背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             

















 

P-93(つづき)

☆  だが電車は線路があるから「勝手」ができなくて、見

 通しもなく待ちぼうけを食わせられ、窓から数十の勝手

 者の車を見なければならない。



   ポリスもポリス、そういう勝手者をどうもしない。ば

 かりか三叉路を十分以上も通過できないでいる一台の路

 面電車を、何とかしなければ、という気持ちもない。



   かくして、外国人である私までが、仮にここから三十

 分かかっても駅まで歩こうかとさえ思った程だった。



   だから行きの時間の二倍もかかって、駅前広場の端に

 到着した。



   ホテルから荷物を受け取り、キャスターを引きながら

 駅に入った。発車案内の掲示にはローマ行きが二本あっ

 た。



   私は早いほうを選んで、

  「ローマのテルミニには、これでいいの?」とホーム

 の駅員に尋ね他た。



  「いや、だめだね。この後の方がいい」とはっきり答  ☆
P-94

☆えた。



   しかし掲示板には「Roma TRM」とあり、TRM とはテル

 ミニの略に違いないのだが、駅員にそうはっきりと言わ

 れると、あとで違ったときに後悔が深かろう、と深慮遠

 望して遅い列車に乗った。



   来たときと同じ型の列車だった。



   最初は左側の四人掛けに場を占めて、寛いだ。



   すると一こま前に男の子連れの男とその母が座った。

 発車するとなぜか男だけが私共のところへ座った。荷物

 が多いからか、ノートにメモをするには子供から離れた

 方が便利なのか、ともかく私の向かいに足を組んだ。



   先にも書いたように真ん中の通路を挟んで右側は一人

 座りの席ばかり二人向かい合わせにできている。



   間もなくそこの中年アベックが降りたので、

  「あっちへ換わろうか」と席を立ち、荷物を置き換え

 て移った。



   そのとき、ナポリ、ローマは二時間半かかるが、たぶ

 んその三分の一ぐらい来たとこだったろうか。



   息子がなんかの拍子に何か言ってきた。かわいいから

 こちらも声をかける。家族も微笑みを向けてきた。



   すると息子は(図々しく)私たちが窓際に置いている

 水の瓶を指差し、「ほしい」という口まねをした。



   男は止めもたしなめもしない。

  「アクワ?」と言いながら私は一口飲ませた。

  「なまえ、なんて言うの?」英語で問うてみた。



   しかし、だめだから今度はフランス語で。これもだめ

 だ。で、身振り手真似を交えて、コミュニケーションを

 する。結局、「Alessandro 10 ans (アレッサンドロ  

 10歳)」と紙に書き、私が「Alexander」と書いて見せ 

 ると「シイ」と男は大げさにうなづいた。



   それからだ、まるでお祭りみたいになってゆく。男は

 英語も通じないしフランス語も分からない。でも私たち

 と話したくてしようがないのだった。



  「ジャーパン?  トウキョウ?  どこへ行った?  ポ

 ンペイ。ア、ソッレント。スパゲッティは?  ピッツア

 は?」と分かる単語だけの会話になった。



   ときどきしつこい「行き違い」が起こって、絵に描い

 ても字にしても双方が「困ったア」ってことになる。



   そんなことが数度あったか。お母さんが会話に加わっ

 てきた。いい母さんだ。



   およそ人間というもの、何人種であろうと、皮膚の色

 や鼻の高さ、髪の毛の違いを超えて「どこかで見た」懐

 かしい顔がある。この母さんも同じようにお人好しで、

 田舎臭いが実に親しみと好感とがもてる、そういうばあ

 さんだった。



  「ママン、どこへ?」                ☆
P-95

☆「ヴァカンスですもの、一週間、娘のところへいきま

 す、はい」



   娘は、このママンの故郷、トスカーナに嫁いでいる。

 ローマを超えまだ数時間の旅だ。



   こんな会話だって何度も言葉を換えたり手を振り身を

 作ってやっと通じる。通じるとそのたびに握手をし合い

 たいほどの喜びが双方の表情に出る。



  「あんたのワイフは?」と男に聞くと、

  「ア、ドーマ」これは分かった。

   家に留守番だ。



  「ママン、ヴォートル、マリ?…ア、ドーマ?(お母

 さん、あなたの旦那さんは?  おうち?)」

  「ノン。ア、シエッル」と言いながら、ママンは天井

 を見上げた。



   フランス語で「天」を「シアッル」と言うから「夫は

 天においでる」と言うことがすぐわかる。



  「おお、このおっかさん、ごけさんやて。しかし若い

 やないか」私は啓子に普通の声でそう紹介する。



   その点は気楽、日本人を相手にしていたら「言ってい

 いこと」と「いけないこと」とを区別する節度を一秒だ

 りとも怠らず働かせねばならない。



   ママンは、懐の中から大事そうに黒い包みを出して私

 の目の前で解いた。中から名刺大の二つ折りの小冊子が

 出る。左には男の写真、右には何か、詩の文句のような

 ものが書いてある。



   差し出すから私は静かに受け取った。顔だちの整った

 イイ男だった。旦那の写真だった。



   右にある詩の章句を、私は厳かに、しかも朗々と唱え

 た、少し芝居げを意識しながら。



   その意味が分かっていたわけではない。イタリア語が

 終わりからから二番めのシラブルにアクセントがある。

 それを守りながらローマ字に節をつけて読めばいい。



   読み終わって静かに畳もうとすると、ママンはもちろ

 ん男も坊やも胸の前に手を組み、私に向かって拝んでい

 るではないか。



   私は急に厳粛な気持ちになり、真面目に表情を引き締

