背景は、手作り本の装丁(縮小)                                             













 

P-129(つづき)

☆  東洋のサーヴィスは「仕え」ることを基本にする。だ

 からこの鉛筆で黒く書かれた「○○元」を出す手つきと

 表情は、

  「よくぞお食べくださいました。お気を悪くなさいま

 せぬように。お金を頂戴致します」と言っている。



   もちろんこれは私が雰囲気を大げさにデフォルメして

 表現したのだが、こういう雰囲気が漂う。



   日本でもそうだ。



   しかし、ヨーロッパではこれが漂わないのだ。こんな

 違いが私の安らぎの原因なのかも知れない。



   で、ご飯とおかずは、このめし屋さんに申し訳ないほ

 ど安い。



   啓子と二人が食べて、日本円に換算すれば五○○円に ☆
P-130

☆も満たない。



   ところがビールは、隣の店へ支払う、と言う。



   一本が二人の飯代に匹敵していた。このあと、ほかで

 飲んだときもそうだったから、ビールはこの国では特別

 の統制品扱いかなにかになっているようだった。だから

 食事にビールを飲むと、二つの会計をしなければならな

 い。



   食事を終えたが、この大きなアパート以外には街はな

 い。もっとほかの所に街があるのだろうと、いい加減だ

 が方角に見当をつけて歩きはじめた。すると、やがてい

 かにも中国の街といった感じの所に出た。匂いがする。

 言って悪いがいい匂いではない。不潔感が漂い、家の中

 や店の中には、土間に汚水がしみている。いや、きれな

 水かもしれないが、そこの匂いと雑然とした物のありよ

 うから「不潔」な汚水に感じる。



   そして、そんな印象を持ったままでもの珍しげに「観

 る」と、住民に失礼だし、反感を買いそうな気もして、

 用のないくせに、いかにもその先に所用があるような風

 を装って、足速やに歩く。



   しかし心は興味のトゲになって、乾物屋の変色したビ

 ーフンや、爪つきの豚の脚が十本も横に積まれているの

 を、自動巻きのカメラがシャッターを切り続けるように

 印象に残している。



   用がありそうに装って通ったのだから、同じ道を戻れ

 ない。角を曲がって別の道を戻りかけて次に進むと、こ

 んどはかなりきれいな飲食店街になった。



   一品料理の見本や値段カードなどがある。中は装飾つ

 きのテーブルが並んだりする。



   何軒かに一軒はハングルで表示があって、料理も汁も

 の、餅の入った汁、人蔘を腹に挟んだサムゲタンみたい

 な料理、それから漬物などが、鮮やかな色で陳列されて

 いる。



   しかし、この街は、私が期待していたところとはちょ

 っと違っていた。



   テレビでは、露天食堂の集まりと人の賑いを、よく紹

 介する。私もそんなところへ行きたかったのだが、まだ

 昼飯にも少々早い時刻だし、テレビで見るような海の幸

 や山の幸をふんだんに揃えた、安価で豪勢な食卓風景に

 は出会えそうになかった。



   でも、イラスト地図のいい加減さに腹も立てずに、

  「こっちへ行ったらええみたい。この方角が海にちが

 いないやろでな」と勘と磁石で判定する。



   歩いて行くと、バス停の近くに、魚市場か青果市場の

 ような雰囲気で、屋根だけは立派だが、庇から下は吹き

 抜けの建物があった。



   通行人に聞くと「フードセンター」と答えた。    ☆
    
P-131

☆  食料品の豊富なマーケットだろうと、中へ入ると、そ

 こは、露天食堂の巨大な集合場だった。



   四、五十あるいはもっと多くの店があった。



   一店にテーブルが、多くても五つほど、椅子だけの店

 やバー風カウンター形式の店、立ち食いのもあるから、

 もとは道路端にあったものを、ここに押しこめたものだ

 ろう。



   折しも朝めし終了後の片づけ時なのか、客はほとんど

 いなかった。



   人々はセメントの床にホースから水を流して掃除して

 いたり、共同の流し場で、大きなプラスチックの槽に水

 を溢れさせながら大鍋など什器類や食器、場所によって

 は野菜などを洗っている。



   次の賑い時の準備のためでもあるのだろうか。

   もの珍しげに「観光」しながら、いちばん奥まで行く

 間に、それでも二人ほどから「ここで食べて行きなよ」

 らしい、広東語とおぼしき言葉を掛けられた。



   私は笑顔を向けるだけで、しゃべらない。トラブルを

 避けるにふさわしい方法は、言葉がまったく分からない

 ふりをするに限ると、ナンセンス・スマイルを向けなが

 ら五十メートルもある建物のいちばん奥の部分まで来て

 しまった。



  「おい、なんでも安いぜ。何か食べてこに」



   啓子も同感ではあったようだが、

  「果物なあ、食べてみたことない果物がいっぱいある

 やん。そんなんを食べよに」と言う。

  「分かった」



