背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             













 

P-111(つづき)

☆「ここでみやげ、買うてしまお」



   残された日数も少なかったし、露天の品数も豊富だっ

 たから、すぐにそう決断した。



   パリの街でみる若者は、バーミューダ・パンツみたい

 なのを履いているが、バーミューダと違うのは、色がカ

 ラフルで鮮やかすぎて夜光塗料を塗ったみたいであるこ

 とと、左右が非対照であることだ。



   白人の若者が、緋や紅の左腿の次にはブルーやイェロ

 ウの右腿をと、交互に出して歩を進めても、何ら奇異に

 は感じないのだ。



 (オレもこんなの履いたら気分がスッキリするかな)と

 思った。



  「兄貴にあんなのを土産にしたら、履く、ちゅうやろ

 か。…もし言わんだら、桂にやるか、それともオレが履

 く」                        ☆
P-112

☆  私は左右非対照パンツを買った。二枚買った。値切っ

 たら、少々負けた。



   皮革の店では、啓子がスカートを何度も値切った。



   交渉通訳は私がする。結局三割ほども安く、日本円に

 して一万円程にして、買った。



   露天の道は、程なく左に曲がった。売る品物が一段と

 古物じみてくる。機械の古、オモチャの古、古レコード

 に古本、楽譜、写真。香料、香料に関係のない骨董や古

 物からも匂いが放たれていそうに思える。装身具や訳の

 わからない品々。売れる値うちがこんなものにあるのか

 と思われるものまで、露天の屋台に広げて、日除けの布

 を天井にして売り子は無表情に黙ってすわる。



   掘り出し物があれば買おう、という気持ちもすっかり

 萎えて、退屈に歩いた。



   再び大通りに出ると、そこは屋台もなく、地面に数点

 だけ並べて客を待つだけの「市」になってしまった。



   最後の露天は陸橋の下で、古靴二、三足だけの「市」

 や自分の持ち物だけを換金したいために「市」に出たと

 思われる十人あまりが、黙って立ったままでお客を見つ

 めていた。



   しかし、その辺りでは品物に触る人さえもなく、単な

 る「蚤の市の一風物」になってしまっていた。



   戻る。真昼の日差しが暑い。しかし、けだるくとも精

 一杯の注意力で通行人の行動に警戒心を注がねばならな

 い。さきほどパンツとスカートを買ったあたりまで戻っ

 て、やはり土産にすべきものをもっと買おうと決めた。



   スカーフが一本、約千円。薄物の淡い色つけだが、啓

 子はこれがいい、と言う。



   値段もいい、と気に入った。



   そこで私の出番。



   店のおっちゃんは、白人の五十男。



   ちょっとにやけて、日本にもよくある商売家の主人。

  「ボン、マルシェ」と迫っても「ノン」。



   啓子が身振りで示しても、「ノン」と手を横に振る。



   親戚の誰と誰と…と、スカーフが土産になる人を数え

 上げて、数本を買った。



   支払いの段階でもうひと頑張りしたが、顔は笑顔のま

 まで、しかし「ノン」とはっきり言った。



   昼寝とまでは行かないが、ホテルのベッドの上で午後

 の休憩を取って、夕食は少々豪勢にと、サンジェルマン

 通りを西へと歩く。



   左の通りに曲がり込むと、案内書にも土産物を買うの

 に都合がよい小間物の店が紹介されてあったが、訪ねた

 時がシエスタで閉っていたいため、目的が果たせなかっ

 たが、硝子のウインドウから真剣に覗いた結論は、私た

 ちの望むような品物はあまりなかった。どちらかという ☆
P-113

☆と、未熟な若い少女が、世間知らずにも、「ワアカワイ

 イ」とか叫びながら、手にとる化粧石鹸やハンケチの類

 ばかりであったから、もし開店をしていたとしても、買

 ったか買わなかったか疑わしい。



   ともかくもう一度ここを訪ねようとは思わなかった。



   引き返して以前に買った果物屋の露天を見ようとした

 りして時間を潰し、五時過ぎであったろうか、まだ客の

 ない「クール・サンジェルマン」に入った。



   西日がわずかに入る店の中は、ほとんど晩秋の感じが

 した。



   開け放たれた窓に近い壁際に導かれた。ここフランス

 にしては珍しくウエイトレスが世話をする。



   適当に肉料理か何かを注文したような気がする。そし

 てやっと覚えたロゼワインが柔らかに体をめぐり始める

 ころ、スリにやられドロボウ野郎にいたぶられた私が、

 わが身のみじめさをつくづくと思う。



   ちょうどそのころ、私たちの隣に食事をしていた一家

 族と話が始まった。



   旦那はハンサムで、歳は五十の後半か六十の始め。



   奥さんは五十代だろうが、あまり美人でもない。同じ

 く娘も母親似。男だけが整った顔だちと明るさとを備え

 ている。



   英語がわかるのもこの男だけで、始めは彼の方が多く

 語りかけてきたが、ドイツ人だが訳あってフランス人と

 結婚した、というように聞こえた。



   私は、だからドイツの話を知っているだけ持ち出そう

 として話すうち、

  「私は、ドイツ人じゃないが」と男は静かに言った。



   しかし感情を害していた訳ではない。



   話は娘や奥さんのことになる。



  「ウチのは、英語が分からないんだ」と男はフランス

 語に直しては、会話を取り次ぐ。



   奥さんにも笑顔が出て、娘も私に愛想を向けた。



   満足した食事の後、その場に座りながら、私は啓子に

 つくづく心を吐露した。



  「なあ、いつもこんなに親しくなれるのになあ。これ

 ほど友好的なオレが、どうしてあんなイヤな思いをしな

 けりゃあならんのだ」



   私は改めて憤慨していた。