 めた。



  「ヴ、ゼーメ、ヴォートル、マリ?(ご主人を愛して

 るんですね)」



   写真をママンに渡しながら言うと、

  「ハイ、トテモ」



   トテモとは「タント」という。日本語に似ているから

 すぐ分かる。夫は現に空にいると信じ、空を見上げ、空

 の神に祈りを捧げ、空に向かって愛情を放っている。私

 は先に死んだ夫が羨ましかった。



  「死んでからずっと喪服を着てます」         ☆
P-96

☆  ママンは、薄ものの黒いワンピースの裾をつまんみな

 がら言った。



   男の名前は「Francesco Formisano」と言い、住所は 

 「V,A Panoromica, 208 Ercolano (Napoli Italy)  Tel

  081-7398583  」と紙に書いた。



   私も私の住所を彼に書いて渡した。



   話は次第に双方の立ち入ったことを聞きたくなってゆ

 く。しかし、しばしば通じなくなって、身振り手振りを

 交えた「騒ぎ」になってしまう。



   そのころ、うしろにいた夫婦も、私たちの騒ぎに関心

 をもっていた。前の方には、もう二組の男女が、それぞ

 れ別々に座っている。それがこの一等車のすべての乗客

 だった。



  「なんの、職業?」と私は男に聞くのだが、英語も駄

 目、フランス語も駄目。私の方は夫婦とも先生だという

 のは、英語でわかった。



  「英語の先生か」

  「いや」

  「じゃあ、フランス語」

  「いや。ジャーパンだ」



   イタリー人は、日本に関することは「ジアーパン」で

 すましてしまう。



   男の職業を当てるとき、彼は、床を何度も指差すから

  「chemin de fer(鉄道)?」と言うと、目が急に明 

 るくなって、

  「おお、フェラーリオ」と叫んだ。

  (そう、鉄道員さ)と言ったと理解した。

  〔その後の話もすべてつじつまが合うものだから、私

 彼が間違いなく鉄道員だと信じていた。ところがだ。帰

 国後、辞書を立ち読みしてもそんな単語はない。辞書に

 はない言葉が通じたのか、不思議だ。



   フェラリーという自動車会社だと教えてくれた人もい

 る。半年後のことだ。〕



   彼は、だから社員割引で母と息子とを一等車に乗せて

 いる。そのため(とその時は思っていた)車掌に小さな

 ノートに氏名を細かく書き、切符のようにミシン目にし

 たがって切り取り、差し出していた。



  「で、あんたの二つめの職業は何だ?」

  「えっ、私は教師だ。それだけだ。それとも趣味のこ

 とか」

  「いや、職業だ。私は先生もしている」



   鉄道教習所かなんかだろうと思った。



  「絵を教えている」

  「いつ」

  「週に一回」

  「だれに」                     ☆
 
P-97

☆「仕事場で絵の好きな仲間がいる。彼等に教える」

  「そりあいいことだ」

  「で、この人は」と啓子のことを聞いた。

  「マイ、ワイフ」

  「ほんとにか」

  「ほんとだ」

  「指輪をしてないじゃないか」と私の指を見た。

  「おい、おれたち、不倫の旅行みたい」



   私はなぜか少し顔を赤くして啓子に言った。

  「なんて言うかなあ…あ、私は仏教徒だ。指輪をしな

 い」

  「結婚してもか」

  「そうだ。日本には指輪をしない夫婦がいくらでもい

 る。私たちは、結婚してもう三十年、子供も三人。ぜん

 ぶおとなになってしまった…」



   こんな言い訳をしているときに、前の二組の夫婦がじ

 っとしておれないくらい私たちに関心をもってしまった

 らしい。話の通じにくい「男」にもっと通じさせてやろ

 うとして、声まで出すようになってしまった。



   左の前のカップルは、新婚ほやほや、式後一週間の旅

 に出てきた。



   二十代後半のヨメが、

  「フランス語、高校で習った」という。



   それじゃあと水を向けると

  「あまり好きでなかった。英語の方が好きだった」



   それから英語にしたが「アアー、ウウー、アンー」の

 はなはだ多いスピーカーだった。



   旦那は、パンチパーマに眼鏡。デザイン屋だというか

 ら、エクステリアかインテリアかと聞くと、建物とか庭

 とかを設計する、といった。



   彼の目と皮膚とが清潔だった。

  「子供は」

  「まーだ。一週間前に結婚したばかりッ」

   ちょっとひねってちょっとスケベな目でハナヨメが叫

 んだ。



   夫婦は立って話し、私も啓子も立っていた。



   フェッラーリオ氏もそこまで来て立っていた。すると

 右前の夫婦が立って来た。



  「ローマまで行くんです」

   男の顔だちはなかなかいい。

  「なに、してるの」

  「服を作るんです」

  「どんな」

  「俳優の着る服、舞台で着る服です。古い昔のスタイ

 ルのを」



   そのヨメさんは何もしゃべらなかったが、やはり立ち ☆
P-98

☆上がってきて、にこやかに微笑みを送っている。

  「おい、こんな場面、ビデオに撮っとかへん」

  「そや、撮るわ」啓子は、ビデオを動かす。

  「服って、ミシンで縫うの」

  「手ですよ。ほら、ここ」彼は肉太の右手で私の手を

 握って異性のように擦り寄ってきた。

  「ここ、こんなに」

  「ほんとだ、タコができている」



   足の裏よりもはるかに固いタコが、畳やさんの指みた

 いに出来ていた。

  「テレビに撮るよ。いいか」というと、彼はほんとに

 演技して、何かセリフを言った。



   セリフの挙句には、広げた手のまま接近して、私を抱

 きしめ、頬に口髭をつけて接吻するのだった。



 (※この場面のフィルムがないのは、残念どころか悔し

 い。)