   奥から左側へ移り、折り返しかかった最初の店が、他

 より大きく、ケースの中には豊富に果物があった。



   赤いもの、黄色のもの、縞の西瓜や緑色がかったサボ

 テンの樹肉みたいなもの、等々がぎっしりと陳列されて

 いる。



   皮をむき、手ごろな大きさに切って、あるいは割って

 ある。



  「これは何という名前の果物?」

  「これは?」と英語で尋ねると、

  「マンゴー」「ドゥリアン」「パパヤア」などと答え

 る。



   こんな名前なら、食べたことはないが聞いたことはあ

 る。

  「これは?」

  「○△×」

  「で、これは?」

  「□○△」……

  「これ、聞いたこともない果物や。おいしそうやし、

 この三種類にしよか……あ、これとこれ、そしてこれが ☆
P-132

☆ほしい」と小母さんに注文する。



   注文したうちの二種類は、消しゴムぐらいの大きさを

 数片、細い竹串に貫いてある。



   それを大皿に載せて卓上に出すのだ、と思っていた。



   ところが、陳列ケースから出して小母さんはジューサ

 ーの方へ近づいた。



  「あ、ユー、メイク、ジュース?」



   私はほとんど叫びに近い声を出して聞いた。



  「イエース」と小母さんは、当り前の顔で落ち着いて

 いる。

  「アア、キャン、アイ、イート、ゼム、ノット、クッ

 クト?」

  「ア、イエース」  



   皿は、ジューサーの近くから戻って、私たちの大きな

 丸テーブルに載る。



   客は他にいない。



   串から一片ずつ抜いて、味をさぐった。



   匂いはいずれもアボガドのように、日本の果物よりは

 やや強い。しかし味は、薄甘く、冷たい水分の感覚がし

 て、快い。いける、いけると三種の味を楽しんだ後に、

  「ハウ、マッチ?」と言うと、紙に「52」だったか

 「53」だったか、書いて来た。



   金銭の価値感覚が全く分からないので、コインをザラ

 ザラと出す。五十二セントかしらと思ったからだ。



   日本円では、四十円か五十円ぐらいになる。



   ところが、半ば驚きでもあったが、いちばん小さいコ

 インを一つ持って行き、今まで手にしたことのなかった

 更に小さなコインを、お釣りとして返してきた。



   とすると、日本円の四、五円になる。果物の量から見

 ると、真桑瓜を一個切ったぐらいだから、日本の物価を

 数倍高いと考えても、二、三十円で二人が瓜を一個食べ

 たことになろうか。



   私たちは満足だった。



   外に出て再びバス停の前を通り、何かありそうな方へ

 と歩いた。



   今度は中国本土風の漢字が多い街に出た。左手には、

 大げさに目立つ建物があって、近づいて見ると漆喰に彩

 色したインド人や虎、化け物などを、高々と多彩に掲げ

 た門があった。雰囲気から、ヒンディー教会かな、と思

 った。こういうものを自分の目で見るのは初めてではあ

 ったが、そばへ行ってまで見ようとは思わなかった。



   それよりも、その向かい側の数軒は、「金行」と大き

 くレリーフにされた太い文字が、間口の広い店に掲げら

 れてある。



   銀を出し、両替するのが本来の「銀行」だし、「金」

 を両替するのが「金行」だ。             ☆
P-133

☆  中へ入る。



   入り口には、警官なのか、それともこの店の警備員な

 のか、腰に拳銃を帯びてガードしている。中ほどに会計

 の窓口があり、卓上のレジスター脇には中国式ソロバン

 …あの五つ珠のところに珠が二つ、そして下のケタが五

 つ珠のソロバンが、直径二センチあまりの大玉で作られ

 ている。



   陳列ケースの中は、主に金製の装飾品だったが、店の

 性格から想像すれば、金そのものを売買するのがこの店

 の営業目的なのであろう。



   そういう「金行」を二軒ほど覗いた。でも、ネックレ

 スは、やはりほんの少しだが、ドバイの方が値打ちだっ

 たし、娘へのみやげも、一応は買ってあることなので、

 ここでは何も買わなかった。



   いかにも金持ちの商売家が軒を連ねていると言った感

 じの「金行」が尽きる辺りから、他の業種の店が混じり

 だした。



   その一軒は薬屋で、ちょっと覗くと、実にうまく誘い

 こんだ。



   啓子もつられて、中でお茶を飲み、話を聞くことにな

 った。



   片言の日本語を交えた英語なのだが、その雰囲気がい

 かにも上手だった。



   私は黙っていた。宣伝をすべて聞いてからでは、その

 後で「要らない」と言えない雰囲気になるだろうし、そ

 んな時、言葉がまったく分からないフリをしたり、ノン

 センス・スマイルでニヤニヤとごまかして外へ出ればよ

 い、そう思ったからだ。



   中年男はうまい。どこが悪いか、ここで言って見なさ

 い、そしたら、それにぴったし合う薬を作る、ほら、紙

 に書く。



   啓子は、ここがいたくて、この辺が凝って…と言う。