   そのままホテルに帰るのは惜しく、いつものようにサ

 ンジェルマン大通りの一本左の通りに入って、本屋や喫

 茶店や飲み物屋を左右に見ながら、サンミッシェルの広

 場へと歩いてきた。



   残り少ないパリ滞在の日数を思うと、私たちの足は止

 まらない。ホテルの前を通りすぎ、ひしめくレストラン

 と張り出したテーブルとを脇に眺めながらセーヌ河岸を ☆
P-114

☆歩いて、シテ島の南端が目前に見えるところまで来た。



   ノートルダムの眺めはここが一番だという。なるほど

 九時を過ぎてなお赤みががっかた夕日を受け、とぎった

 二本の塔をもつ寺院は、歴史の深いイメージをたたえて

 いた。



   日が沈むまでの時間をここに過ごしたが、川風は涼し

 さを越えてすでに寒かった。



   再び河岸の通りを戻るとき、小公園の鉄柵の扉が、い

 ま閉められるところだった。



   街はわびしく灯火を増やしていったが、満たされつき

 ない未練が、それでももう一本、通りを遠回りさせてホ

 テルへの道を遠くしていた。





 ■  八月  六日  ■

                                                 

   8/6    Gare de Lyon -------- Saint Honore通り 

   Mon    (Objects Trouves)                        

            Self Tuileries -------- Gare de Ryon

                                                     

   七時起床。八時にホテルを出てリヨン駅へ向かう。昨

 日見ておいたので、迷わず左ホームの外れを奥へ奥へと

 進み、Objects Trouv s(遺失物室)に着く。



   係の女性が二人いて、本職の事務員と雇いの助手、と

 いった感じだったが、その中年の方は英語が少しも分か

 らない。もちろん私のフランス語も正確な物事を伝達す

 るには役に立たないので、



  「パレヴ、アングレ?(英語、話す?)」と言うと、

 少女の方に向かって

  「聞いてあげて」と窓口を譲った。

  「八月の四日に、ここに着いたローザンヌからのTGV 

 に、テレビカメラを置き忘れた」



   すると、中年のほうは、床にある数点の遺失物らしい

 ものを左右から眺めたて、少女に言わせた。

  「その品物は、まだここに届いていません」



   土曜日のことなんだから、なかった、とはっきり言え

 ないことに私は不満だったが、それよりも隣室の戸棚に

 まるで質流れの品物が保管されてあるように、エフをつ

 けた品物がおびただしく見えていた。



   どうしてそれを見ないのか。土、日は休みだから、今

 日、月曜日に出勤して以来の届け物のすべてはこの床の

 数点だけというのだろうか。



  「まだ届いていない。だから、今日の五時に、もう一

 度、ここへ来てください」と言う。

  「そうしましょう。ありがとう」と私たちは、今日の  ☆
P-115

☆予定、即ち本気で土産を買うために町中へ戻った。



   ルーブルからチュイルリー、そしてコンコルドに至る

 通りは、その北側を世界の人種が歩いて土産物を見る。



   日本人が団体で案内される土産屋なんかは、いかにも

 「それ」風で、私は好きではない。しかしこのリボリ通

 りは、決してそういうイヤらしさはない。見ていじくっ

 て、気に入らなければしゃべって、愛想を作ればいい。



   私は心に決めていた。フランスは香料の国だ。だから

 香水を買えば最も高い。そして私の生活感覚からは異質

 な趣味になる。



   匂い袋にはハーブがつまっているが、日本の風土に置

 き換えれば、蓬(ヨモギ)や楠(クスノキ)などのよう

 に自然の香をふんだんに含んで、土となじみの深いフラ

 ンスらしさを有している。



   アルルでも少々買ったが、これをここパリで買い添え

 よう、そう決めていた。



   匂い袋は、五つとか六つとかを繋げてぶら下がってい

 る。だから数人分の土産を一度に解決し、持ち運びも便

 利だ。



   第二に、化粧石鹸で八つほど繋がったのがある。小さ

 な固い紙箱に一個ずつ収まり、それが透明のプラスチッ

 クケースに八つ一列に並ぶ。紙箱の模様が、一個ごとに

 異なりながらも、金色の地に赤や青の線で描かれた文様

 は、その雰囲気がヴェルサイユに通じている。



   鼻孔をあえて近づけなくても、かなりな芳香で、上流

 の社交界に(事実はともあれ)漂ったであろう貴族女人

 (にょにん)を臭覚から連想せしめるに足る。



   もちろん私は、この連想まで含めてお土産にするつも

 りなんかないが、異国の芳香を持ち帰りたいと願った。



   事実、リボリ通りを「土産探し」の目的だけで歩いて

 みて、やはり私の思いは外れてなかった。



   卓上の飾り物やパリの風景画をプリントした掛け物の

 類、それからパリの絵のTシャツを除けば、したたかな

 思いを込めて買って帰りたくなるようなものは見当たら

 なかった。



   しかし、この場で思いがけないことも起こっている。

 というのは、私は高級な服装のショウウインドウには用

 がないのだが、ひとつだけ「アレッ」と目に止まったも

 のがあった。



   高級品志向のおしゃれ人間が見るはずのパリモードに

 混じって、ジーンズのワンピースがマネキンに着せてあ

 ったのだ。前がすべて釦開きで、胸元を比較的広く着付

 け、膝元はいちばん下の釦が、外し開けられていた。



   腰には細い黒のベルト、左の胸にはバラの造花が花の

 柄(え)をのけぞらせて刺し止められてあった。



   (実に質素だ。そして実におしゃれだ)瞬間にそう思 ☆
P-116

☆った。(これなら恵美の土産になる)