   ナポリからローマへは三時間ほどだが、こうして時の

 経つのを忘れていた。



   六人が顔を見合わせて、「もう間もなくローマだ」と

 言い合い、あわてて降りる準備をした。



   改札を出る。



   まだ土産らしいものは何も買ってなかった。テルミニ

 の左の電車通りに少し入ったバールで一口飲んでから、

 再び駅の売店で土産を探した。



   生徒にやるには高価なものはいけない。外国のもので

 しかも何人かに渡せるようなものとは、そうはないのだ

 った。同じ店に何度も出入りしては探す。ボールペンに

 Romaの文字とキイホルダーがつているのを見つけて、啓

 子と二人で二十本余りも買った。



   今夜ここを発てばイタリーから出てしまう。だから今

 夜はイタリアらしいものが食いたかった。テルミニの右

 へ出て、タクシー案内風の男に聞くと、前方右にいいト

 ラッテリアがある、と教えた。



   時間がまだ早かったためか、店のおやじは入り口のと

 ころでワインだけを飲むもう一人の男と、ときに議論に

 なりながら話をしていた。



   賄いは、奥さんがやっていた。おやじは、私たちにテ

 ーブルを示しながらも、議論を続けていた。



  「メニューは」と要求し、

  「スパゲッティ、○○ーズ。ピラフ、△△ふう。それ

 から、サラダ。ビール、ワイン」

  「これだけ?」

  「これだけだ、OK?」

  「OK」



   ワインとビールをちびりちびりやりながら、食事の支

 度を待つ。                     ☆
P-99

☆  旅にあって私たちは、列車に乗るか食堂に入っている

 とき以外はすべて立ちづめだ。だからこうして料理を待

 つ間も、足からも背中からも、さらに肩からも安らぎが

 ほのぼのと湧いてくるのだった。そこにじわっとワイン

 の弛緩が忍び寄る。



  「今夜、夜行に乗るともう明日はミラノや。あと三日

 だけ、パリに泊まったら終わりや」



   当り前のことを、しかししみじみと言いながらしばし

 寛ぐ。



   スパゲティもピラフもさしてまずくもなく、またおい

 しくもなかった。わざわざ紹介して貰ったんだから、そ

 こいらのとは味が違うかも、と勝手に期待したが、普通

 だった。



   不満でもなかった。食い物はナポリが一番だ、と車中

 の男が言ったが、本当だった。



   やや陰りが始まっていたから、八時だったのか九時だ

 ったのか。私たちはもう夜行列車を待つだけになった。

 22時55分発だから、それまで時間を潰す。



   到着してすぐ預けておいた荷物を戻して、列車が準備

 されるはずのホームが見えるところに腰掛けを見い出そ

 うとした。



   折りから、金曜日。週末も利用した一週間ヴァカンス

 へ出かける人や、一週間が終わって帰る者などで、ごっ

 た返していた。



   列車はどれも若干ずつ遅れているようだった。ガシャ

 ガシャとめくれて白い表示が変わるが、出発時刻を過ぎ

 てから初めて表示されるものもあった。



   列車編成が遅れると、構内に入ってから表示されるた

 めだ。



   私たちの横には、母娘の二人連れが座っていた。



   私は退屈して「ちょっとその辺、見てくる」などと再

 三言い、そわそわした。そんなどさくさの中で左隣の娘

 に話しかけ、向こうも話してきた。



   母は、これも御家さんで、娘は中学の理科の先生で独

 身。ヴァカンスで母を一週間楽しませたが、今から夜行

 で帰る。明後日からまた仕事だそうだ。



  「どこまで?」

  「バーリ」

  「さあ、どのへん?」

  「アルベロヴェッロなんか知ってる?」

  「いや」



   ゆっくりしたトーンで、ねばりねばり話す。イタリー

 南部の東海岸というんだから、

  「ブリンディーシー」

  「そう、そっちのほう」彼女は眼鏡の中で目を輝かし

 た。鴎外の「舞姫」では豊太郎がブリンディシーから船 ☆
P-100

☆出している。



   話しは私のことになった。今度の旅の見聞やこれから

 のことを話し、家族にまで話しが伸びる。長女は二十九

 歳だというと、私と同じだ、と彼女は言った。



   ノートに住所と名前、電話を書いて渡し、

  「あなとの住所をこれへ」と紙を出したら、彼女はマ

 マンの顔を、ちょっと変わった表情でうかがい見た。



 (男のひとにこんなことしてもいい?ママ)って表情が

 見えたが、ていねいに、しかしそううまくはない固い字

 で、「MARIELLA INTINI→FAMIGLIA   VIA PIETROMICCA,

  24  70015  NOCI  BARI  ITALY  Tel 080-8977332」  

 (→)の意味が分からないのだが 、さまざまに想像し 

 てみている。



   列車は半時間前にホームに入った。私たちの車は電灯

 がつけ忘れてあったので、私は車掌にクレイムをしに行

 った。車掌は、ワインが匂う息で、わかった、すぐつけ

 る、と答えた。



   夜行列車の寝台は、二段の向かい合わせ、四人のコン

 パートだった。



  「あと何人乗る」私は車掌に聞いた。

  「さあ、知らない。けど、早めに鍵をしたら」と二人

 だけで使えとほのめかした。



   列車が駅を出るとき、外を眺めた。幾つかの線路が、

 交差し広がりして、寂しい町の中へと進んでいった。そ

 して、曲がりながらミラノへと方向を決めていった。も

 う明朝まで寝ているだけでいい。私たちは長々と横にな

 って下の線路の音だけに聞き入った。



   車掌が来て、

  「パスポートと切符を預かる」といった。私の顔には

 多分、不安感が覗いていたに違いない。



  「私は確かにミラノまで、この列車に乗る車掌だ。到

 着までに返しに来る。わかった?」と念入りに説明し、

  「鍵をちゃんとしなさいね」と言って去った。



   二人だけでしかも鍵をしたコンパート。(安全だが、

 何かの危機には外へ出られない)とも思った。そして、

 啓子と思いついたことをぶつぶつ喋り合いながら寝入っ

 た。





 ■  八月  四日  ■

                                                  