  「ダンナサマは?」と啓子に私の分まで言わせようと

 した。私が黙っていたからだ。



   私は予定通り、喋れない風を装う。



  「どこ、悪いちゅうの?  ユーサンは」

  「五十肩でも言うか。肩や背中、ほして、首や」



   啓子は、私の体の部分、部分を指差して言う。



   男は漢字で(漢字制限前の旧漢字で)書くから、私に

 はよくわかる。



  「疼痛」が「項部」から「肩」、「上腕」と漢字表現

 されている。



   男は、丸薬を出した。



   私用のは、「金槍不倒丸」。啓子には、同じく「丸」

 なのだが、ここには書かない。啓子には、その丸薬の言

 葉の意味を、私は説明していない。          ☆
P-134

☆「金槍不倒丸」とは何と微笑ましい命名ではないか、

 と思った。



   強壮の回春のと抽象的に表現する昨今の薬に比べ、私

 の宝物である「金の槍」は雄々しく戦って倒れることな

 からん、と具体的に命名されている。



  「買おに。幾らや聞いてみ」

  「幾ら?」啓子は、電卓を指で差しながら言う。

  「……」と、さきほどの紙に書いたのを、計算すると

 約二千円に当たる。



  「ええやないか。十三ドルばか、ドルで払お」



   私は、大事そうにドル札を、十弗、一弗、もう一弗と

 並べて見せた。

  「オクサン、ア…ダメ」

  「?…」

  「これ、ア、ケースね。ケース、二十個ね。二十個買

 う、そのとき、の、値段ね。だから、一つ、ダメ。こん

 なヤスイク値段、ダメね。だから、…ア、ケース、いく

 つ買う?」

  「そんなんやったら、買わん。なあ」と啓子は私を顧

 みた。

  「うん」と私は無口。

  「いくつケース?  これ、ワン、ケースと、これもワ

 ン、ケースか?  」

  「いや、そんなに要らん。一つでいいの、ひとつずつ

 で…」と啓子は指で示す。

  「ダメ、おくさん。わたし、ひとつは、ダメ、ユッタ

 ね。わかるか。ケースならよし、わかるか。おくさん、

 知らない。日本でね、ほかでね、買った、もっともっと

 高い。ここ安い。だからケースで、安い、みんな買う。

 …わかった」



   男は真剣な目つきで迫る。



   無口に知らん振りを決めていた私は、このしつこさに

 少々腹がたって、



  「I dont want to buy it by carton.   We've come 

 here for the first time. This drug may be good or 

 not good, I don't know. If you sell only by carton, 

 I don't buy.」

  「No, you don't understand what I say.」



   男は(なんだ、わかってやがる)といった表情で見つ

 めた。



  「We always sell by carton.   And many japanese 

 buy and bring to Japan.  Look.  These are the

 letters from Japan.」



   そこには確かに日本の地名と日本人名を書いた封筒が

 束になっていた。薬がよく効いたお礼状を見せることに

 よって、箱ごと買うことの有利さを悟らしめようとして ☆
P-135

☆いるのだ。



   しかし、私のような人間は、そうすれば余計に(押し

 付けやがる)と思ってしまう。



  「No, I don't buy. But if you sell not by carton,

  I may buy.」



   私はニヤけていなかった。箱を押し付けられるなら、

 足音高く店の外に出てやろう、と思った。



  「ハイ、ワカッタ」



   男は急に軟化して、笑顔を見せた。



  「ひとつと、ひとつね」

  「イイェス」



   私はカウンターの椅子に乗って脚を組んだ。



   支払いのあと、「あんたもかなりヤルいじゃないか」

 と肩をたたくと、

  「商売だから、売るときは一生懸命ですよ」

 と笑った。



   もう先程の厳しい表情も目つきもなかった。



  「そうだね。がんばりなさいよ。あんたは、たぶんい

 い商売人だよ。よく効く薬だったら、こんどシンガポー

 ルに来たとき、また必ずここに寄るからね」

  「はい、また来てください。いい旅してください。奥

 様も」



   いい買い物をした気分になった。



   肩や背中の痛みがとれ、元気になれると思えた。



   こんどの店は、乾物屋のようだった。



   見ると、入り口左には、「海燕の巣」が数個ずつ箱に

 入って、積んであった。



  「これは目をむくほど高いのやろ。高級料理に使うん

 やで」



   私はテレビで観た場面を思い起こしながら眺めた。



   白い海藻のようなもの、というか、布海苔(ふのり)