  「あれ、みてみ」啓子に興奮した声をかけた。

  「あんなん、恵美にええで」

  「ううん、そうかなあ」

  「ええぞ。ジーンズやでな、飾っとらんように見えと

 るけど、センスあるで、あれは」



   360Frほどの値段だから、日本円にして約10000円に

  当たる。そう高くもない。



   思い切って中へ入った。

  

「試着をしたいのだが」とマダムに告げると、すぐ用

 意をしてくれた。



   過剰な愛想はない。啓子は顎の下から胸の前に服を垂

 らして、鏡を見る。



  「胴が長いなあ」

  「アア、マダーム、アヴェブ、アーン、アリトル、シ

 ョーター、ワン?」



   英仏混合で要求する。

  「ウイ、ムッシュウ。……ヴア、ラ」



   啓子は再び合わせて、

  「ちょうどや。恵美にもええに。…そやけど、着るや

 ろか」

  「きるさ。オレが買うたんやっちゅうて、やるわさ。

 着るに。…買うぞよ」

  「ア、マダム。ダ、コール」

  「メルシー、ムッシュー」



   愛想よく支払いを済ませ、挨拶もして、私たちは通り

 へ出た。そしてルーブルのある方向へ少し戻って、セル

 フ・チュイルリーで昼食をとった。



   列に並んでご馳走を取るときに、食べ残さないように

 それぞれの腹加減を計って、うまく取った。



   一本北へ入って、東へ進むと、サントノレ通り(Rue 

 Saint Honore)で、高級品の店が多いから目の保養に、

 左側、右側と気の向くままに渡り鳥をしながら進む。そ

 して一軒だけ、なぜか入りやすくて、買いたいものがあ

 りそうに思えて入った。

 

   最初の店員はフランス語だったが、もう一人は流暢な

 日本語なので、顔を見ると日本人だった。



   過剰な愛想はなかったが、行き届いた応対をする。私

 たちは安心して土産ものの意見を求めていた。



   通常なら、こちらの気分に関係なしに(いま、ここで

 買わないと損します。ここだけがだまされない店です)