   8/4   Milano(Centrale)    Lausanne   Paris(Lyon)  

   Sat   -- 8:20 9:20 --TEE-- 12:38 --TGV-- 16:28   

                                                  

   夜中の駅はオレンジ色の照明でプラットホームを見せ ☆
P-101

☆ていた。ほとんど人気はない。ただため息のように列車

 の下からエアーが吐き出されていた。



  「PISA」と読めたとき、私はドキッとしてしまった。

 ローマからミラノヘは、内陸を通るはずだったからだ。

 ここがピサなら半島の西海岸を走っていることになる。

 とすれば、ジェノアに至る。



   乗り間違えたか、あるいは寝ている間に車が切り離さ

 れてミラノ行きとジェノア行きとに別れてしまったか。



   そして、私たちは車掌に預けたパスポートも切符も失

 い、予定を大きく狂わせてしまう。



   しかし、そんなショックは幸いすぐ立ち直れた。夜行

 列車は、なぜか迂回して運行されている。わざわざジェ

 ノアを経由してミラノへ至る、そう時刻表に表示されて

 あった。



   再び眠ろうとしても、眠れそうになかった。オレンジ

 色の早朝のホームを、早朝出勤らしい人がゆったりと歩

 く。静かに停車する列車の窓の中には、眠ったり新聞を

 読んだり、サンドイッチを食べたりする人がまばらに乗

 っていた。



   列車は左下に白く光る海面をときどき見せながら、走

 った。ジェノアが六時ごろだったか、うとうとしていた

 らしい。ジェノアからは山の間を走り、ミラノに近づく

 と、青い田圃が、日本のそれと酷似して、懐かしい。し

 かし、村の中に突出する教会の屋根は、避雷針を兼ねて

 でもいるのか、民家の四倍も空に高い。やはりヨーロッ

 パだ、イタリアの田舎だ。



   ミラノ五分手前で、昨夜の車掌はやっと切符とパスポ

 ートとを返しに来た。実は気を揉んでいたのだが、私は

 言葉にしなかった。



   ミラノの接続一時間は、次の列車の予約をする。そし

 てさらに、その列車を降りて乗り換えるTGV の席も確保

 しなければならない。



   私の語学力や順番待ちの時間を考慮すると、この二つ

 の予約を済ます時間はかなり足りないはずだった。



   ほとんど走るようにしてキャスターを引きずりながら

 駅員を見つけ、予約窓口の在りかを尋ねると、



  「下へ降りて左へ行きなさい」と教えた。まるで何か

 の大ホールのような駅舎の、三十メートルもの幅の階段

 を駆け下りた。



   すると街路が広く見渡せたが、そこから初めて見るデ

 ザインの街、ミラノを覗くゆとりさえなかった。



   そのまま左折し、リザーブ室を目で探しながら速足で

 歩く。リザーブ室は一番奥から更に左へ曲がり込んだと

 ころにあった。



   窓口に駆けよると、

  「カードを取りなさい。番号をこの上に表示する」と  ☆
P-102

☆教えた。



   掛け矢(木槌の大きいもの)を逆さに立てたような機

 具から名刺ぐらいの札を一枚抜き取ると、そこに二ケタ

 の数字が記入されてある。窓口の上には、電光掲示で現

 在受け付けているNoを赤で表示している。だから、人の

 ならぶ窓口は一つもなく、苛だちの全く消えた待合室の

 風景だった。



  「考えてあるなあ。ここが今までで一番ええわ」と、

 ナポリやアルル、ローマの数十人の列を思い出して感心

 した。しかし、時はすでに十五分も経過している。



   私はTGVだけを予約することにしていた。



   TEEはすでに出発一時間前を過ぎているから、もう締 

 め切られているはずだった。



   窓口を覗き込んで言う(乗る列車をカードに書いて示

 しながら「リザヴェーション、プリーズ。…トゥ、パー

 スンズ」と言う)と、



  「トゥデイ?、トゥモロウ?」と聞かれた。

  「トゥデイ」そして機械から封書大の切符が押し出さ

 れてくる。

  「ハウ、マッチ?」

  「ノウ。ユー、アー、オール、フリー」



   とても嬉しくなった。手早く事が運べたし、手数料も

 不要とは、こんな幸運なことがまたとあるものか。これ

 まで例外なく料金を取られた。その喜びが手足に伝わっ

 て、ほとんど走るようにはねながら階上の乗り場へ戻っ

 た。



   もう出発まで二十分もない。残りのリラで何かを買い

 たかった。二、三の売店を急ぎ見ても買いたいものがな

