虹が跨いだ風景画「パースの初夏」
(「 風 景 画 」シリーズ 7)
☆ーあー☆ 旅行社で
☆ ある日かれは、「ナンバーワン・トラベル」という旅行社へ
行った。格安航空券を扱う旅行社の一つである。
かれがここに来たのは、二度目であった。
初回は、ウイーンへ行くにはどんな航空会社がいいかとか、
空席事情や値段などについて、コンピューターの画面を前に
かなり詳しい話しを聞いている。
そのわずか後に、かれはもう一つの旅行社に出向いてウイー
ン行きを予約したのだった。こちらの方が、実は高い料金を示
したのだったが、旅行社のスタッフや雰囲気など、かれの直感
で「安全」性を感じたからだった。
今回、その時安全性が希薄に感じられた旅行社の方に来たの
は、ウイーン行きと同じ航空会社を使うのなら、どこから入手
した航空券でも変わりはないと信じるに至ったからであった。
そうならたとえ一万円でも安ければ、経済性を重んじるかれに
は嬉しいことであったのだ。
「パースへね、行きたいんだ。」
「いつごろ、でしょうか。」と、若い男性スタッフが椅子をす
すめてから、画面にスイッチを入れて、尋ねた。
「十一月の一日から数日内ならいい。」
「分かりました。」と言いながら扱うキーボードと画面が、ス
ムーズに働かない。「シンガポール航空と、キャセイパシフィ
ック、それからマレーシア航空があります。」
「接続とか、料金の違いとか、あ、それからチケットはオープ
ンかどうかとか、いろいろーーー」
「はい、すぐ分かりますけどーー」と、画面を操作しようとし
て難渋している。
奥から、割り込むように女子スタッフが来て、男子職員に何
か言った。
「私がお聞きします。」
前回話しを聞いたのはこの人からだった。その表情が<覚え
ています>と言っている。
画面は、その人の器用な指で動き始めた。
「ありますよう。オープンでありますねえ。料金は、ちょっと
待ってくださいねえ、十一月はちょっと違って、はい、出まし
た。」
かれは、心を決めてから来ていた。航空便の接続も、オープ
ンチケットであることもすでに知っているのだった。尋ねなが
ら確かめる。値段を聞きながら瀬踏みをする。
「予約、されます?」
「だねえ。そうしようか。今日は予約金なんか持ってないけど、
いい?」
「いいですよ。住所、お名前、電話番号、ーーください。」
飛行機はまずクアラルンプールに飛ぶ。そこで乗り継いでパ
ースに入る。到着が早朝の二時二十五分というのが少々難点だ
が、往復で九万九千円は、だれかに申し訳ないほど安い。
「今ね、ほら、ここだけ取れません。他はみんな空いてます。
予約入れておきますね。行きのクアラルンプール、パース間だ
けウエイティングにしときます。」
「待てばあるの?」
「わかりませんけどね。」
「あなたの勘でさ、これくらいの確率であるとか、難しいとか、
言ってくれる?」「ええ、多分ありますよ。プッシュしますか
ら。」と笑っていた。
「取れたら、お宅へお電話しましょうか。」
「うん、どっちでもいい。いつも土曜日は来るんだ。来週ここ
へ来る、予約金を持って。」
別れ際に、彼女は名刺を出した。
「キン・ギョウラン さん? キムさんですか?」
「いいえ、エムではありません。」
「ごめん。では中国のかた?」
「はい。」
どう見ても異国の人には思えないこの女性スタッフに、かれ
は並々ならぬ親近感を抱きはじめていた。
「じゃっ。」と立って、エレベーターに入った。
ビルにはどんな人が出入りするのか、人の顔ほどの大きさの
「女性器マーク」が機内のフェルトの上にマジックインクでくっ
きりと描かれてあった。
☆ |
☆ーいー☆ 出発の日
☆ その日、かれは通勤時間を避けるため、七時前に家を出た。
大きいスーツケースと機内持ち込みのキャスター付きスーツケ
ース二つを夫婦で分け持っている。
ラッシュアワーにはまだ早いとはいえ、遠距離通勤らしい乗
客が目につくので、普段はあまり利用することがない特急に乗
ることにした。特急には人の邪魔にならない程度に大きな荷物
が置ける場所がある。
かれはこの日、複雑な服装をしていた。
レインコート兼用のコートを羽織ってはいたが、その下は冬
服ではなかった。合服とも言いかねる。夏服にトレーナーを重
ね着したのだ。クアラルンプールは日本の真夏の気候だし、目
的地のパースは、初夏に当たるはずだったからだ。
肌には、隠しポケット付きのランニングと尻に巻く腹帯ふう
の「セイフティーベルト」を着けている。ランニングにはパス
ポートと航空券が、腹帯にはC.T(トラベラーズチェック)と現金十万円が