 白くさらしたらこうなるか、といった感じのものが、一

 枚がふぐの生乾きの干物ぐらいの大きさと白さと形で、

 四五枚が重なり、その重ねを六つばかり並べて一箱にな

 っていた。



   私は値段を聞こうとも思わなかった。



   中は、唐辛子や椎茸、木耳(キクラゲ)などのいわゆ

 る乾物が、中華料理に使われるのを待っていたが、下の

 ダンボール箱には、三角形で先が少しよじれた「ふかの

 ヒレ」が無造作に入っていた。



  「ふかのヒレやぜ」



   私は近づいて一つをつまんだ。固く乾いて、コツンコ

 ツン、カラカラと鳴りそうだった。



   十四五の女店員が、何か誘いの言葉をかけた。

  「これ、フカのひれ、だね(Fins of shark)?」と 

 問うと、                      ☆
P-136

☆「…?」。

  「手か(Shark's hands)?」



   私は自分の手を羽のように振って、真似て見せた。



   しかし通じない。英語が通じないのか、それともこれ

 は「ふかのヒレ」なんかではないのか。



  「ここに書いてくれ。この名前を」と言いながら、店

 のメモ用紙に「品名?」とエンピツで書くと、

  「鱶鰭、魚翅」と書いた。

  「やっぱしふかのヒレやった。安かったら、土産にえ

 えぜ」

  「そやな」と言い合って、

  「値?」と交渉に入る。

   ビニール袋に十一入れた値段が、シンガポール、ドル

 で百二十ドルをちょっと超える。

  「安いやないか。約一万円や。ちゅうことは、ヒレ一

 つが千円足らずや。兄弟に一つずつ、土産にしよ」



   気仙沼へ旅したときも、これを探したが、もう独占さ

 れていて、スープの缶詰しか手に入らない。それくらい

 の「貴重品」だ。



   支払いをし、一抱えの荷物をふやして、店を出ようと

 すると「○△□…」と店員が誘いの攻勢を激しくした。

  「いあや、もういい。謝々」

   入り口まで付いてきて「○△□…」と「ウミツバメの

 巣」を盛んに勧めた。

  「不要(プーヤオ)」



   大きそうな通りを少し歩くと、中庭のように広場を取

 り囲んだ五階ぐらいのマーケットがあった。



   靴の修理屋が二三人、座っている。



   啓子は底の壊れた靴を履き続けていたのだが、男に見

 せた。ちょこっと英語がわかる。が、自分ではやらなか

 った。



   英語もさっぱりわからない田舎じみた若い男に修理さ

 せて、彼は私の相手をした。

  「ここは?」

  「フード、センターとマーケット」

  「こっちは?」

  「下がフードセンターで、上は衣料品なんか売ってい

 る。安い。こっち側は、ショッピング、センターだ。日

 本製の電気機具など、これも安い」

  「日本人、ここへよく来る?」

  「来る。けどあまり来ない。あっちのオーチャード、

 ストリートの方は日本人、多いけど、ここはあまり来な

 い」



   話の種も尽きて、腕を振り回したりしているころ、修

 繕はおわった。約五百円ほどだった。



  「高い」と啓子はぼやいた。             ☆
P-137

☆「日本と変わらん」と言う。



   中庭の植え込みの縁に腰掛けてアイスクリームを食べ

 る人がいて、「食べよか」と座ることにした。



   ここシンガポールは、ごみをすると罰金を課すと聞い

 ていた。だから私たちは細心の注意でごみをしない。気

 を付けていても、知らずにごみを落とすかもしれない。

 それさえ気を付けるほどの神経質ぶりだった。なのに、

 このセメントの上は汚なかった。座るとこが見い出せな

 いのだ。また、狭いところを見つけても、そばに汚ない

 ものがあったら、当局に私たちの放置物と誤解されかね

 ない。だからまず「ヒト」のごみを持って大きな缶の中

 に捨てた。



   しばらくアイスクリームを楽しむ。たむろする、通り

 すぎる、絵を画く、宝くじを売る人達を眺める。



   貧困の時代を終えて、もうひと時代が過ぎるのか、も

 のうい午後の風景だった。



   衣料品のセンターも東京の御徒町、アメ横ふうだった

 し、電気機具店の方もアメ横と秋葉原との中間ふうだっ

 た。日本製品以外に何があるのか。



   見飽きて、やや早いが夕飯を食おうとした。パレード

 のための交通規制が始まっては困るからだ。



   降りてきて、魚市場か青果市場みたいな場所へ入る。

 周辺を細かく間口で区切って各店が厨房をもつ。中はテ

 ーブルと椅子ばかりだ。



   何がおいしく食えるかな、と覗きながら歩くうち、

  「ウエイ!」と大声を掛け、私の肩を小突くように引

 く者があった。



   (?)と見ると、中学生ほどの子供。親指をとぎらせ

 た口に近づけているから、(ここで飲んで行け)とでも

 言うのか。



   それにしても「ウエイ」は失敬だ。日本語の「オイ」

 に当たる。



   私は一瞬だけ、チンピラを見、すぐ視線を反らして、

 無視したまま通りすぎる。

  「ウエイッ!」



   さっきよりもはるかに大声を上げ、私の肩を引き戻し

 た。(言いがかりをつけてケンカをふっかけるつもりな

 んだ。イヤなやつだ)