 い。まだ朝飯を食っていないから、それらしきものを探

 したが、見当たらない。



   まあいいか、ともかく乗ろう、とホームへ向かうと、

 あの丸く、しかもいかめしく形作られたTEEが憩うホー 

 ムの入り口には、特に駅員が立つ。



  「すべて予約が必要」という意味の掲示があるだけで

 なく、構内のアナウンスが「予約のない人は乗れない」

 旨を流している。



  「かまわん。行く」私は意を決した。



   もし見つかれば「TGVに乗らんならん」と今買った切 

 符を見せ、都合が悪くなれば「意思、不通」を装う、そ

 う決めた。



   同じホームの反対側には普通列車がいる。それに乗る

 そぶりをしてホームに入り、半ばにして急左折し、TEE 

 に入り込む。時間が迫っていたからすぐ発車した。



   TEEは二編成が一つになっている。私たちは後ろの編 

 成の最前部にいた。運転室のすぐ横だ。予約がないから

 座席のほうへは行き兼ねて、その場に立っているつもり ☆
P-103

☆だったが、そこには乗務員のためにか椅子が二つ置いて

 あるので、私たちは腰を掛けた。



   車掌がすぐ回り始めたが、私たちには声も掛けなかっ

 た。



   列車はほんの少し田舎を走ると、すぐアルプスの山塊

 や広大な氷河跡めいたところを走りだした。大きな隆起

 や地層の反転がそびえるところにビデオを向け、高原の

 斜めの村をズーむで引き寄せては風景を収録する。



   やがてジュネーブ湖のほとりに出て、木々の間から湖

 畔の風景や町が見え隠れすると、言い知れぬ幸福感に浸

 されてゆく。



  「おい、あれみい。あそこ、よくある風景画みたいや

 ん、なあ」私は啓子を促す。



  「あれなんか、どっかで見た絵といっしょやないか」

  「そやなあ」言われればそう見えなくもないといった

 感情の篭らない返事もある。



  「おい、あそこ、どや」

  「ん、なあ。あっちの方がわたしはええと思うわ」

   いずれにしても、どれもが車窓から一、二秒しか味わ

 えない名画の世界だった。小舟の音さえ聞こえそうなの

 どかな湖畔の風景だった。



   そんなとき国境を通過したらしい。律義そうな車掌が

 来て「切符とパスポート拝見」と言う。



   とがめを恐れながらも差し出す。しかし予約のないこ

 とについては何も言わなかったが、ユーレイス、パスの

 一か所を指差し「シグネチュアー」と言った。サインの

 手抜きを指摘し、

  「今、やりなさい」とペンを貸した。



   それだけだった。



   ローザンヌには、既にジュネーブから来たTGVが停ま 

 っていた。だから乗り換えたらすぐ発車する。今度は切

 符を持っているので、何も心配はない。啓子と大声で話

 しながら荷物を網棚に載せて寛いだ。



   フランス人は気が利かない。ボーイはジュネーブから

 ローザンヌまでに食事の注文を受け付けてしまい、それ

 以後は「いかが」とも言わない。



   私たちは朝から食べていないので、そんなボーイの動

 向がしきりに気になる。



   しかし幸いに腹は減っていても、そうもひもじい感じ

 はしていなかった。たぶん時差の影響だろう。日本より

 八時間も遅いヨーロッパのことだから、体内時計はもう

 真夜中だと信じて眠っている。



   右側は二人がけ席、左側は一人がけ席。その左側の私

 たちよりやや後ろにおしゃべりの男がいた。前へも横へ

 も後ろへも「どこを観光した」の「どこどこの印象はど

 う」のと大きな声でしゃべる。その余波が私たちにも及 ☆
P-104

☆んだらイヤたなと思ったが、話しかけては来なかった。

 彼はカナダからしばしばヨーロッパに来ている男だとい

 うことが傍聴?されたが、それよりもフランス語も英語

 も駆使できるというのが自慢らしく、その語調から察す

 ることができた。



   列車は、かつて通った道をパリへと走っている。

 (1984年の十二月三十日、家族五人でパリからジュネー

 ブへ行った)



   あのときは冬、今は夏だが、同じようにただ広いだけ

 の田舎で、ときどき無人のポンプ車が太長いホースを畑

 の中に吐き出し、先端にスプリンクラーが水をほとばし

 らせている。



   だからTGVが世界一の高速列車であっても、ただ退屈 

 なだけだった。時々、遠景に洋画的な風景が佇み、しば

 しは目で追いながら楽しむ。



   もうパリに近かった。



]  「おい、フォンテーンブローはあの辺やろか。ちょっ

 と古い街があるみたいやぜ」

 