隠されてあった。かれの妻は、現金二十万円を同じく隠し袋に
いれて肌に着けているのだった。
また、かれは腰にウエストバッグを帯びている。日常的に必
要なものは、すべてここに入る。主な物を挙げると、筆記用具、
出納帳、外貨換算表、スーツケースの鍵、磁石、目薬、睡眠薬
などだが、痴漢防止ブザーも入れてあった。
服装や携帯品とそのスタイルは、幾度も海外旅行をするうち
に「定式化」されている。「定式化」などと表現すると、
「マンネリ」のことばが連想されるかも知れないが、実は非常
に大事なことなのである。旅先で混乱することを予防する。例
えばスーツケースの鍵なんか、かつてどこにしまったかが思い
出せずに困ったこともあった。今やそれはいつもウエストバッ
グの一番奥の仕切りに入っている。パスポートもいつも心臓の
上の肌に接してランニングのポケットにある。
こうして、左手首にはいつも腕時計があると同じくAはA場
所に、BはB場所、CはC場所と「定式」ができあがっている
のだった。
特急電車は、わずか十分ほど座ったが、次の駅で指定席券を
持った客が乗ってきて、かれは立たねばならなかった。かれは
立って新聞を読むが、文字は意味にならなかった。雑念が脳裏
をよぎり続ける。いや、あながちに雑念とも言いきれない事柄
に思いが及んで仕方がないのだった。
<新聞はちゃんと止まるかな。>
二十二日間も留守にする家の玄関に新聞二種と雑誌一種、さ
らに郵便物がわんさと詰まるのは、見るのもいやだし、留守宅
の用心も悪い。だから一週間前、集金に来た店員に「店へ留め
置き」を依頼したのだった。いつもそうするから、集金人はす
ぐ「はい。分かりました。」とメモして帰った。
ところが出発の朝、つまりこの朝、朝刊が入ったのだ。だか
らこうして読んでいる。六時半、かれは電話をした。
「止め置くように依頼したのに、どうして入るの? ちゃんと
してよ。」
「済みませんでした。聞いてなかったもんで。」
「聞いてなかって、困るよ。そんなことのないようにって念を
押して頼んだんだよ。いいね、きちんとやってくれるね?」
「はい。分かりました。」
この言葉を、かれは半ばしか信用していない。留守宅に不様
につっこまれた多量の印刷紙が想像された。
<留守番電話にしてきたかな。>
<ガスの元栓、止めてきたかな>
<二階のあそこ、鍵締めたやろか>
<居間のテレビは、あのままで加熱するってことあらへんか>
こんなことを思ったりすると、行き着く先には、<万一のこ
とがあったら>とか<これがここの見納めかも知れん>などと
不吉な想念がうろつく。
空港に着くまでそんな想念の虜になっていた。長い留守をす
ること、それから飛行機に乗って外国へ行くこと、この二つは、
かれにとっていつも、いわば人生の重大な節に思えるものだか
らであった。
西春駅からは空港行きのバスに乗る。何故かこの朝、バス待
ちの列が出来ていた。<交通事故じゃないだろうなあ。>と
「不吉予感」がちらとよぎる。
混雑したバスの荷物置き場につかまって立つ。身体を触れ合
わせて立つかれらよりやや年上の夫婦がいて、話し掛けてきた。
「どちらへ?」
「パースへ。」
「どこです?」
「オーストラリアの西側。」
「ああ。シドニーへはこの間、行ってきました。ニュージーラ
ンドからずっと回ったんです。」
「わたしたちもねえ、去年、ちょうどこの頃、クライストチャ
ーチに行ったの。」
と、かれの妻が言った。
この人たちは、ツアーで回ったらしい。マウント・クックや
ミルフォードサウンドの壮観から受けた忘れがたい印象を言っ
た。
かれの妻は、個人の自前旅行をたしなむのだと言ったのに続
けて、
「あちこち歩きましたけど、向こうの花がとっても大きくて、
きれいでーー、何やったあれ? つつじみたいなーー」
「しゃくなげーーか?」
「しゃくなげが、日本のよりずっと大きくて、ちょうど真っ盛
りでした。」
かれは、妻が人に語ることばに張りがあるのを感じていた。
<今始まる旅も、いつかこのように誰かに語られるだろうか>
と思った。
「おたくは、どこの国へ?」
「いや、東北旅行です。いま紅葉がいいから。」
国際空港で、互いの旅の満喫と無事とを祈って別れた。
慣れるということは要領がよくなることでもある。荷物を安
全チェックし、航空券を受け取る。チェックインを済ませ身軽
になると、残りの一時間半ほどを、いつものことながらこうし
て過ごす。
国内線側に手軽な食堂がある。空港の食堂は、たいてい街中
でかれが食べる程度の大衆性がない。品よく高い。だがここだ