   無視しておけないと分かって、私の顔の血の気が、さ

 っと引いて行くのが感じられた。



   目尻もつり上がる。



  「ウエイッ」と言いながら数メートル向こうを指差し

 た。そこには大男が向こう向きに座っていた。上半身は

 裸で丸みを帯び、太った肉体に、何の入れ墨か、いっぱ

 いに彫られていた。(これが中国式の暴力団か。映画に

 よくある)と思う意識と平行して、どの段階で大声をあ ☆
P-138

☆げて、あたりの人の助けを呼ぶのがいいか、などと思う

 うち、啓子が私とチンピラとの間に入って、私を遠ざけ

 るようにした。



   もちろん、それまで私も青白い顔と釣り上がった目と

 でチンピラをにらんでいたのだったが、そのとき啓子が

 何をしたか、私は知らない。



   チンピラは、すごすごと大男の方へ下がった。



   啓子は声を発していない。



  「私がにらみつけてやったで、やさ」とあとで啓子は

 言っている。

  「こんなとこで、食べたない。気分が悪いわ」私は歩

 を早めて、外へ出た。しかし、ここ以外に食堂らしいも

 のは見当たらないのだった。



   通りに面して右は、バス乗り場、左は再びさっきやっ

 てきた方へ戻る。正面には大通りを越えるべく歩道橋が

 あった。

  「渡って向こうへ行ってみよに」

   そこの古い町にはお好み焼きのような食品や、私がま

 だ味わってみたこともないような現地人の乾物などを売

 る個人の商店があった。そして、昼飯を食べたとほぼ同

 じような食堂に出会った。



   二回目だから慣れている。



   飯はこれくらい、と皿に八分目にし、そこへ「このお

 かず」と「このおかず」というように取り添えて、おい

 しそうに盛り付ける。



   そういう「飯」の雰囲気がいい。



   ビールも飲んで、さっきのイヤな気分を忘れようとし

 た。



   食べる間に、食堂にはお客が来る。買って帰るのだ。

 ご飯を買う人も、オカズを買う人もいた。



   私たちと同じように、ご飯の脇にオカズを幾品か添え

 て買う人もいる。そして、それを紙に包んで持って帰っ

 て行く。



   かつて日本でもテンプラなどは油紙に包んだが、あん

 な感じの紙に包む。ご飯がパサパサだから紙に粘りつく

 こともないのかもしれない。



   おかずは、オヒタシ風の青菜のいためものとか、マー

 ボ豆腐風のもの、丸ごとの煮魚、焼いた鴨か鶏かの肉の

 スライス、漬物など十種を越える多彩さだ。



   さあ食べた。安かった。満足な気持ちになって、

  「ちょっと早いけど、もう、空港へ戻ろか」と、再び

 歩道橋を戻った。



   ショッピングセンターには、「INFORMATION」と看板 

 を掲げた案内所があり、女の子が二人、いる。

  「バスで空港まで行きたいのだが…」と言うと、

  「ダイレクトには行くことはできません。左へ走って  ☆
P-139

☆オーチャード・ストリートまで。そこでバスを変えて空

 港へ行くのです」と教えた。



  「面倒やな。あの辺でモタモタしとったら、交通規制

 の時間になってしまうかもわからん。タクシーで行こ」



   センターの裏がタクシー乗場で、三十人ばかり並ぶ後

 ろに二人は並んだ。



   順番が来るまでには、三十分以上もかかっている。



   運転手は無口だった。英語もあまり通じなかった。道

 はすぐフェニックスの通り、つまり町外れの空港通りに

 出て、二十分あまりの道のりだが、約八百円で到着。



   これで全行程が終了したのだった。



   もう帰るだけだった。



   することは時間待ちだった。



   夜中過ぎに出発だから、それまで何とかして退屈しな

 いように時を過ごさねばならない。そして再びいやな事

 故をもたらさないように、注意深く振る舞わねばならな

 い。



   広い空港のコンコースを何度も歩いて、「チェックイ

 ン」するカウンターを確認した。



  「あそこでやったらええのやで、ここなら見える。こ

 こで座って休憩しとろ」



   私たちはベンチに座り、荷物を置いて足を組む。



   チェックインは九時を過ぎなければならない。



   チェックインとは、空港では「搭乗券をもらうこと」

 と「荷物を預けること」  だが、私たちは荷物をもう預

 けない。パリで預けてあるからだ。



   私の背中は黄色いリュックサックが負われ、啓子の手

 には大きなボストンバック、そして肩には車掌さんのよ

 うな肩掛けのハンドバックがあるのだが、それらをキャ

 スターに載せて引きながら移動する。



   荷物をベンチにもたせかけ、それに手を載せていつで

 も異常を感じ取れるようにしている。



   こうして二時間もの時間、ベンチで過ごすのだから、

 帽子も脱ぐ。



   私は白い帽子、啓子は鍔(つば)広の黒い帽子。

  「貸しな、持っとったるわ」と啓子は私の帽子を黒帽

 子の中に重ねて、脇に置いた。



   こうした「体制」で「休む」。



  「ちょっと、そこまで」と、時々言いながら、どちら

 か一人が立って、そこいらの設備を見たり、辺りを眺め

 たり、トイレに行ったりして、なかなか進まない時計を

 何度も見ていた。



   大きな空港だった。そして、きれいだった。



   何か二人は喋っていたのか、黙ったままで時を待って

 いたのか、今はほとんど記憶にない。



   チェックインの時は、急に訪れた。         ☆
P-140

☆  私は、カウンターで、

  「チェックイン、プリーズ」

 と言って、航空券とパスポートとを差し出した。



   係員は、コンピューターに打ち込み、すぐに搭乗券を

 差し出し、私は受け取って確認してから「サンキュー」

 と言う。



   ものの二分とはかかっていない。「外国慣れ」したた

 めたか、さほどの緊張もなく手続きを済ませている。



  「さあ、ほいじゃ、中へ入ろ」と、ベンチの啓子に言

 い、荷物を持った。



   中には売店も喫茶も、また深々と掛けられるソファも

 設備されてある。食堂なんかは二十四時間営業だと確認

 してある。



  「うん」と立ち上がって、すたすたと出国をする。



   パスポートと搭乗券のチェック、荷物と体の危険物チ