  私は斜め右前を指差した。

  「フォンテーンブローって?」と啓子は、何とも歯が

 ゆい。



  「何言うとんのや。パリ郊外はヴェルサイユとフォン

 テーンブローに行くって言うとるやんか」

  「そうか」

  「そうさ。…古い街やそうやが、駅前からバスに乗る

 のやて。多分、その駅を通るで、駅前付近、見とこ」

  「ん」



   古い街らしいものに近づくのを期待しながら窓の外を

 見続ける。しかし、見捨てながら走りさる小駅にバスの

 停まるような気配はなかった。駅舎もなく、ただ低いプ

 ラットホームに数本の電柱が空しく立つだけだったり、

 ポイントを踏む不規則な音が、軽く鳴るだけだった。



   パリだ。私は早めに立って荷物をキャスターに積み、

 降りる準備をした。



  「降りたらともかくその辺の食堂で何か食おか」

  「そうしよ」



   あのときは、添乗員がここガルドリヨンのホームの外

 れまで私たちを見送ったのだった。



   いま再び、同じような場所に私たちは滑り込んで、停

 まった。



   私はキャスターを引き、ステップを降りるときは丸ご

 と抱えてホームに着地する。再び速足にキャスターを引

 きずりながら改札のほうへ進む。それにしても、ヨーロ

 ッパのホームは長い。日本の四、五倍も歩く気がする。



   大勢の人が改札へと流れを作る。避け合いくぐりあい

 抜け合いながら急ぐうち、ポーター用の大きなキャスタ ☆
P-105

☆ーに二十歳近くの若者が三人ほど、 危うげに腰掛け乗 

 っているのに出会った気がする。



   彼等は停まったままで人の流れに目を向けていた。そ

 こを過ぎるころ、なぜか左から私にぶつかる者がいた。



   あとから考えると、あんなにまで私を押したりぶつか

 ったりしなくても、歩く場所はあったはずだ。しかし、

 これは後から思い起こして言えることであり、この時は

 多少のウルサさを感じはしたものの、さほど気にも留め

 ないで、ひたすら改札のほうへと進んで行った。



   ホームの外れを駅舎に突き当たると、すぐレストラン

 になっている。その右脇をすり抜けて、一度は表をうか

 がったが、休憩できそうな場所も見当たらないので、す

 ぐ再び戻って、レストランに入った。



   カウンターの左隅からは通り抜けができる。その抜け

 口に近い辺りに席を占めて腰を掛けた。テーブルには十

 人ほどの客がいる。



  「ブワール?  モンジェ?(飲むのか、食うのか)」

 と中年のボーイが問うた。



  「モンジェ」と答えると、

  「それなら、テーブルにつきなさい」と言った。



   私はちょっと食いたいだけだった。テーブルについて

 改まったものを食うほども気が向いていなかった。



  「もううええわ。出よか」と私は啓子を促し、すぐ左

 の抜け口から改札口側へ出た。



   他にいいところがあれば入るし、なければなくてもよ

 し、ホテルに戻ってからゆっくり何か食べる、そんな気

 持ちになっていた。



   地下へ下るエスカレーターを降りた。そのとき後ろの

 男が体に触れるほど接近していた(ように思う)。押さ

 れては危ないから肩を不自然に前に曲げ、強く押されな

 いように用心していた(ように思う)。地階にはレスト

 ランはなかった。通路はRERやMETROに通ずるばかりだっ

 た。



  「もう諦めた。ホテルに戻ってから食べよに」と啓子

 に言おうとして「はっ」とショックを受けた。



   それは、私の人生における数少ない大ショックで、す

 べてを根底から覆えすエネルギーを持っていた。「ヴィ

 デオがない!」



   肩に手をやったまま、私の内面も外界も空白になり、

 しかしフルスピードで近い記憶を力いっぱいに再生させ

 ながら、たちどまっていた。



  (いま、エスカレーターで後ろから押した男だ)

  (かも知れない)と思う。思考の速さはこんなふうに

 文字に書いたり読んだりするほど悠長ではない。秒の何

 分の一かでこう思い、思う瞬間にその男の姿を探してい

 た。                        ☆
P-106

☆  しかし、残念ながら「後ろから押し」ても、姿を見て

 いないからわからない。私はウロウロする暇はなく、右

 へ左へほぼ十メートルほどずつ走った。



   男の持ち物を「おまえか、おまえか」と見て駆ける。

 しかしはっきりそれと思える男も見い出せない。



  「上のレストランを見よ」私は叫んで、上りのエスカ

 レーターを走り上がった。抜け道側から飛び込んで、さ

 きほどの椅子に駆け寄り、カウンターの下も覗きながら

  「アイ、レフト、マイ、キャメラ」と叫んだ。



   ボーイが「?」両手を広げて「(ないよ)」という素

 振りをする。近くの席の老年に近い男が、

  「ここにずっといたけど、見なかった」と言う。



   諦め切れない私はそこをウロウロして、再び抜け道か

 ら出ようとするとき、若いボーイが店の奥にそそくさと

 姿を消したので、瞬間の猜疑心が賄いの奥を何か隠して

 ないか、と覗く。しかし、それも長時間はできない。



   出たものの、諦めのつかない私はウロウロと動いた。

 すべての人をにらみつけるように動き回った。



  「ひょっとすると、列車内に置き忘れたかも知れん」



   私は力なく言った。たぶん列車ではない、しかしそう

 であるかも知れない、といった程度の可能性だった。



  「荷物、しっかり見とって、ここ、動かんといて」私

 の声は震えていた。そして、全速力でホームを前へ走っ

 た。力いっぱいに走った。12号車63,64席。頭脳も全速 

 力で回転しながら列車に駆けこんだ。人は誰もいない。

 席に走りながら、



 (今もしも車庫に向かって走りだしたらどうしようか)

 と不安(というより恐怖)に駆られた。座席、その下、

 網棚をタタタと見て、ない、との残念さは走り出ながら

 味わう。



   再びホームの外れの啓子のところへ駆け戻りながら

 (とすれば、どうしたんだ。やっぱりエスカレーターを

 押した野郎か、ウーンしかし、ホームで左から押した野

 郎か…いや、その両方とも同じグルの野郎かも、…オレ

 に目をつけてぶつかることで注意を反らしながらヴィデ

 オカメラのバッグのバンドを切って、重みの変化を感じ

 させぬように盗ったに違いない…)



 (そうだ、オレはヤラレたんだ…)