けは、いわゆる一膳飯屋の雰囲気がある。ガラス棚から小皿の
「冷や奴」「煮魚」など取って勘定してもらう。
空港内の循環バスは無料、十分ごとに走るから問題なく往復
できる。かれは「煮魚」の鯖とビールを、妻は「サラダ」を、
それぞれ取った。750\であった。かれはすぐウエストバッグか
ら「コクヨこづかいちょう」を取り出して記帳した。これも「定
式」の一つである。ビタ一文だって見逃さずに記帳することに
している。
時刻を見計らって搭乗四十分ほど前にはボディーチェックを
くぐり、出国手続きを済ませる。
☆ |
☆ーうー☆ 搭乗心得
☆ 航空会社それぞれにどんな個性があるのか、かれには言える
ほどの材料を持ち合わせてはいないが、マレーシア航空で感じ
るのは、搭乗にあたって新聞が豊富に積み上げられていること
だ。中国語のもある。旧漢字のは台湾のだろうか。機内は清潔
で建材の新しさを感じる。
かれにはある一つのこと以外には、この会社に不満は何もな
い。つまり、ボーナス・サービスがないのだ。いや、厳密に言
えばある、あるのだがかれにはその資格が得られないのだ。
かれはかつてシンガポール航空、バージンアトラティック、
アシアナ航空、大韓航空などに乗ったことがある。そして大韓
とアシアナとにはサービスを受けられる会員に登録しいる。大
韓航空の場合は「FTBS=フリークエントトラベラーボーナスシステムの会員は利用
実績を累計計算して無料航空券などの特典を提供する」として
いるし、アシアナの場合も「AsianaBonusClub」会員に同様の
特典を提供する。かれはエコノミー・クラスに乗るのだが、そ
れでも構わず実績が累積する。
航空会社の中にはビジネス・クラス以上だけに特典があった
りするが、かれは搭乗を楽しむ意思はなく、運輸の手段として
理解しているだけだった。
乗ってすぐ、かれは妻の不平を受けることになった。と言う
のは、チェックインする時、「窓際、ノンスモーキング、そし
てできればトイレに近いところ」と注文したのだったが、窓際
を最優先して注文しなかったのがいけない、とは妻の不平の趣
旨だった。窓際ではなかった。
景色はほとんど見えない。背伸びして<伊勢湾口か><鹿児
島か>と雲間から垣間見える島影を想像することが二、三度あ
っただけだ。
リフレッシュメントとは、かれの場合、アルコールを意味す
る。最初にビールを、二度目にはウイスキーを言った。つまみ
のアーモンドは、すぐさまバッグに仕舞った。いつかどこかで
いいおやつになるからだった。
お代わりを聞きに来た時、<この辺で>とちらっとは思った
もののほろ酔いの快感が「ウイスキー、プリーズ」とはっきり
言わせてしまった。
気分よく酔って、ご馳走をかなり食べた。かれには戒めがあ
る。およそ六分めにとどめる事。だが八割方は食べた。
「破戒」である。不吉予感がちらとよぎる。
おいしかった。妻はビーフのを、かれはチキンのをもらった
が、同時にワインでたしなむから、サラダをも平らげ、デザー
トまで胃に納まっていった。
ペナンまで六時間ほどかかる。かれの身体は次第に変調を来
たした。トイレに二三度入っても、直ろうとはしなかった。リ
クライニングや脚を伸ばして姿勢を楽にする努力をする。だが
ますます気分は悪化して、とうとう過呼吸のようになった。
<血中の酸素が少ない>と思えるのだ。だから息が大きくて荒
い。苦行だった。破戒は罰で報いられたのだ。
ペナンでは一時間、機外に出る。待合室で身体の調子が好転
するのをじっと待った。だらしなく椅子に座ったままで見る天
井に、長い四つ羽の旋風機が物憂げに回っていた。
「ちょっと売店を見てくるわ」と妻が言った。
「オレ、いかへん。荷物、ここへ置いて行き。」とだれた姿勢
のままでかれは言った。
妻の後ろ姿を見るともなく見ながら、三つの荷物のそれぞれ
を寄せて右手で覆った。旅にあっては極度に管理意識が働くの
だ。
そうしながらも<しばらくこうしていれば直るさ>という楽
観と<病気の始まりかも>との悲観とが意識に混じり合ってい
た。
☆ |
☆ーえー☆ 旅は道連れ
☆ クアラルンプールの空港はもう慣れている。着地してから機
外に、そしてバスから空港ビルに入る、その間が長い。名古屋
空港で十五分ならここは四十五分だ。トランジット窓口で搭乗
券を見せると、「ゲートは17だ。」と教えた。
近くに椅子を見つけて座る。
しばらくして三人連れの日本人が近づいてきた。
「外に出るにはどういけばいいんでしょうか。」と娘さんがか
れに尋ねた。