 ェック。慣れた順序をごく普通の気持ちのまま、通過す

 る。



   階段を上がると、往路ここで時間待ちしたあのロビー

 だった。



  「まず、売店でも全部、見るか」と動き出して私は気

 付いた。



  「あっ、帽子は」

  「あれっ、忘れた。…あのベンチや」

  「すっと立ったとき、気がつかなんだやに」



   取りに戻れるのかどうか、考えた。



   空港職員を探して、尋ねようかとも考えた。しかしま

 ず、帽子がそこにまだあるかないか、それが分からなか

 った。日本と違って、持ち主不明の「もの」が「無事」

 に存在し続ける可能性が少なかった。



   また、取りに行くとしても、もう一度「入国」して、

 帽子を見つけ、それから「出国」してこの場に戻る。

  「出国カード」の記入やその理由…係員の質問でもあ

 って、不審だと取られたら…そうする間は啓子をここに

 待たせねばならないが、異国の真っただ中に放置して何

 かが起こったときにどうするか…などと考え、探しには

 行かないことにした。

  「もうええ。諦めとこ。帽子なしでも、命に別状ない

 でなあ」



   本当は、あの白い帽子が気に入っていた。七月の二十

 二日から十八日間も毎日、私の一部になっていた。あん

 な階段の下のわびしい異国のベンチに、忘れられてむな

 しく主人を待っているのか。



   私は、売店を見回る意欲をしばしなくして、そこのソ

 ファーに座った。

  「疲れとんのやなあ」

  「うん」                      ☆
P-141

☆「普通なら、こんなことしやへんぜ。…気をつけなあ

 かんぜ。大事なものを、忘れんことや」



   気を取り直して、売店を歩く。見るだけで買わなかっ

 たが、菓子屋で残りのシンガポール弗を、すっかりはた

 くべく、啓子は店員とやり取りした。



   私はただ遠くで眺めていたが、

  「これみ、こんだけ買えたに」と啓子は満足げに菓子

 の包みを運んできた。



   小銭をうまく使い切ると、後に思いを残さない。

  「そうか、よかった」



   菓子屋は十時閉店で、もう鉄の棒やパイプを店の前に

 立て、シャッターを降ろしかけている。



   宝石屋も鞄屋も、高級衣料品屋も店員が奥に引っ込み

 始めた。広いロビーがいっそう広くなり、人影もほんと

 にまばらになった。



  「食堂へあがろ」



   腹が減っている訳でもない。暇つぶしに何か飲み食い

 していよう、というのだ。けれども小銭を残さないこと

 が肝心で、セルフサービスのショウケースの、特に値段

 を覗きながら、電卓片手に「○○セント…△△セント」

 と声を出しながら品物を取らずに進んでいる



   と、店員が出て来て「何をしているのか」と問う。



   怒ってはいない。柔和な顔で、私の行為に単純な疑問

 を持ったに過ぎなかった。



  「もう帰国するから、コインを残したくない。アメリ

 カ弗で、端数なく買いたいから、計算している」と答え

 ると、人も少なかったからか、レジの人も出てきて、ビ

 ールと皿ものの食べ物を見つくろってくれた。



  「サンキュー。ユーアー、ヴェリ、カインド」



   向こうの席には、もうすぐ別れるのか、名残惜しそう

 に身を摺り寄せあって食べる若者の男女がいた。



   言葉はほとんどない。中年の夫婦らしきのが、近くに

 席を取るため通ったとき、何かが当たって若者のビール

 を床に落とした。



   ショートパンツの奥さんは、盛んに謝り、新しいグラ

 スを若者に与えて、席にはつかずに去っていった。



   もう飲食のできるところはここしかないはずだった。



   私たちも、いくらゆっくり食べたとしても、十一時前

 には皿が乾いてしまう。仕方がなく外へ出てしまった。



 「あっちの滑走路の見えるところで時間待ちしよ」と、

 薄暗いロビーに行って、ベンチに掛けた。



   終わった、という思いが、辺りの闇から押し寄せてく

 る。ベンチには、この見送り場のような広いロビーに二

 つだけあって、夜中の便を待つらしい十数人が座るだけ

 だった。



   消灯時間の過ぎた入院病棟のような静寂とわびしさに ☆
P-142

☆浸りながら、左右に開けている夜の滑走路を、ただ見て

 いた。



   硝子に消音効果が施されているのか、飛行機のジェッ

 ト音はほとんど聞こえない。



   右のはるか低空に翼のランプが発見されると、(また

 着陸だな)と無感動に思う。それが秒ごとに大きくなっ

 て、正面より数十メートルあたりで着陸し、左の方へ滑

 って、静止する。その後、ゆっくりと方向を変えてはビ

 ルに近づくのだが、そのころから後部にそびえる方向舵

 が、(ああ、カンガルーか)とか(アリタリアか)など

 と、だからといって特に感想もないのだが、思って見て

 いた。



   また離陸しても行った。



   正面辺りが最も高速度になるが、新幹線よりも相当速

 い走りようで、機首をもたげるとすぐ、わけなく斜め上

 方へそのまま直線を引いて進む。



   どれほどの高度にまで上がるのか、最初の機首の角度

 のままで、赤いランプが夜空の一点になり、さらに見失

 うまで直進しては行った。



   長い旅だった。



   いろんなことをやった。そして、今、私は満足してい

 るか。



  「満足」ではなかった。「安堵」でもなかった。



   まだ気持ちを整理できないでいたし、今、整理しよう

 という意欲もなかった。ただ「緊張」を失いつつあるこ

 とは事実で、心はかなり「うつろ」だった。



   夜中を過ぎて、「明日」になってからしか飛行機は出

 ない。それまで「寝ない」ことと「気を許さない」こと

 以外は、何もする気はなかった。





 ■  八月  九日  ■  

                                                  

   8/9   Singapore      福岡          名古屋

  Thu   01:15 ------ 8:00  9:15 ----- 10:40

                                                      