   啓子のそばへ戻ったときには、うなだれきっていた。



   体こそじっとしておれないほど活動し続けていたもの

 の、心はいわば「泥だらけ」だった。買ったばかりの高

 価な服を、着てすぐドブにはまった感じだった。いや、

 それならクリーニングすればいい。建てた家を焼いた感

 じって言うものを、もしも私が知っていたら、それに例

 えたかも知れない。



   諦めがつかなかった。探しようもなく通行人の荷物を ☆
P-107

☆にらみ探しながら、例のエスカレーターで階下へ降り、

 また通行人の荷物をにらむ。そんな数回を繰り返してエ

 スカレーターを上がったとき、そこに駅舎の天井へヴィ

 デオカメラを向ける男がいた。はっとした。



   私のヴィデオカメラと同じ機種だ。声を上げんばかり

 に近づく。しかし男は、あの私の黒いバッグを持ってい

 なかった。声のかけようもないのだった。



  「しもたな」私の声に力がなかった。明けても暮れて

 も注意を重ね、人にスキを見せなかったつもりだっただ

 けに、諦められなかった。しかしもう方法はない。盗ら

 れたにしても置き忘れたにしても、ねらわれやすい日本

 人の「失せもの」だ。出てくるはずがないだった。そう

 理解だけは出来ているのに、諦められないでいた。



  「しもたことした…」歩くときはいつも、たとえば今

 日も、啓子の肩掛け鞄には数秒にいちどぐらいの回数で

 目をやって注意していた。ひったくりの用心だ。だから

 先に歩かせていた。もしも私が先に歩き、キャスターが

 真ん中、その後ろを啓子、の順で歩けば、ヴィデオは助

 かったのかも知れなかった。しかし仮定だが、肩掛け鞄

 がひったくられたかも知れない。



   私は「ねらわれ、そして盗られたに違いない」と考え

 た。



   諦め切れない気持ちなのは、第一に「ドロボウなんか

 にやられるもんか」と思っていた私の自信が覆えされた

 ことによる。ニースの子供スリに力づくでやられた思い

 がしたのと同様だった。第二に、ヴィデオカメラよりも

 私が今回の旅をすべての時間にわたって「記録」に留め

 ようとして、ノートに書き残してきた、その「記録」が

 失われたこと。「旅日記」は、克明につけていた。多少

 瞹昧なところが、もしもあったにしても、そこはヴィデ

 オフィルムが補う。あの黒いカメラ鞄には、カメラと日

 記とが入れてあった。八月四日、あと二日を残すに過ぎ

 ないこの日、七月二十三日から二週間の記録をすべて奪

 われてしまったことになる。



   第三に、カメラは性能がよかった。私のいわば伴侶に

 なるはずだった。



   喪失とか虚脱とか言葉では言う。私はまさに「それ」

 だった。もしここが日本だったら、私はその日の行動を

 その場で打ち切っていたに違いない。やりきれない気分

 の極みだったからだ。でもそこは「異国」だった。行動

 を止めるわけにはいかなかった。



   腑抜けの頭でカラダだけを引きずる。



   ホームの番号が少ない側、つまり左側に若者のたむろ

 する所があって、「失せもの」の相談にでも乗ってくれ

 ないかと、係員に、

  「ポリースはどこですか」と尋ねると、        ☆
P-108

☆  「0番ホームをずっと前に行きなさい」と教えてくれ

 た。



   心にも体にも力が無いのを感じながら、しかし思いの

 ほかに速足で、大きな駅の左端を歩いて行った。歩きな

 がら心のどこかで(明日か明後日か、あるいは数日後か

 帰国後かにオレは病気になるのじゃないか)と思った。



   二百メートルも歩いたように思う。ポリスがあった。



  「ボンジュール」と笑顔も見せずに喚いて入ると、バ

 ーのようなカウンターに男二人、女一人のポリスが笑顔

 で(どうした?)という表情を見せた。



  「マイ、キャメラズ、ストールン」私は、ポリスに抗

 議するように叫んだ。



   色白のハンサム男のポリスが主任格らしく、

  「君、英語で聞いてあげなよ」らしく女ポリスに言っ

 た。



  「どこで?」と女ポリス。

  「この駅の、どこか分からないが、気がついたら取ら

 れていた」と私。



   実際はスラスラと言ったわけではない。(「I found 

 my camera's stolen after we got down from the     

 train and went downstairs」)などと文法に叶おうが 

 叶うまいがともかく言う。



  「駅のなかで、それとも列車の中で?」

  「駅の中だ。列車を降りるとき、カメラを持っていた

 と思う」

  「忘れ物ではないのね」

  「忘れ物ではない。歩いていて、気がついたら取られ

 ていた」

  「OK.じゃ、こっちへ入ってください」と奥の廊下を

 曲がった事務室に通され、

  「座って」と椅子を勧められた。

  「しばらく待って」



   私は係員を待つ間、これから事情を聴取され、こんな

 人相の男がそばにいたか、とか、こういう状況ならあな

 たは鞄をこうぶらさげていたんじゃないか、とか、この

 駅でよく起こる盗難被害のケースと比較し、ああ、これ

 なら、いつものこの手口だから、あの連中かまたはこの

 チンピラどもの仕業だ、探して見るからカメラと鞄の特

 徴をはっきり言ってください、なんて事が運ぶと信じて

 いた。



   だから、列車を降りてからの自分の行動とその情景を

 克明に再現しようとしていた。



   その男が平服で、いかにも気楽に出てきたとき、私の

 ポリスへの期待感は、もう半減していた。



   案の定、彼は「事情」を聞こうとはしなかった。書類

 を二通、出して私に渡しながら「どうぞ」と言った。  ☆
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☆  一通はフランス語、一通は日本語だった。



