そして夜が列車の外を

 静かに包む。ちょうどそんなころ、イタリアおばさんが

 乗ってきた。



  「ここ、いい?」ってな表情をするから、

  「どうぞ」と言ってやった。笑顔でニコニコするばか

 りで、何もしゃべらない。夜行列車に乗る客にしては荷

 物の少ない人であった。



   検札に来た。国境を過ぎたから車掌はイタリア人に変

 わっている。色が浅黒く目だけパッチリした男だった。

 静かに遠慮勝ちに「キップ、ドウゾ」とやればいいもの

 を、横柄だった。切符もさることながら、



  「パスポートは」とやったから、私の癇にさわった。



   ありがとうも言わずにパスポートを返すその手に、

  「ちょっと(モマン)、」と呼び止める。

  「私は、ほんとうはこの席だ(I've reserved this

 seat)」と指定席の予約券を見せる。



   すると「(それで)」と言う顔。



 (この野郎)私はムラムラと激情が込み上げてくる。

  「どこにある、この席は(Where is this seat?)」 

  「ずっと、前のほう」

  「ない、そんなもの(Icoudn't find it.There's no

  seat,no car.)」キョトンとしている。

  「どうして、97番車はないんだ?」

  「知りません。フランス人がしたんだから」



   またしてもこれだ。クソッ。私の歪んだ顔がこわかっ

 たのか、車掌は逃げるように通路を去って行った。



  「本当は、僕達、一等なんだ。ニースでもあんな風に

 けんかしたの。でも無責任でラチが開かないんだ。」  ☆
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