  夜中の零時十五分に搭乗したのだから、疲れも大きく

  眠る時刻としてはちょうどいいはずだが、座席について

  も衰弱した心と身体は、虚ろに機内を見つめているばか

  りだった。



    パリからシンガポールまでの雰囲気と異なり、ほとん

  どが日本人の乗客である機内に、中国人風のスチュワー

 ド三人と民族衣装に身を包んだ柳腰のスチュワーデス数

 名とが、通路を行き来する。



   そして、離陸直後の例のビデオによる「フォー、エマ ☆
P-143

☆ジェンシー(for emergency 緊急事態に備えて乗客に避

 難のための説明をする)」が始まる。



   やがてスチュワードがワゴンを押してくる。



  「ジュース、ティー?」、「ジュース、ティー?」と

 無感動に唱えながら前から順に下がってくる。



   私はこれが嫌いになっていた。



   第一にここのサーヴィスには、ジュース、コーヒー、

 紅茶ばかりかビールもウイスキーもあるのだが、スチュ

 ワードはそういう注文を取ろうともせず、「ジュース」

 か「チィー」しか尋ねないのだった。



   でも、注視していると、西洋人には「ビール」や「ス

 コッチ」をサーヴィスしている。



 (彼等は日本人と西洋人とを区別して、違った思いで接

 している)と思った。



   だから往路では、注文を取りに来ていないのに「ウイ

 スキーだ」と申しつけもしたものだったが、今はそんな

 反抗心も首をもたげないほど気が萎えていた。



   ジュースを飲み、おしぼりを使い、食事をして、それ

 から少々は眠ったのであろうか。



   五時間ほどが経って、丸い窓の外には彩雲の雲海と東

 雲(しののめ)の朝焼けが輝き始めた。



   その空の赤みと黄金色とがすっかりなくなり、普通の

 空の色に復活したとき、飛行機は福岡空港に着陸をアナ

 ウンスしていた。



   福岡空港に一時間あまり降りていたが、降りる人以外

 は機外に出さなかった。



   私達に出る気もない。



   乗客は半分以上が降りていった。広い機内のありふれ

 た空席の、どこへでも勝手に座りなさい、と言われてい

 るようだった。



   私は少し前の右端の窓に擦り寄った。名古屋に近づく

 ときに、上空からわが家の辺りを高望みしようと思った

 からだ。



   機は、上空にあがると日本海の上に出ていた。そして

 右斜め下に大阪空港を見下ろす位置の成層圏を東進し、

 伊吹の辺りから内陸へ上がり、木曽三川の絡みをほんの

 少しだけ見せて左旋回した直後に着陸した。



   伊勢湾の形を見下ろすことはできなかった。



   雲は厚かったが、その厚い千切れ綿のすきまに、下界

 ははっきり見えていた。雨の降る前の重い雲だった。



   名古屋空港は小さい。だから入国するにはすこぶる便

 利で、どこで荷物を受け取り、どこで入国手続きをする

 のか、迷うことは一つもない。



   でもほんの少しの間、不安だった。



   回転式の台の上にトランクが無事に吐き出されてくる

 かどうか、私は緊張してさまざまな色や形の他人の荷物 ☆
P-144

☆を一つ一つ、すべて見続けていた。その間、話すことも

 ない。なんの感想もない。



  「あっ、あれや」と近づいて取り上げ、税関吏員のい

 るカウンターに近づいて行く。



   税関をくぐるときの「対策」は、何も考えていなかっ

 た。考える必要性さえ感じていなかった。



   ところが、もう三メートルほどでカウンターだという

 ところで、トランクがプーンと匂った。あの甘くむせる

 ドリアンの匂いだった。



  (しまった。ばれる)と、ふやけた私の倦怠感を引き

 締める暇もあらばこそ、吏員は、

  「何か申請するものは?」と、先に近づく啓子に問い

 かけていた。

  「いいえ」



   啓子は問われた意味をよく考えないで答えている。

  「どうぞ」



   吏員は私たちと荷物を通した。



   私は、あたかもタダ乗りをして改札をくぐるような気