 みたいな押し付け宣伝をして買わせるのだが、そういう

 「日本人がましい」応対も根性もなかった。



   言葉の通じ合える日本人同士が気を許して情報を得て

 いるといった感じになれた。



   啓子は特に気を許したのか、座り込んで寛ぎ、アクセ ☆
P-117

☆サリーを、買うはずのない高級なものから買えそうなも

 のまで、すべてを見せて貰っていた。



   私も結論を急かさなかった。勉強になった。



   初めてみるのだが、ネックレスのペンダントが、円盤

 の中に放射状に窓を開き、そこに小さなステンドグラス

 が薄くはめられていた。



   それは金だけの細工よりもはるかに品がよかったし、

 カメオのように因縁を含まない。私も気に入った。

  「買うやわ」と賛成して、金額の大きい土産を初めて

 買った。



  「香水なんかが好まれます」とは言われなくても承知

 していることだが、フランスへ行って香水を買って帰っ

 たって、なんと「当り前」のことか。

  「そういう、ありきたりの旅がいやなんだ」

 と言うと、

  「オウ・ド・トワレなら、いいんじゃない?」と日本

 人店員。

  「どうして?」

  「香水扱いしないの。だから二オンスまでの制限に入

 らない。つまり化粧水なの。けど、香水と同じよ」



   また勉強をした。フランス人は香水も化粧水も別に区

 別する必要はない。



   外出前に、洗顔の後に、入浴の後に、顔に体に、また

 衣服に、時にはベッドに部屋に掛ける。要するに香料を

 使うのだ。



   ところが日本人は輸出入の課税に絡む政策的な思惑か

 ら、これこれの香料は「香水」だから税を課す、と勝手

 に定義し基準を決めている。



   私はこれを、今回のもっともフォーマルなお土産にし

 ようと心に決めた。二つだけ買った。最も義理のあると

 ころにと、上司にであった。



   時刻はまだ若干早かったが、リヨン駅の遺失物室が気

 になっていた。



   ひょっとして出てきているかもしれない、という期待

 が消し難く頭をもたげてもいた。



   メトロでリヨン駅へ行き、三度め、長々と歩いて窓口

 にたった。



  「エクスキューズ、ミー。    ア、リットル、アーリ

 アー、バット、イズ、マイ、ヴィデオキャメラ、ファウ

 ンド?……アン、アイム、ヤブノ。アイ、ケイム、ヒア

 ー、ヂス、モーニング…」

  「アイム、ソリー。イッツ、ノット、ファウンド、イ

 ェット。アー…、キャン、ユウ、カム、アゲイン、ツモ

 ロウ、モーニング?」

  「ノウ、アイム、ソリー。アイ、ハフ、トゥ、ゴー、

 バック、トゥ、ジャパン。フライト、イズ、アット、イ ☆
P-117

☆レヴン、トゥエンティ。アイ、キャノット、カム、ヒヤ

 ー」



   少女は黄色い紙を出して「Write it down,please」と

 いう。いつ、どこで、何を忘れたのかを記入し、私の住

 所と名前とを書くものだった。



   私には無駄に思えた。今ないものが明日以降に出て来

 るとは思えないし、また、仮に出て来てもどうやってこ

 こまで引き取りに来れるんだ。



  「May I ask you a question?」



   我が強い私はまた反発したくなっている。

  「Yes,…」

  「If…Ahn…After my video-camera is found, will 

 you kindly send it to me to Japan? Ah…It's so far

  …?」



   ところが、少女は表情に少しの感情も交えず、さきほ

 どと少しも変わらぬトーンで、

  「Yes」と言ってのけた。



   送料など高額だがどうするのかな、と余計なおせっか

 いの心がうごめくが、やめた。



   素直に「Thank you 」とお礼を述べ、紙に書く。



   このやり取りの間じゅう気になっていたのは、私たち

 が来た直後に、私たちよりも十歳ぐらい年上の西洋人夫

 婦が、ほとんど駆け足でこの窓口前の待合室に入ってき

 て、私たちが終わるのを待っていた。



   男のほうは額に汗をいっぱい掻いて、じっとしておれ

 ないほどの焦りを表わしていた。



   気になりながらも自分のことをする。



   失せ物は、「Video-camera」et Sac noir,Note-book,

 Video film 」  



   列車名は、時刻は、「4.aout, dans TGV Lausanne - 

 Paris Lyon 」



   名前は、住所は、「Yabuno Yutaka, suzuka-si jike 

 3-chome 1-14, Japan」



   私は紙を提出した。英仏まぜこぜでもなんでもいい、

 ひょっとして役立つこともあるかも知れない。



  「Thank you. You are kind」そういって立ち去ると 

 き、後ろに待つ汗の男の表情を見た。



   その狼狽ぶりからみると、私が失くした物から受けた

 ショックや喪失感よりははるかに重大な出来事に襲われ

 ているに違いなかった。



   この駅まで列車で旅してきたこの男の身の上に起こっ

 たことを、さまざまに根拠もなく想像した。そして、人

 間なる動物が作る社会の中で公徳心のない輩が引き起こ

 す犯罪を嘆いていた自分が、

 (しかしなあ、これが社会の真相かもしれないぞ)と思

 い始めていた。                   ☆
P-119

☆  長いホームを戻りながら、(警察にも届けて被害証明

 をもらったし,また、忘れ物だったかも知れないと遺失

 物届けもした。この地でできることはこれで全部した)