   それは「被害証明書」だった。(そんなことより探し

 てくれよ)と叫びたかった。



   映画では有名なパリのポリスも、現実はこんな実態だ

 った。(オレたち、探す気なんかない。証明書を作って

 やるから、日本へ帰って保険をもらったら)と言ってい

 るのだ。



   フランス語の書類にはすでに「被害状況」が選択肢の

 形で印刷されていた。それを一番から順に書こう。パリ

 の犯罪実態を示すようで興味深い。

   1窃盗、2ひったくり(強奪)、3店で盗む、4店を

 破壊して盗む、5その他、とあるから、ここに届けられ

 るおよその被害届けは、この四つに該当するのだろう。



   書き終わると、平服男は、古ぼけたタイプライターに

 カーボン紙と証明書とを数枚挟んで、ほとんど人さし指

 ばかりで打ち始めた。



「なまえは?」…「年齢は?」…「とられたものは?」

 …などと聞いては打つ。打ちながらミスタイプする。す

 ると、単にバックするだけで、修正するからその部分が

 ぼける。でも平気で続ける。



   出来た証明書を三つに剥がして、向こうの二通にサイ

 ンをした。一番下の、ぼけて読めそうにないものにスタ

 ンプをついて、「どうぞ」と呉れた。



   これで終わりだった。出てきたらどうするとも、たぶ

 ん出てこないかもとも、これから気をつけてくださいと

 も、なんにもなかった。



   再びカウンターのところに戻って、それでも、

  「サンキュウ」と女ポリスに、「メルシーボークー」

 と男ポリスに愛想を言ったが、私の顔には笑みの片鱗さ

 え作れなかった。



   六時を過ぎていた。



   私たちがポリスを出るとき、子連れの若い夫婦が、用

 件を終わって出ようとしていた。



   いかにも力なく、しょげきったアラブ風の旦那が、一

 メートルをはるかに超える長細い背負い袋を、椅子の上

 に上げて背中にしょいこもうとしていた。



   私たちが来たとき、奥の左で男ポリスに聞かれながら

 うなだれていたが、そのときの私は他人ごとに関心を向

 ける心のゆとりがなかったのだ。たぶん、彼も何か大切

 なものを取られるか失うかして、ここに訴えたのであろ

 うが、私同様、取り返す望みをたたれ、諦めがつきかね

 たまま、再び荷物を担ごうとしている、と想像できた。



   二十前半と見えるアラブ系の妻、抱かれた女児、いず

 れも虚脱に近い表情で、席を立ち上がりかねるふうだっ

 た。



   私には保険がある。まだそれでも彼等の絶望の表情よ ☆
P-110

☆りは少しましだったようだ。ポリスを出るや、長い一番

 ホームを速足に歩いて、いやな思いを振り払うように駅

 を出た。



   メトロで宿に戻る。



   トランクを受け取ろうとすると、

  「知らない」という。



   出がけには(No problem)と安請け合いしたくせに、

  「あの物置に入れたじゃないか」と、相手の許諾もな

 しに私は階段の突き当たりの、古い家具などを格納した

 物置からトランクを取り出してきた。



   フロントのおばさんは、何も言わなかった。



  「部屋はある?」(もう3晩、泊まるのだけど)とは

 言わなかった。

  「あるわ。けど405番はだめ」



   値段は前と同じだった。部屋で寛いでから、こんなつ

 まらない気持ちを早く払拭したくて、外のレストラン街

 へと出た。



   七時でも、夕食にはまだ早い。印度人の経営と思われ

 る店へ入って、50Fと60Fの定食を注文した。焼肉を食べ

 ワインを飲む内に元気が出てきた。



   隣席は、夫婦とその娘二人に姉の婿、五人の食事だっ

 たが、何かのきっかけで話が始まって、いつの間にか家

 族同士よりも私たち異国人との話がメインになってしま

 った。



   お人好しだった。無口な妹の少女が気になって、年を

 尋ねたら、十八歳で、高校を卒業したばかり。大学では

 化学をするという。



   こうして異国の人と、心を通じ合わせるとき、私は

 (来てよかった)とつくづく思う。



   気持ちがよかった。いやな思いは、決して消えること

 なく心に重く持ちながら、元気が出て、残りの日々を充

 実させようと思った。



   夜、暑かった。ドアを開け放して風を通した。



   また、考える。

 (列車内に置き忘れの可能性も全くないわけではない。

 だから、忘れ物や拾得物の窓口を尋ねて、届けて置こう

 か)



   私は辞書を繰って「Objects trouves(遺失物係)」 

 を見つけた。





 ■  八月  五日  ■



   リヨン駅のInformationで、「objects trouves はど 

 こ?」と聞くと、                                  

  「19番線の先を左に行ったとこだ」と言った。     ☆
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   8/5   Gare-de-Lyon        Porte de Clignancour 

   Sun   (objects trouves) ----   (蚤の市)   

        夕食は La Cour Saint Germain で        

        散歩は Saine河畔にて Notre Damesを望む

                                                  

☆  広い駅の左の外れには、ひっきりなしに荷物を積みお

 ろしするカーゴが行き来する。電気自動車みたいなとこ

 ろにドライバーが乗って、ぞろぞろ六、七両もカーゴを

 つけて通過する。そのつど鉄柱で身をよけながら、長い

 ホームを過ぎて左の貨物扱いの場所に入っていった。



   かつて日本にも駅の横のほうには、主にマル通のマー

 クをつけた大きなトラックや倉庫などがあたりを威圧し

 ていたが、フランスはあのままの雰囲気を今もとどめ、

 なお活気を見せていた。



   日曜日だから少々はトラックの出入りも少ないのだろ

 う。  積みおろしをする船着場みたいな倉庫の庇の下を

 潜ると、教えられた建物があった。



  「あった」やっと見つけた喜びが声になって出て、

  「オブジェ、トゥルベ……おい、土、日、祝日は休み

 って書いてあるぜ」



   そしてその下に「8:00〜18:30」と書かれてあった。 

  「ええやないか、場所がわかったんやで。あした、ま

 た来うに」



   地下鉄に乗って、終点、ポルト、ドゥ、クリニャンク

 ールまで行く。



   ここは我が家族の最初のヨーロッパ旅行のとき、予定

 をしていた目的地だったのだ。



   冬の日は短く、カルチエ、ラタンをしっかりと見極め

 られなくて断念したのだったが、いまやっと来た。



   駅を出るとすぐ道に露天が並ぶ。



  「ここでみやげ、買うてしまお」            ☆
八月五日つづき
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