 持ちで、歩を速め、急ぎ去った。

  トランクは、私の気持ちに反して、甘い匂いを発し続

 けていた。



   長くここにはとどまれない。外に来ていたバスにすぐ

 乗った。前の席を陣取る。

  「三越に寄るか」

  「なんで」

  「保険の手続き、しといたほうがええのと違うか」



   八月の真昼は、どんよりと曇り、蒸し暑いばかりで、

 すっきりしない。満員に近いバスでは不快指数が次第に

 高まってくる。



   テレビ塔の下、全日空前で降りるのが、栄へはいちば

 ん近い、と運転手が案内した。

  「そこからやったら三越へはだいぶんあるでえ。荷物

 も多いし……また日を変えて出直そ」



   私は気だるくそう言った。



   名古屋駅付近で昼飯を食べた。



   恵美か誰かに(今、帰って来た)と電話しようと思っ

 ていたのだったが、それもどうでもよくなっていた。



   近鉄電車が三重県に入るころから、ぽつぽつと雨が当

 たり出した。窓に斜めの水滴が垂れていた。



   この潤いのある日本の野原を、うつろな眼で眺めやり

 ながら、電車は走って行く。



   もう一時間足らずで、寛げる。すべての緊張から解放

 される。それまでもうほんの少しの辛抱だった。私は、

 トランクに手を衝いて、上体の支えにしていた。



   降りて鼓ケ浦の駅を出ると、雨ははっきりと降り出し

 ていた。                      ☆
P-145

☆  ニースでは子供に財布を奪われ、パリではカメラを盗

 まれ、さらには気に入っていた帽子をシンガポールに置

 き忘れて、傷だらけになっている私の気持ちを、この雨

 の雰囲気がみじめに表出している。



   そんなわが身をいささか感傷ぎみに思いながら、ぬれ

 そぼる雨の味わいに甘んじて歩いていった。      ☆
P-146 あ と が き

☆ 人生の転換点は、いくつかある。



   深く考えもしないで「ええい」とばかり選択した転換

 点もあったし、河の流れのようにごく自然に曲がった転

 換点もあった。



  「さすらいの風景画」に描いたように、突然やってき

 た病気が、私にものを書くゆとりを見い出すように仕向

 けた。これも転換点の一つだった。



   それ以来、外に出るときはノートを携え、車中でもホ

 テルでも、書きたくなれば書くように心掛けているし、

 ワープロにも原稿形式で、いつでもキーインできる体制

 ができている。



   文章のできばえがよくて、どこかで何かの賞を得る夢

 や山気もないではないが、それよりもいちばんのお得意

 の読者、つまり自分のために書く。



   今はまだ体力があって、じかに「見、聞、触、食」す

 るなど、この生身で経験する。けれど、一回限りのはか

 なくも貴重な体験だ。それをこうして書き留め、なるだ

 け豊富に、なるだけ正確に思い出せるような資料作成に

 努める。



   すると読者としての私が、あの時の、あの経験をと、

 幾度も繰り返し、好きなときに思い出して楽しむことが

 できる。



   いつの日か、私は体力を失って、「自力」で旅をする

 にふさわしくない時が来る。



   その時私は、この文章とビデオとを傍らに、自力の限

 り挑んで残した「青春」の記録を、満足げに楽しむだろ

 う、「人生は旅であった」「旅は人生の砥石だった」と

 定義づけながら。                  ☆
※                                 

  旅日記であるため、本文中に日付以外の小見出しはない。

  目次は、「こういうこと」が「このページ」の辺りに書

 いてあるという目安である。
※  いかがでしたか?  ご感想をくださる方は、ホムページの最下欄からE-Mail、  あるいは電話、郵便でお寄せください。      〒510-02鈴鹿市寺家3-1-14 (Tel 0593-86-3967)       薮野 豊
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