 とある種の心の安らぎを見出していた。



   寂しい心情ではあったが、それなりに償いをしたよう

 な気分になった。



  「かわいそうに、あの男、多分とは思いますが、リヨ

 ン駅でなくしました、なんて言うとった。奥さんがハン

 ドバッグ持っとったやろ。男は手ぶらやった。荷物か鞄

 か、すっかりイカれてしもたんと違う?  どやろ」



   五時前では夕食に早すぎる。



   ノートルダムで下車して、中に入ることにした。



   私は三回めだが、誰にも急かされず,何らの規制もな

 く、かつ説明を受けずに入るのは初めてだ。



   主にステンドグラスを楽しみながら、二人で感想を言

 い合って歩く。



  「歌が聞こえても、坊さんの祈りや説教が、ほら、天

 国の光とまじりあって聞こえてくるのやさ。神々しくて

 涙さえ出そうやないか。…それにしても、キリスト教は

 じょうずやな。ひとの心、すっかり向こうへ持っていっ

 てしまうで」



   ステンドグラスの下の小部屋は暗い。懺悔用の金網を

 張った小窓もある。蝋燭も幾十本と並び、それぞれの長

 さで蝋を垂れている。柱に額をじっと押し付けたまま、

 何かに耐えているように身動きもせずに祈っている人。

 彫刻物に間違いそうだ。



   外へ出る。

  「もう、上へは昇らんとこ」



   映画の「ノートルダムのせむし男」でみた奇怪な動物

 が彫刻され、庇に軒に突き出ている。見上げながら、す

 ぐなんでも上りたがる啓子を牽制した。



  「そこ、覚えとる?  最初、家族で来たとき、そこの

 土産物屋で、電話のメモ帳を土産に買うていったわさ。

 南高校のころやで、裕子ちゃんにやるためやった。…入

 ろ」



   若者向きの土産がおおく、Tシャツにノートルダムが

 プリントされていた。



   ノートルダムの東側は、よくそこから絵に描かれたり

 写真になったりする。そしてそこは公園風の広場になっ

 ているから、そこへ観光バスが団体を降ろす。



   日本人の団体はいなかった。私はカメラをなくしてい

 るので自分の目で楽しむ以外にすることはない。



   一番いいアングルのベンチに座り、「ああ」と伸びを

 した。



  「わたし、スケッチするわ」と啓子はノートを取り出

 し、荷物を私に持たせて数メートルの前方に立つ。   ☆
P-120

☆  観光バスが着いて、団体が降りてきた。



   無遠慮に騒ぎはしゃぎながら通りすぎる。イタリー人

 だった。



   こんなとき、日本人団体を蔑(さげす)む場合が多い

 が、イタリー人も同じだ。どこの人だって団体になった

 ら同じ心理になるのだろう。



   そのひと群れが、啓子の絵を覗きこんで何か言い始め

 た。はしゃいで遠慮がないから、多分、失礼千万なこと

 を言っていたのかも知れない。



   いたずらでもしやがったら、(何をするんだ)と男気

 を見せに行かねばならぬ、と私のナイト精神が緊張をも

 たらし、ベンチの背もたれを力強く握っていると、すぐ

 前で三十前後ぐらいのアヴェックが写真を撮る。



   目が合い、

  「シャッター、お願い」となった。

  「Are you ready?」と撮る。



   すると、英語でしゃべってきた。

  「アメリカから来た」、という。

  「新婚旅行?」

  「いや、そうじゃない。ヴァカンスなんだ」  

  「どれだけ?」

  「二週間」

  「いいね。で、子供は?」

  「あはは、まだ、つくらない」

  「あんたはひとり?」

  「いや、それ、そこで妻が絵を描いている」

  「絵描き?」

  「いや、好きなんだ」

  「あなたは絵はどう?」

  「描かない。こうしてじっと見ているのが好き」

  「あ、この向こうの橋、あの上からこちら、ノートル

 ダムを見るのがいちばんなんだって」

  「ああ、ありがとう。    そうだって私も聞いたもん

 だから、昨日、あそこから見たよ、日が暮れるまで。本

 当によかった」

  「じゃ、ボン、ボワイヤージュ」

  「あなたも、また会えるかもね。グッド、ラック」



   啓子がスケッチを終えてから、「行こか」と荷物を持

 った。

  「何、しゃべっとったん」

  「アメリカ人やて。英語やで、ちょっとばか気楽に話

 しした」



   いいアングルの橋を渡り終えた所で、アベックが交互

 に写真を撮っていた。女の方は美しい。男の方はやや貧

 弱で暗い。



   写真、撮ってやってもいいよ、と思い、二人を見てい ☆
P-121

☆た。声を掛けるほどの積極性はない。



   女がちらと私を見て、頼もうかしら、という表情を見

 せる。しかし、男は、何をいつまでも見るんだ、みたい

 な冷たい表情を見せた。



   ゆっくり散歩してホテルに帰るとき、

  「今日が最後やで、なんか夕食にええもん、食おか」

  「そやな…エスカルゴ、わたし、食べとらんでいっぺ

 ん食べる」

  「うん、そうしたら」



   他愛もない会話で歩くが、そぞろ寒いセーヌの川風に

 吹かれて歩くと、こんな幸せな日々がこれからまたある

 のだろうか、と思えてくる。



   古本屋の並びのひとつ、絵を売るおばさんと、ちょと

 会話したが、買うには至らなかった。  



   サンジェルマンのレストラン街で、数軒を覗いたあと

 で、まだ人の入っていない一軒に入った。



   ショウウインドウにねぎまのお化け見たいな焼肉の見

 本が並ぶ。その一品に「エスカルゴ」があった。



   殻も大きいし清潔に見えたから、「ここにしよ」と入

 った。

  「ボンジュール」



   何日もパリにいるんだから、もう照れない。堂々と愛

 想をする。



  「アア、ムニュ、シルヴープレ」



   しかし、手書きの花文字のメニューを見たって、そう

 わかるもんじゃない。「季節のサラダ」とか「子牛のス

 テーキ」ぐらいは読めても、エスカルゴの料理はどれな

 のか、あるいは書いてあるのかないのかもわからない。

  「あ、ムッシュウ。ピュイジ、ヴアール、ラバ…」と

 外に向かって競り出したショウウインドウを指す。

  「アー、ウイ」



   そこでギャルソンとともに入り口まで行き、

  「あ、スシ、アン。エ、サンキュ、クレヴェット、セ

 ムワ」

  「ア、ウイ」

  「あ、マ、ファンム、あー、エスカルゴ…」

  「ア、ウイ。…コンヴィアン?」

  「おい、いくつ食いたいのや…モマン」と席に戻るう

 ちに、ギャルソンは、二品のメニューを指差しながら、

 選択を求める。



   上の方のには「5」と、下の方のには「7」とある。

  「7つの料理か5つの料理かって」

  「5つのでええわ」

  「サンク、エル、デマンド」

  「ア、ウイ」

  「エ、デュ、ヴァン、…あ、ホゼ、…ユンヌ、ブティ  ☆
P-122

☆ーユ」

   かくして私たちはパリ最後の食事を楽しんだ。



   焼いたエビが五本に焼き餅よりも大きい肉のブロック

 を三つ、間にピーマンや玉葱でネギマ風にして四十セン

 チもある金串でぶっとおし、炭火で焼いたものだ。



   五匹の海老は、大正エビよりはるかに大きい。



   そして、どれも味付けらしいことがしてなく、原材料

 の匂いと焼けた素朴な味だけだ。テーブルの調味料を試

 みてもどうもしっくりしない。荒挽きの胡椒ぐらいしか

 掛けるものはない。



   それでも啓子は、エスカルゴをそっと丁寧に食べた。

  「どや」

  「なんともない。なんやわからん」



   中には緑色のペーストが詰まっているばかりだ。

  「一つ食べて見る」

  「うん、これもらう」



   フォークでほじり出して見ると、大部分は味付けのペ

 ーストで、六mm立方ほどの塊が、タニシよりははるかに

 柔らかく煮て、ひとかけらだけ入っていた。

  「なんちゅうことも、ないやん」

  「ほんとの味がわからんわ」

  「もひとつ、ええか」と替わるがわる小首をかしげな

 がら五つを味わった、謎解きのように。



   隣席には、孤独げで寡黙な日本人女性が一人で食事を

 しに来た。言葉を忘れたように食べていた。



   だからか、この夜は他人と仲良くすることなく、終わ

 っている。



   勘定は、380F。およそ一万円。



   高いなあ、と思ったが、すぐ忘れることにした。



   散歩した。



   街は、日本で言うなら、夜桜見物時のにぎわいに似て

 いる。しかし、街には花はない。シャンソンに歌われる

 解放感の中に、どことなく刹那的な快楽を漂わせる。



   私流に翻訳すれば、幸せに陶酔するパリジャン、パリ

 ジャンヌに、過去の不幸や未来の不安を見るからこそ、

 今宵しかない忘我の時を楽しむのだ。



   もちろん私も啓子もその例外ではなかった。



  