後ろに高齢者夫妻がいて、彼女に尋ねたのだった。彼女はロ
ンドンへ行く。乗換えだ。夫妻は息子がこの地に派遣されてい
る。出口の3番で待ってる、と言う。
かれは、ガイドの如く、また空港職員のごとくサービス精神
を蘇らせた。
「乗換えはねえ、そこ、そこのデスクで航空券を見せたらいい。
何か必要なら言うから。」と若い女性には伝え、高齢夫妻には、
「ご一緒しましょう。いや、いいんです。私、時間はたっぷり
ありますから。」 と入国のゲートに誘った。
道しるべは、そういう眼で見ると分かりにくい。
TRANSITとか、IMMIGRATIONまたはEXITの区別がはっきりしな
いのだ。KELUARとあるのがこの国「出口」という意味らしい。
階段を下るとそこに広いホールがあり、向こう側に出入国管
理の吏員がボックスを十いくつか連ねている。
「すみませんねえ。」奥さんはまたかれに謝した。
「いいえ。あそこですよ。機内でカード、書いたでしょ。それ
とパスポートを出すのです。あ、一二三番はこの国の人です。
四番から後の列に並んだらいいのですよ。じゃ、わたし、これ
で。さっきお会いした場所に、ずっといますからね。何かあっ
たらいつでも。」
「ほんとうにありがとうございました。」奥さんが丁寧におじ
ぎした。
きびすを返してかれは戻る。
階段を昇るとき、首だけ振り返って二人を探した。二人は列
にまだ並ばずに三番の最後尾付近でまごついていた。
<息子さんが「三番出口で待つ」という言葉が二人を捕らえて
しまている>とかれは思った。だが、再びそばへは近寄らなか
った。この国の吏員は「官僚的」態度に徹する。この後、列に
並んでやっと順番がきても、「ここじゃない。四番から向こう
だ」とそっけなく言われるだろう。<勉強してもらうさ>
妻とロンドン行きの女性とのいる場所に戻ってきた。
かれはこの時、さっきまでかれを捕らえて離さなかった身体
の不快感が、不思議にも払拭されているのに気がついた。旅慣
れた経験者が、未熟な後輩に力を貸すという、いわば「有為な
行為」を、かれは今果たした。しかも得意にやった。そしてそ
れが自分の体調を変えた、と思った。
「おい、気分、直ったわ。」
「ほんと?」
「うん。オレは単純なんやに。ひとの為になっとるって意識す
ると、カラダもいきいきするのやさ。」
そうした得意気な表情のままで、ロンドン行きの女性と話し
はじめた。
「いや、ここは五六時間の余裕があっても街まで行く価値はな
いねえ。第一、出るのが遅いんだ。着陸からたっぷり一時間ぐ
らいみとくのがいい。それから、外へ出てタクシーで街へ行く
のに四十分以上かかる。」
「街はどうなんです?」
「伊勢丹付近とか、チャイナタウンとか、賑やかで楽しいとこ
ろもある。でも、半日ぐらいは欲しいねえ。」
彼女は、この時も帰路もここで接続に五時間ほどを費やすの
だが、それを利用してクアラルンプールの街が見たいという計
画について、かれは自分の経験を豊富に披露して、不可能なこ
とだと悟らせようとしていた。
名前は聞かなかったが、彼女はN百貨店のお茶売り場でアル
バイトしていると言った。
「週一回、名古屋へ出る、勉強にね。覗くからね。」
「ええ、きっと。買ってくださいね。」
「うん。じゃあ、元気で行ってらっしゃい。」
「はい、ありがとうございました。お元気で楽しんでください」
かれと妻は、キャスターをNO17ゲートに向けて押した。
機内の座席は、二人が通路を隔てていた。妻が再びかれのチェ
ックイン時の注文の仕方をなじった。
「受付け女も気が利かんなあ、もう。」
「ちゃんと言わんのがいかんのやさ。」
かれの隣席は、イギリスに家族を住まわせ自分はオーストラ
リアで働くオーストラリアンだった。ありきたりの会話だが、
旅の道連れらしい会話をする。髭が濃く、手足がたくましい。
「椅子が小さい」と何度かぼやく。
外見に似合わずアルコールを口にしなかった。
かれは眠れた。だが気流が乱れているらしく時々激しく揺れ
る。揺れると言うより衝撃があると言うほうが合っている。揺
れからきしみ、衝撃と続いて「ベルト」のサインがある。放送
が入る。すると可なりの深い「不吉予感」が脳裏を占める。
揺れが収まって、また毛布を首まで引き上げ、両足を前の席
の下に伸ばす。
四五回、そうした後で、妻が席にいないことに気づいた。
<トイレにしては長いなあ>と、不安感を抱きながら待つ。二
度ほどそれがあった。
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