 ■  八月  七日  ■



   五時に起床。パリ、最終日。



   七時に朝食。



   済ませてから、荷物のすべてを抱え持ち、ゆっくりと

 階段を降りる。



   そして三日分の宿泊料のお勘定を済ませ、愛想よく別

 れを告げて、外へ出た。               ☆
P-123

☆ 前方、後方は言うに及ばず、周囲の数メートルにいる

 通行人すべてに細心の注意を払いながらサンジェルマン

 大通りを七、八十メートル進む。



 (再びこの場に来ることがあるだろうか)という思いが

 ちらとかすめた。



   朝の空気は、日本でなら十月下旬の深い秋の味があっ

 た。(また来るような気がする)そうも思った。



   鉄格子の扉が時代を思わせる地下道の入り口を、全身

 で荷物を抱えながら降りる。



   平地ならキャスターを引きずるから、身動きは割とい

 い。しかし段があれば、キャスターごと持ち上げて歩を

 運ばねばならない。こんなところでスリ野郎、ひったく

 り野郎に取り囲まれたら無抵抗に等しいだろう。そう思

 うと、首だけは精一杯後ろに回して追い抜いて行く通行

 人を余さず注視する。



   地下道がいくつも出会うモグラの家の一隅に、駅員が

 一人だけ小部屋に閉じ込められていて、切符を売ってい

 る。



   私はユーレイルパスを示し、

  「ロワッシー・エアポール」と告げた。



   来るときは無料券を呉れたのだから、今度も必ず呉れ

 ると信じている。



  「十二フラン」と要求された。



   今日帰るから、フランはもうほとんど手元にない。

  「プルクワ(なぜ)?」と聞きながら

  (手元に二十二フランの金がなかったら、両替を探さ

 ねばならない。すると空港行きが時間どおり間に合うや

 ろか)と不安になった。



  「ガル、ド、ノールまではメトロだから、そこまでの

 料金」だと、ハスキー声の駅員は少年っぽく言った。

  「おい、二十二フランやて」…あった。



   三十フランしかない金を出す。



   それにしても来るときにタダだったのに、帰りは有料

 だなんて納得できる訳もないが、私のフランス語はディ

 スカッションできるほどのものではない。



   再び全身でキャスターごとの荷物を抱え、通常のメト

 ロとは異なるRER(バンリュウ= 高速郊外線)へ降りて

 行った。



   一等に乗る。ユーレイスパスを使うのもこの乗車が最

 後だ。



   少々走ると、列車はパリ市街北部の地上に出た。通過

 するホームには市内部に向かうと見られる通勤者らが、

 どれも面白くなさそうな表情でたたずむ。



   しかしどこの都会の通勤者も同じ表情をし、若干の色

 彩の差異はあっても、持ち物やそのフンイキが、東京も

 名古屋もここパリも全く同じだった。         ☆
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☆  列車は、新幹線なみのスピードで走ったり、バスみた

 いに徐行したりして、辺りは住宅よりも草地の方がはる

 かに多くなった場所の左側にロワッシー・エアポールの

 円形の建物が、しっかりと見えてきた。空港には大型旅

 旅客機のシッポが、それぞれの社標を掲げながら、堂々

 と憩っている。エール、フランスが、当然のことながら

 ダンゼン多い。



   辺りのビルディングにも、日航、アリタリアなど、航

 空会社名の標識が目立つ。



   そういう空港の雰囲気を、ひととおり通りすぎてから

 ヴァンリュー(郊外線)のロワッシー・エアポール駅は

 ある。



   荷物を引きずり、ここはエスカレーターがあるため、

 抱えないまま改札を出た。



   フランは残り少ない。だから無料の空港バス以外のに

 乗ったら大変だ。すぐ駅員を捕まえて「空港だけに行く

 バス」の乗り場を尋ねると、

  「外の2番」だと教えた。



   それぞれの乗り場には頭上にプレートが電光掲示で案

 内を続けている。じっと見ていても国内線行きなのか、

 国際線行きなのか、瞹昧なため不安でしかたがないが、

 「2番」と教えられたのを頑なに守って、乗った。



   乗ってもまだ不安だったが、十分足らずで、来た時と

 同じ場所へバスを着けてくれた。



   チェックインするシンガポール航空のありかは、到着

 時に三度も行ったから、もう迷うことはない。



   一階下に降りて右へ進むと、すでに先客がチェックイ

 ンを始めていた。しかしさほど込み合ってもいない。



   私たち二人は並んで航空券を示し、笑顔の係員にチェ

 ックインを済ませた。



   次は荷物だ。



   荷物のことは、この旅の当初から気になっていて、到

 着の翌日、ヴィクトル・ユーゴ街の事務所でリコンファ

 ームしたときも、シンガポールで一度は受け取るのか、

 それともダイレクトに名古屋まで持っていってくれるの

 かを尋ねたところ、

  「ダイレクト、トゥ、ナゴヤ」との返事を得ていた。



   荷物を台の上に載せながら、

  「名古屋までダイレクトだね」と念を押すつもりで言

 うと、美しい女性の係員が、

  「なぜ?  東京、成田、ですよ」と言った。



   私は、ドキッと心臓に衝撃を受けた。



   またもや、こともあろうに、旅の最後にトラブルだ。



   こんなことになってはいけないから今までに注意深く

 確認してきたのに、負けてなるものか、と下腹に力を入

 れた。                       ☆
P-125

☆  「私は名古屋へ行く。リコンファームの時にもそう確

 かめた」と叫ぶと、

  「ノウ。貴方が名古屋へ行くのなら、その切符を見せ

 なさい」

  「これ、ここにタグが貼って訂正してあるでしょう。

 ここです」

  「いや、この訂正は認めません。東京成田、とありま

 す。名古屋行きのチケットを出しなさい」



   美人の癖に頑固だ。さっきまでの愛想と職業意識とは

 相容れぬものらしい。



  「このタグはア、あなたの会社がア、貼ったんだア。

 あなたの会社が認めたん…」



   私の声があまりに大きかったのだろう、男子職員が近

 づいてきて、私の差し出した航空券を調べた。



   彼はシンガポール人らしく、東洋人の顔だった。



   頑固美人と二言、三こと言ってから、私に微笑んだ。



   頑固さんもすぐさま愛想を取り戻して、

  「オーケー。ユー、キャン、ゴー、トゥ、名古屋」

  「荷物も?」

  「はい。ダイレクトに届きますよ」

  「メルシー、ボークー」



   私は、心からのではなかったが、お礼を言った。



   実のところ、言い合ってる最中には(もしうまく行か

 なかったら、成田へ帰ろうか。ここで不愉快な思いをす

 るよりもその方がいい)とも思っていたのだった。



   手続きは済んだ。本来ならここで、残金をはたいて、

 何かみやげを、と言うところだろうが、お金はもう小銭

 を除いてほとんどなかった。すべてが済んだとあって、

 疲れも感じていた。



   だからすぐ出国手続きもして、滑走路の見える待合室

 にどっかと座る。



   空港ではこの場所を「サテライト」と呼んでいた。



   搭乗用の移動式通路が蛇腹になってジャンボ機につな

 がり、広い滑走路には数分おきに機体が移動して行く。

 そんな景色を眼にしながら、長かった旅のことを思い返

 していた。



   行きの飛行機で一緒だった中年夫婦が、偶然にもまた

 いっしょで、

  「一緒でしたね」と言い合いながら、啓子が話し始め

 た。



   行きには一度も言葉を交わしていないが、互いに記憶

 に残っている。



   奈良県の人で、こういう自分でする旅も初めてではな

 い、と言う。大阪空港へ帰るのだから、シンガポールま

 では同じ飛行機だ。



   今回はドイツ方面の旅をした、と言いながら、ドイツ ☆
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☆のことはあまり言わなかった。



  「蚤の市に行ったのね…」と関西弁も懐かしい。

  「…すれちがった三人の男の一人がね、主人のここ

 (上腕部)に、タバコ、火のついたタバコ、ぐっと押し

 付けて来たの。主人がね、払っとるスキに、別の男、主

 人のポケットの財布、取ろとしたん。…わたしはっと気

 付いて、その手エ、ポンと叩いたん。何しとんのって。

 それで事なきを得たんやけど、もう慣れとるに、あんな

 の」



   話しながら気持ちを高ぶらせていた。



  「警察なんか知っとっても何にもせんのやから」

 とも言っていた。



   空席の多いフライトは、ローマでほぼ満席にして、夜

 空をただ通過する。大きな空白の時間の後にドゥバイに

 降りた。



   行きにここの金細工は値うちだ、と見抜いていたから

 身支度を早くして一時間たらずの給油時間を有効に使っ

 て、ネックレス二本を買った。



   いい買い物をした。



   再び大きな空白の時間。



   朝の海岸を見下ろしながら降下して、広いチャンギ空

 港に降りた。





 ■  八月  八日  ■



   ここシンガポールの乗り継ぎ時間は、朝の八時四十分

 から夜中の午前一時十五分まで、十七時間もある。



   こんな長い時間を空港内で過ごすのは、この空港がい

 かに施設に優れているとは言え、拘禁感を免れ得ない。



   で、シンガポール観光と、当然のことながら、なる。



   当初の計画でも、もちろん一日観光を予定しており、

 ガイドブックを用意していた。しかし、どこをどう観光

 するかは少しも考えてなかった。



   降りてみると、空港外へ出(入国し)てもいいのか、

 また、夕刻、出国する手続きは自分で簡単にできるだろ

 うか、などと不安であった。



   ともあれ、名古屋までのフライトのチェックインをし

 ておこうと、行きに二度アタックしたあの赤い電光掲示

 のカウンターに出向く。



  「このフライトでしたら、PM9時からチェックインし

 てください」と、行きよりもかなり分かりやすい英語で

 応えてくれた。あるいは、日本を離れている日数が長い

 ために、英語を聞き慣れていて、そう感じたのかも知れ

 ない。



  「で、空港の外へ出ていてもいいの?  シンガポール

 観光のために」と言うと、              ☆
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☆「オー、ケー」

  「また空港に入れる?」

  「イエース。ノウ、プロブレム」



   私たちは安心して出国することにした。それに先立っ

 て、ソファー・ベンチに座り、ガイドブックを出して、

 どこへ行くかを一通り話し合った。



   出るとタクシーが並んでいる。三十過ぎの運転手で、

 性格も割と明るい。



  「どこまで?」

  「オーチャード・ストリート」

  「オーチャードの、どの辺りで?」

  「オーチャード・ホテル、知ってるでしょう、その入

 り口付近」



   ホテルに用がある訳ではない。タクシーを止める目や

 すとして言ったまでだ。また、この男の英語は、私には

 とっても聞きよい。そして話しよい。気に入ったので、

 私はどんどん話しを続ける。



  「あのホテルは高いですよ」

  「そう。実は泊まるんじゃない。あの辺りから歩き始

 めて、観光しようと思うんだ」

  「そして、オーチャード・ストリートは、物がみんな

 高いね。シンガポールの人は、あそこでは買い物をしな

 い」

  「どこでするの?」

  「どこでもいい。ほかのところはどこでも安い(not 

 expennsive は、高くない、と訳すのが正しいかも)か 

 らね。それから、明日は独立記念日なんだ。だから、今

 日は七時になったら、車が通行止めになる。パレードの

 ため」



   瞬間、いい日にであった気がしたが、街中でゆっくり

 していると空港に戻れないかもしれないと思った。買い

 物はオーチャードではしない、と決意した。

  「あれが○○。こちらは△△。昔の日本が残していっ

 た軍艦なんか、観る?」

  「いや、観たくない。私が少年のころの戦争で、その

 ころ食べる物もなく貧しかった。いやな思い出なんだ」

 と私が言う。

  「戦争はいけないね」運転手には、歴史にこもる異民

 族への恨みは微塵もない。



   指定したところへ向かってまっすぐには走らず、説明

 をしながらわざわざ大回りをしたように思った。



   それはタクシー商売にあり勝ちなことだし、私は文句

 を言うつもりはなかった。しかし支払のとき、メーター

 に出ている数字よりは一、二割安く請求した。



   その理由は分からない。日本円に換算して千円を少々

 越えたが、日本の千円分よりははるかに長い距離を乗っ ☆
P-128

☆た。



   地図を街角に立ちながら開いて、磁石を載せる。こっ

 ちのほうがいいかな、と思う方へ歩いて行く。もちろん

 オーチャードからは遠ざかっていく。建物も大きくなっ

 て、百貨店があった。入っても、観るだけで買わない。



   その地下に地下鉄の駅がある。



   路線図を吟味し、この辺まで行けばチャイナタウンが

 近いのではないか、と目星をつけたが、乗り方がわから

 ない。駅員に尋ねて、日本のテレフォンカードよりも立

 派な切符を買った。



   も一つ降りると、ホームがある。電車は、ガラス戸の

 外を走って定位置に停り、電車の扉とホームの扉とが合

 わさって、両方が同じように開く。つまり、エレベータ

 ーと同じやりかたで乗降用の扉が開閉する。



   私たちは、いつもやるように、乗ったらすぐ路線図の

 傍に立ち、次は○○、次は△△と声を出して唱える。



   ここはヨーロッパではないから、東洋人同士は、「次

 はこうですよ」とか、「どこまで?」とか声を掛けはし

 ないが、周囲の乗客の関心がこちらに向いているのは確

 かだ。



   地図では中華街に近かったはずのこの駅が、外界へ出

 てみると、それらしいものは見当たらない。ただ、道路

 の向こうに七、八階建てのビルかアパートで、赤い垂れ

 幕に「中國○○○」とか「人民△△△」とか大きな文字

 で掲示してあって、大陸系の政治的傾向を持った中国人

 の居住区域だと推定できた。



   その一つの奥の方に、八百屋か果物屋のような雰囲気

 があるので、

  「行ってみよに」と、リヤカーが通れる程度の細道を

 歩いてビルに近づき、ビルの軒下を通り抜けて店先に果

 物をどっさり盛り上げる八百屋の前に立った。



   ビルの前にも八百屋の前にも、漫然と憩うだけの老人

 が椅子にじっと座っているが、ぼうっとしているようで

 も、前を通る私たちに鋭い視線を注ぐ。



   だから、私たちも細かい警戒心でわが身を武装しなが

 ら、しかしさりげなく装って店に近づく。



   日本の中華街でもよく見かける中国野菜や乾物が、こ

 こにも所狭しと並ぶが、私の関心をそそるのは、果物類

 だった。



   ライチーとかニューナン(茘枝とか龍眼)は、かつて

 中国旅行で見もし食べもした。最近は日本でも売るよう

 になった。



   が、ヤシの実に数センチのトゲをびっしり生やしたよ

 うなドリアンは、初めて見るものだった。



   五○○円で二個。

  「いっぺん食べてみよに」と言い合って買った。    ☆
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☆  ビニールの袋に入れてぶら提げる。すると、それがと

 きどき脚に当たって、するどく痛い。



   見るとビニール袋は幾十となく突き破られて、トゲの

 先端をのぞかせ、服の上から脚を刺し突いているのだっ

 た。



   一瞬寒気が走る。脚に創ができるのを恐れ、さらに紙

 に包んでからビニール袋に入れ直した。



   そこの隣は、薬屋。次が食堂になっていた。

  「このオカズ、このオカズ、それとゴハン」と声を出

 しながら指を差して、自分で皿に取らんばかりに注文し

 て、

  「ビールも一本」。



   テーブルに座った。



   ほんとに久しぶりの、安らぎのある食事だった。油い

 ため風の青菜のおひたしも、タレのかかった煮魚も、粒

 は細長いが白いお米のご飯も、もちろん日本で食べるも

 のとは大いに異なりながら、フランスにはなかった安ら

 ぎの雰囲気があった。



   菜箸みたいに長い箸でも、それで茶碗や丼に入れた食

 物を口に運ぶと、

  「ああ、今、食べている」と実感された。



   支払い場面を紹介しよう。



   まず、ヨーロッパにはない愛想とサーヴィスとがあっ

 た。



  「いくら?」と日本語で叫んでも、すぐ「ヱイ」とば

 かり、おばさんがすぐ来る。

  「ハウ、マッチ?」

  「アーーン…」と、紙を出して「○○元」と鉛筆で書

 く。そして、このメモ用紙ふうの紙の差し出し方がヨー

 ロッパとは違う。



   対等の人間が「お勘定がこれこれ」と言っているので

 はない。

  「客」は主人で「店員」は「客」に「仕え」ている。



   東洋のサーヴィスは「仕え」ることを基本にする。  ☆
八月八日のつづき
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